第31話 三年後の春
春の朝日が、寝室のカーテンを透かして差し込んでいた。
隣で眠るエミールの寝息を聞きながら、私は静かに目を開けた。
三年。
エリーズが生まれてから、もう三年が経った。
あの頃は何もかもが初めてで、不安で、でも幸せだった。今は——やはり幸せだ。ただ、あの頃とは違う種類の幸せ。
穏やかで、温かくて、当たり前のように続いていく日々。
「ママ」
扉が開いて、小さな足音が近づいてきた。
「ママ、おきて」
エリーズだ。三歳になった娘は、毎朝こうして起こしに来る。
「おはよう、エリーズ」
私はベッドから身を起こし、娘を抱き上げた。
「おはよ!」
エリーズは満面の笑みを浮かべた。黒い髪はエミール譲り、目元は私に似ていると言われる。
「パパもおきて!」
エリーズがエミールの頬をぺちぺちと叩いた。
「……起きている」
エミールが目を開けた。寝起きでも、娘を見る目は優しい。
「パパ、おはよ!」
「ああ、おはよう」
エミールはエリーズの頭を撫でた。
私たちの朝は、いつもこうして始まる。
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朝食の後、私は工房へ向かった。
エリーズは乳母のマルトに預けている。最初は離れるのが寂しかったが、今では「ママ、おしごとがんばって」と送り出してくれる。
工房の扉を開けると、既にリゼットが作業を始めていた。
「おはようございます、師匠」
「おはよう」
リゼットは十九歳になっていた。
あの日、工房の前に立っていた痩せた少女の面影はもうない。背は私より少し低いくらいまで伸び、手つきには自信が宿っている。
「今日の注文は?」
「防護の腕輪が五つ、治癒促進の首飾りが三つ、それと安眠の護符が十です」
「一人で大丈夫?」
「はい。午後には全て仕上がります」
リゼットは迷いなく答えた。
三年前、彼女は基礎もおぼつかなかった。独学で学んだ技術は荒削りで、才能はあっても形にする力が足りなかった。
今は違う。
基礎は完璧に身についている。応用も、独自の工夫も。私が教えられることは、もうほとんどない。
「あと三ヶ月ね」
「はい」
リゼットの手が一瞬止まった。
「独立試験」
「……はい」
三ヶ月後、リゼットは独立試験を受ける。合格すれば、正式な付与魔法師として認められ、自分の工房を持つことができる。
「緊張している?」
「正直に言えば、少し」
リゼットは苦笑した。
「でも、逃げるつもりはありません。師匠に教わったこと、全部出し切ります」
「そう」
私は彼女の隣に座った。
「あなたなら大丈夫よ」
「師匠……」
「私が保証する。あなたは、もう一人前の職人だわ」
リゼットの目が潤んだ。でも、彼女は泣かなかった。三年前の彼女なら、泣いていただろう。今は違う。
「ありがとうございます」
リゼットは深く頭を下げた。
「師匠のような職人に、なります」
「私のような、じゃなくていいのよ」
私は首を振った。
「あなたは、あなたの職人になりなさい。私の真似をする必要はない」
リゼットは顔を上げた。
「でも、師匠は私の目標です」
「それは嬉しいけど」
私は立ち上がった。
「目標は超えるためにあるの。いつか、私を超えなさい」
リゼットは目を見開いた。
そして、笑った。
「はい。必ず」
その笑顔には、三年前にはなかった強さがあった。
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昼過ぎ、工房の扉が開いた。
「リゼットおねえちゃん!」
エリーズが駆け込んできた。マルトが慌てて後を追っている。
「申し訳ありません、奥様。お嬢様がどうしても工房に行きたいと……」
「いいのよ、マルト」
私は笑った。
エリーズはリゼットが大好きだ。「おねえちゃん」と呼んで慕っている。
「エリーズ様、こんにちは」
リゼットがエリーズの前にしゃがんだ。
「今日は何をしてたの?」
「おえかき!」
エリーズが紙を広げた。色とりどりの線が描かれている。
「これ、なあに?」
「これはね、パパとママとエリーズと、リゼットおねえちゃん!」
四つの丸が描かれていた。大きいのが二つ、小さいのが二つ。
「家族の絵ね」
リゼットが微笑んだ。
「私も入れてくれたの?」
「だって、おねえちゃんも家族だもん」
エリーズは当然のように言った。
リゼットの目が潤んだ。今度は、涙が頬を伝った。
「ありがとう、エリーズ様」
「おねえちゃん、なんで泣いてるの?」
「嬉しいからよ」
リゼットはエリーズを抱きしめた。
私はその光景を見つめていた。
三年前、リゼットは孤児院から来た。家族を知らない少女だった。弟を亡くし、一人で生きてきた。
今、彼女には家族がいる。
血は繋がっていなくても、確かに家族だ。
━━━
夜。
エリーズを寝かしつけた後、私は寝室でエミールと向かい合っていた。
「リゼットの独立試験、三ヶ月後だそうだ」
「ええ」
「寂しいか」
私は少し考えた。
「少しだけ」
正直な気持ちだった。
「でも、嬉しい方が大きいわ。あの子が巣立っていくのを見届けられるなんて」
「そうか」
エミールは私の手を取った。
「君は良い師匠だな」
「そうかしら」
「ああ。リゼットを見ればわかる。あの子は、君に出会えて幸せだ」
私は窓の外を見た。
春の夜空に、星が瞬いている。
「私もよ」
「何が?」
「私も、あの子に出会えて幸せ。あなたにも、エリーズにも」
エミールは何も言わず、私の手を握りしめた。
その温もりが、全身に広がっていく。
三年前、私は一人で全てを背負おうとしていた。頼ることを知らず、抱え込む癖が抜けなかった。
今は違う。
隣には彼がいる。娘がいる。弟子がいる。
一人じゃない。
「リゼットが独立したら、工房はどうするつもりだ」
「続けるわ。でも、少し規模を縮小するかもしれない」
「新しい弟子は?」
「いつかは、ね」
私は微笑んだ。
「でも今は、リゼットの独立を見届けることが先よ」
「そうだな」
エミールは頷いた。
「あと三ヶ月か」
「あっという間よ、きっと」
私は目を閉じた。
三ヶ月後、リゼットは独立する。
私の弟子が、一人前の職人になる。
それは終わりではない。新しい始まりだ。
私が紡いできた技術が、次の世代へ受け継がれていく。
そして、その先へ。
春の夜風が、窓を揺らしていた。




