第32話 独立への道
朝、目が覚めた瞬間、胃の奥がむかついた。
「……っ」
私はベッドの端に座り、深く息を吐いた。
何だろう、この感覚。昨夜、何か変なものを食べただろうか。
「どうした」
隣でエミールが目を覚ました。
「大丈夫。少し気持ち悪いだけ」
「医者を呼ぶか」
「そこまでじゃないわ」
私は首を振った。
しばらく座っていると、吐き気は収まった。
「本当に大丈夫か」
「ええ。もう平気」
エミールは心配そうな目で私を見ていたが、私が立ち上がると、それ以上は言わなかった。
きっと、疲れているだけだ。
最近、リゼットの独立試験のことで気を張っていたから。
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工房に着くと、リゼットが既に作業台に向かっていた。
だが、いつもの製作作業ではない。独立試験の実技課題——指定された魔道具の製作——の練習だ。
「おはようございます、師匠」
「おはよう。調子はどう?」
「はい。今日は防護の短剣に挑戦しています」
リゼットの前には、小ぶりの短剣が置かれていた。刃渡りは手のひらほど。装飾は控えめだが、形は整っている。
「見せて」
私は短剣を手に取った。
付与の紋様を確認する。刃に刻まれた細かな線。魔力の流れを示す回路。
「悪くないわね」
「本当ですか」
「ただ、ここ」
私は刃の根元を指さした。
「紋様の接続が少し浅い。これだと、強い衝撃を受けた時に付与が解ける可能性がある」
リゼットは真剣な目で見つめた。
「どうすれば」
「接続部分を二重にするの。手間はかかるけど、安定性が増す」
「なるほど……」
リゼットは頷き、すぐにメモを取った。
「師匠、もう一度やってもいいですか」
「もちろん」
私は椅子に座り、リゼットの作業を見守った。
彼女の手つきは迷いがない。三年前とは別人のようだ。
あの頃の彼女は、才能はあっても形にする力がなかった。独学で学んだ技術は荒削りで、基礎が抜けていた。
今は違う。
基礎は完璧。応用も、独自の工夫も。何より、自分の弱点を理解し、それを克服しようとする姿勢がある。
一時間後、リゼットが新しい短剣を完成させた。
「どうでしょうか」
私は再び手に取った。
接続部分は二重になっている。紋様の流れも滑らかだ。
「合格よ」
リゼットの顔が輝いた。
「ありがとうございます」
「でも、油断しないで。試験本番は、もっと難しい課題が出るかもしれない」
「はい。心得ています」
リゼットは頷いた。
その目には、三年前にはなかった自信があった。
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午後、私は書斎で推薦状を書いていた。
独立試験には、師匠の推薦状が必要だ。弟子の技術と人格を保証する書類。これがなければ、試験を受けることすらできない。
ペンを走らせながら、私は三年間を振り返っていた。
最初の出会い。工房の前に立っていた痩せた少女。
弟子入り志願。粗削りだが才能のある護符。
試用期間。基礎の徹底。
正式な弟子。ロランの誘惑を断った日。
成長。エリーズを「おねえちゃん」と慕う娘。
そして今、独立の時が近づいている。
「師匠」
扉が開いて、リゼットが顔を出した。
「お茶をお持ちしました」
「ありがとう」
リゼットがカップを置いた。湯気が立ち上る。
「何を書いているんですか」
「あなたの推薦状よ」
リゼットの目が見開かれた。
「見せて、とは言わないわ。でも、心配しないで。あなたを落とすようなことは書かない」
「師匠……」
「あなたは、私の自慢の弟子だから」
リゼットの目が潤んだ。でも、彼女は泣かなかった。
「ありがとうございます」
私はペンを置いた。
「ねえ、リゼット」
「はい」
「独立したら、何をしたい?」
リゼットは少し考えた。
「自分の工房を持ちたいです」
「それは当然ね。他には?」
「他に……」
リゼットは窓の外を見た。春の日差しが、工房を照らしている。
「孤児院の子供たちを、助けたいです」
私は黙って聞いていた。
「私は孤児院で育ちました。辛いこともたくさんありました。でも、師匠の護符に救われた」
リゼットの声が静かになった。
「弟が亡くなる時、月影の護符があったから、弟は笑って逝けました。痛くない、怖くない、って」
私は何も言わなかった。
「だから、私も同じことがしたいんです。孤児院の子供たちに、護符を届けたい。苦しんでいる子供たちを、少しでも楽にしてあげたい」
リゼットは私を見た。
「そのために、独立したいんです。自分の工房を持って、自分の力で稼いで、それを孤児院に届ける」
私は立ち上がり、リゼットの前に立った。
「いい夢ね」
「師匠……」
「応援するわ。いつか、あなたがその夢を叶えるのを見届けたい」
リゼットの涙が、ついに頬を伝った。
「ありがとう、ございます……」
私はリゼットの肩に手を置いた。
「でも、まずは独立試験ね。夢を叶えるには、まず一人前にならないと」
「はい」
リゼットは涙を拭い、頷いた。
「必ず、合格します」
その言葉には、決意があった。
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夜、寝室でエミールと向かい合っていた。
「推薦状は書けたか」
「ええ。明日、協会に届けるわ」
「そうか」
エミールは私の顔を見た。
「顔色が悪いな」
「そう?」
「朝も気持ち悪いと言っていた」
私は少し考えた。
確かに、今日は一日中、どこか体が重かった。いつもの疲れとは違う、説明しにくい感覚。
「疲れているだけよ。リゼットの試験のことで、気を張っていたから」
「無理をするな」
「してないわ」
「している」
エミールは私の手を取った。
「君は、いつも一人で抱え込む」
「その癖は治したはずよ」
「完全には治っていない」
私は苦笑した。
確かに、そうかもしれない。
「明日、医者に診てもらえ」
「大げさよ」
「大げさでもいい。俺が心配だ」
エミールの目は真剣だった。
私は溜息をついた。
「わかったわ。明日、診てもらう」
「約束だぞ」
「約束よ」
エミールは私の手を握りしめた。
その温もりが、心地よかった。
「リゼットの夢を聞いたの」
「夢?」
「独立したら、孤児院の子供たちを助けたいんですって」
エミールは黙って聞いていた。
「自分の工房を持って、稼いだお金で護符を届けたいって。あの子、本当に成長したわ」
「君の教育の成果だな」
「私だけじゃないわ。あの子自身の力よ」
私は窓の外を見た。
春の夜空に、星が瞬いている。
「あと三ヶ月弱で、あの子は巣立っていく」
「寂しいか」
「少しだけ」
私は微笑んだ。
「でも、嬉しい方が大きいわ。あの子が自分の夢を持って、それに向かって歩いていく。それを見届けられるなんて」
エミールは何も言わず、私を抱き寄せた。
「君は良い師匠だ」
「何度も言うのね」
「何度でも言う」
私は彼の胸に顔を埋めた。
温かかった。
明日、医者に診てもらおう。
きっと、何でもない。疲れているだけだ。
そう思いながら、私は目を閉じた。




