第29話 春を待つ
窓の外で、雪解けの水が滴っていた。
早春。長い冬が終わり、王都にも少しずつ暖かさが戻ってきている。
私のお腹は、もうすぐ臨月を迎えようとしていた。
朝食の後、エミールが書斎に呼んだ。
「報告がある」
彼の表情は穏やかだった。良い知らせだと、すぐにわかった。
「ヴィクトールとイザベルの処分が確定した」
「どうなったの」
「クレシー公爵家からの絶縁。分家としての地位を剥奪され、公爵家との縁は完全に切れた」
私は頷いた。
「社交界からも追放だ。今後、王都での活動は一切認められない。領地に蟄居することになる」
「厳しい処分ね」
「当然だ。王家への虚偽の請願、公爵夫人への中傷、悪徳商人との共謀。どれ一つとっても、許されることではない」
エミールは窓際に立った。
「イザベルは最後まで、自分は巻き込まれただけだと主張していたらしい。だが、社交界での噂の出所が彼女のサロンだったことは、複数の証言で明らかになっている」
「言い逃れはできなかったのね」
「ああ。二人とも、自業自得だ」
私はお腹に手を当てた。
この子を、あんな卑劣な方法で貶めようとした人たち。もう、二度と近づくことはない。
「ロランは」
「昨日、裁判の判決が出た」
エミールは書類を手に取った。
「詐欺および技術窃盗で有罪。財産は没収、商会は解散。本人は十年の投獄」
「十年……」
「軽いくらいだ。彼が潰した工房は一つや二つではない。人生を壊された職人たちのことを思えば」
私はジャンの顔を思い出した。全てを失った、あの疲れ切った目。
「ジャンさんには伝えた?」
「ああ。昨夜、手紙を送った。少しでも、彼の心が晴れればいいが」
私は立ち上がり、エミールの隣に並んだ。
「終わったのね。全部」
「ああ」
エミールは私の肩を抱いた。
「これで、安心して子供を迎えられる」
窓の外で、小鳥が鳴いていた。春を告げる声だった。
━━━
昼前、工房に向かった。
最近は体が重くて、長時間の作業は難しい。でも、毎日少しでも工房に顔を出すようにしていた。
リゼットが待っていた。
「師匠、お体は大丈夫ですか」
「大丈夫よ。あなたこそ、昨日は遅くまで残っていたでしょう」
「納品が近かったので」
リゼットは照れたように笑った。
この数ヶ月で、彼女は見違えるように成長した。基礎はもう完璧に身についている。応用の段階に入り、独自の工夫も見せ始めている。
「今日の注文は」
「防護の腕輪が三つ、治癒促進の首飾りが二つです。午後には仕上がります」
「一人で大丈夫?」
「はい。任せてください」
その言葉に、迷いはなかった。
私は作業台の前に座った。
「リゼット」
「はい」
「私が出産で休んでいる間、工房をお願いね」
リゼットの目が見開かれた。
「私が、ですか」
「あなた以外に誰がいるの」
「でも、私はまだ……」
「もう十分よ」
私は彼女を見た。
「あなたは、私が認めた弟子。月影の工房を任せられる唯一の人間」
リゼットの目に涙が滲んだ。
「基本的な注文はあなたが受けて。難しいものは、私が復帰してから対応する。お客様への対応も、あなたならできるわ」
「はい……はい、わかりました」
リゼットは深く頭を下げた。
「必ず、師匠の期待に応えます」
「期待じゃないわ。信頼よ」
私は微笑んだ。
「あなたを信じている。だから任せる」
リゼットは涙を拭い、顔を上げた。
「ありがとうございます。師匠」
その目には、強い光があった。
私は安心した。
月影の工房は、大丈夫だ。
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夜。
寝室で横になっていると、エミールが隣に来た。
「眠れないのか」
「少しね」
私はお腹に手を当てた。子供がよく動いている。そろそろ、外に出たいのかもしれない。
「怖いか」
「少しだけ」
私は正直に言った。
「前世では、出産なんて経験したことがなかったから。何が起こるのか、想像もつかない」
「俺もだ」
エミールは天井を見つめた。
「父親になるというのが、どういうことなのか。まだ、実感がない」
「そうね」
私たちは並んで横になっていた。
静かな夜だった。窓の外では、春の夜風が木々を揺らしている。
「シルヴィア」
「何」
「君と出会えてよかった」
私は彼を見た。
エミールは真っ直ぐに私を見つめていた。
「五年前、君の作った護符を手に取った時から。俺の人生は変わった」
「大げさね」
「本当だ」
彼は私の手を取った。
「リディアを亡くしてから、俺は誰も信じられなかった。誰にも頼らず、一人で全てを背負おうとしていた」
私は黙って聞いていた。
「でも君は、俺に頼ることを教えてくれた。一人で抱え込まなくていいと」
「それは私の台詞よ」
私は笑った。
「私こそ、あなたに教わった。頼っていいんだって」
「お互い様か」
「そうね」
私たちは見つめ合った。
「明日か、明後日か。いつになるかわからないけど」
私は言った。
「子供が生まれたら、三人で一緒に暮らすのね」
「ああ」
「幸せになれるかしら」
「なる」
エミールは断言した。
「俺が、君たちを幸せにする。そして君も、俺を幸せにしてくれる」
「約束ね」
「約束だ」
彼は私の手を握りしめた。
私は目を閉じた。
穏やかな眠りが、訪れようとしていた。
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深夜。
突然、目が覚めた。
お腹に、鋭い痛みが走った。
「っ……」
息を呑む。
また、痛みが来た。波のように、押し寄せてくる。
これは。
「エミール」
隣で眠っている彼を揺り起こした。
「どうした」
「来たみたい」
「来た?」
エミールが起き上がった。その目が見開かれる。
「陣痛か」
「たぶん……っ」
また痛みが来た。今度は、さっきより強い。
エミールが跳ね起きた。
「医師を呼ぶ。侍女も。動くな」
「動けないわよ、こんな状態で……」
私は笑おうとしたが、痛みで顔が歪んだ。
エミールが部屋を飛び出していった。
私は一人、ベッドの上で深く息を吐いた。
来た。
ついに、この日が来た。
お腹に手を当てる。
「もう少しよ」
私は呟いた。
「もう少しで、会えるわ」
窓の外では、東の空がうっすらと白み始めていた。
春の夜明け。
新しい命が、生まれようとしていた。




