第30話 未来を紡ぐ
痛みは、波のように押し寄せてきた。
何度も、何度も。
寝室には医師と侍女たちがいた。私は彼女たちの指示に従い、呼吸を整え、力を込めた。
時間の感覚がなくなっていた。
夜が明けたのか、まだ暗いのか。わからない。
ただ、痛みだけがあった。
「もう少しです、奥様」
医師の声が聞こえた。
「あと少し、頑張ってください」
私は歯を食いしばった。
前世では経験したことのない痛み。体が引き裂かれるような感覚。
でも、怖くはなかった。
この痛みの先に、会いたい人がいる。
「っ……!」
最後の力を振り絞った。
そして。
「おぎゃあ」
小さな、でも力強い産声が響いた。
私は目を開けた。
「おめでとうございます、奥様」
医師が微笑んでいた。
「元気な女の子ですよ」
女の子。
私の娘。
侍女が、白い布に包まれた小さな命を私の腕に渡してくれた。
小さかった。こんなにも小さいのかと思った。
赤い顔。閉じた目。小さな小さな手。
私の目から、涙がこぼれた。
「よく来たわね」
声が震えた。
「待っていたの。ずっと」
娘は泣き止み、私の腕の中で静かに眠り始めた。
温かかった。
こんなにも温かいものが、世界にあったのかと思った。
---
扉が開いた。
エミールだった。
彼は部屋に入るなり、足を止めた。私と、私の腕の中の小さな命を見て。
「……シルヴィア」
「女の子よ」
私は微笑んだ。
「あなたの娘」
エミールがゆっくりと近づいてきた。
その目は、私が今まで見たことのないものだった。畏れと、喜びと、信じられないという気持ちが混ざり合っている。
「抱いてみる?」
「いいのか」
「当たり前でしょう」
私は娘をエミールに渡した。
彼は慎重に、壊れ物を扱うように、娘を抱いた。
「軽い」
「そうね」
「こんなに小さいのか」
「すぐ大きくなるわよ」
エミールは娘の顔を見つめていた。
長い沈黙だった。
やがて、彼の目から涙がこぼれた。
「エミール」
「すまない」
彼は涙を拭おうとしたが、両手が塞がっていてできなかった。
「泣くつもりはなかったんだが」
「泣いていいのよ」
私は彼の頬に手を伸ばし、涙を拭った。
「私も泣いたわ」
エミールは小さく笑った。
「君がいてくれてよかった」
「私こそ」
「この子を産んでくれて、ありがとう」
私は首を振った。
「お礼を言うのは私よ。あなたがいなければ、この子は生まれなかった」
私たちは見つめ合った。
娘が、小さな声を上げた。
二人の視線が、同時に娘に向かった。
「名前」
エミールが言った。
「決めないとな」
「そうね」
私たちは以前、いくつかの名前を考えていた。
「エリーズはどうかしら」
私は言った。
「春に生まれた子だから。春の光を意味する名前」
エミールは娘を見つめた。
「エリーズ」
その名を、噛みしめるように呟いた。
「エリーズ・ド・クレシー」
娘が、まるで返事をするように小さく動いた。
「気に入ったみたいね」
「ああ」
エミールは微笑んだ。
「エリーズ。俺たちの娘だ」
私は二人を見つめた。
夫と、娘。
私の家族。
こんな日が来るとは、三年前の私には想像もできなかった。
名ばかりの妻として、誰にも必要とされず、一人で工房に籠もっていた日々。
あの日、離縁届を置いて家を出た。
あの決断が、全ての始まりだった。
自分の足で立つと決めた。
そして今、私は一人ではない。
隣には彼がいる。
腕の中には、娘がいる。
「幸せよ」
私は呟いた。
「私、今、とても幸せ」
エミールが私の手を取った。
「俺もだ」
窓の外では、春の朝日が昇っていた。
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数日後、祝福の訪問者たちが次々と訪れた。
最初に来たのは、リュカだった。
「姉上、おめでとうございます」
弟は、少し照れくさそうに花束を差し出した。
「叔父になったんですね、僕」
「そうね」
私は笑った。
「エリーズ、こちらはリュカ叔父さんよ」
リュカは恐る恐る娘を覗き込んだ。
「小さい……。僕に似てますか?」
「どうかしら。エミールに似ている気がするけど」
「そうですか」
リュカは少し残念そうだった。
「モンフォール家の再建は順調よ」
リュカは胸を張った。
「はい。来年には、領地の収益も安定する見込みです。全て、姉上のおかげです」
「私じゃないわ。あなたが頑張ったからよ」
「でも、姉上が助けてくれなければ、僕は今でもギルベールの言いなりでした」
リュカは真剣な目で言った。
「本当に、ありがとうございました」
私は弟の頭を撫でた。
「これからも、頑張りなさい」
「はい」
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リゼットも来た。
「師匠、おめでとうございます」
彼女は大きな籠を抱えていた。中には、工房で作った護符が詰まっていた。
「これは」
「エリーズ様へのお祝いです。私が作りました」
リゼットは誇らしげに言った。
「防護の護符、安眠の護符、健康祈願の護符。全部、基礎から応用まで、師匠に教わった技術で作りました」
私は護符を手に取った。
丁寧な仕事だった。付与の紋様は正確で、魔力の流れも安定している。
「上手になったわね」
「師匠のおかげです」
リゼットは頭を下げた。
「工房は、私がしっかり守ります。師匠は、ゆっくり休んでください」
「ありがとう」
私は微笑んだ。
「任せたわ」
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王妃マリアンヌ陛下からは、祝いの品と手紙が届いた。
手紙には、こう書かれていた。
「シルヴィア・ド・クレシーへ。エリーズ嬢のご誕生、心よりお祝い申し上げます。あなたは、この王国の誇りです。これからも、その技術と心で、人々を助けてください。そして、幸せな家庭を築いてください。王妃マリアンヌ」
私は手紙を胸に抱いた。
春の大夜会で助けてくれた恩。裁定の時の推薦状。
王妃には、何度も救われた。
「いつか、お礼を言わないとね」
私は娘に話しかけた。
「エリーズ。あなたが大きくなったら、王妃様に会わせてあげるわ」
娘は、小さなあくびをした。
━━━
数週間後。
私は久しぶりに工房を訪れた。
エリーズを抱いて。
「師匠」
リゼットが駆け寄ってきた。
「もう大丈夫なんですか」
「少しだけね。様子を見に来たの」
工房は、きちんと整理されていた。作業台には、製作中の護符が並んでいる。注文帳も、きちんと管理されていた。
「よくやっているわね」
「師匠に教わった通りにしています」
リゼットは胸を張った。
私は工房の中を歩いた。
懐かしい匂い。魔力の残り香と、木と金属の匂い。
ここで、私は全てを始めた。
一人で、六年間。
誰にも認められず、誰にも頼らず、ただ技術を磨き続けた。
でも今は違う。
「リゼット」
「はい」
「この工房は、いつかあなたのものよ」
リゼットの目が見開かれた。
「師匠……」
「私は、ずっと一人で抱え込んできた。でも、それは間違いだった」
私はエリーズを見つめた。
「技術は、継承するもの。一人で抱え込むものじゃない」
窓から、春の光が差し込んでいた。
「あなたが次の月影の工房を継ぐ。そして、あなたもいつか弟子を取る。そうやって、技術は受け継がれていく」
リゼットの目に涙が浮かんだ。
「はい。必ず」
「期待しているわ」
私は微笑んだ。
エリーズが、小さな声を上げた。
「お腹が空いたのね」
私は工房を後にした。
背後で、リゼットが深く頭を下げているのが見えた。
━━━
公爵邸の庭園で、エミールが待っていた。
「どうだった」
「順調よ。リゼットがよくやってくれている」
「そうか」
エミールは私の隣に並んだ。
二人で、庭園を歩いた。エリーズは私の腕の中で、穏やかに眠っている。
春の花が咲き始めていた。水仙、クロッカス、早咲きのチューリップ。
「きれいね」
「ああ」
「エリーズにも、見せてあげたいわ」
「もう少し大きくなったらな」
エミールは娘の顔を覗き込んだ。
「この子は、君に似ている」
「そう? あなたに似ていると思うけど」
「目元が君だ」
「鼻はあなたよ」
私たちは顔を見合わせて、笑った。
「ねえ、エミール」
「何だ」
「これからも、一緒にいてくれる?」
「当たり前だ」
エミールは私の手を取った。
「これからも、ずっと。君と、エリーズと。三人で」
「約束ね」
「約束だ」
春の風が、私たちを包んだ。
温かかった。
三年前、私は離縁届を置いて家を出た。
名ばかりの妻という檻から、自分の足で歩き出した。
そして今、私はここにいる。
愛する人の隣で。
腕には、愛しい娘を抱いて。
月影の工房は、これからも続いていく。
私の技術は、リゼットへ。
そしていつか、エリーズにも。
未来は、紡がれていく。
私が紡ぎ、次の世代が紡ぎ、その先へと続いていく。
「帰りましょう」
私は言った。
「家に」
エミールが頷いた。
私たちは、ゆっくりと歩き出した。
春の光の中を。
三人で。
続きは近日中公開予定です!!




