第25話 揺れる信頼
晩秋の朝は、冷たい風が窓を叩いていた。
朝食の席で、執事のセバスチャンが控えめに報告した。
「奥様、昨日の夜会にて、いくつか噂が流れていたようでございます」
「どんな噂?」
「公爵夫人が工房仕事を続けていることへの批判と、平民の弟子を取ったことへの疑問の声が」
私は紅茶のカップを置いた。
予想はしていた。ヴィクトールとイザベルが訪ねてきてから数日。あの二人が黙っているはずがない。
「出所は?」
「イザベル様のサロンが中心かと」
エミールが新聞から目を上げた。
「気にするな」
「気にしていないわ」
私は肩をすくめた。
「陰口で私の技術が落ちるわけではないもの」
エミールの口元が僅かに緩んだ。
「その通りだ」
陰口など、三年間の白い結婚で嫌というほど聞いてきた。今さら動じるものか。
だが、一つだけ気になることがあった。
リゼットのことだ。
平民の弟子。それが批判の的になっている。
彼女に害が及ばなければいいが。
工房に入ると、リゼットは既に作業を始めていた。
いつもなら「おはようございます、師匠」と明るく声をかけてくる。だが今日は、私が入ってきたことに気づかないほど、手元に集中しているように見えた。
いや、違う。
集中しているのではない。何かを考え込んでいる。
「リゼット」
彼女の肩が跳ねた。
「し、師匠。おはようございます」
振り返った顔には、笑顔があった。だがその目は笑っていなかった。
「どうかした?」
「いえ、何も」
嘘だ。
私は彼女の前に歩み寄った。
「私は嘘が嫌いよ。知っているでしょう」
リゼットの顔が強張った。
「何かあったなら、話してちょうだい。話したくないなら無理にとは言わない。でも、一人で抱え込まないで」
その言葉を口にした瞬間、私は苦笑した。
一人で抱え込むな。
それは、エミールが私に何度も言った言葉だ。そして私が、なかなかできなかったこと。
リゼットは俯いた。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、彼女は小さな声で言った。
「昨日、商人に声をかけられました」
「商人?」
「はい。王都で魔道具を扱っている方だと。道で偶然会って、少し話をしました」
私は黙って続きを待った。
「その方が……私に、申し出をしてきたんです」
リゼットの手が震えていた。
「月影の工房の技術を教えてくれれば、独立の資金を出すと。店舗も用意すると。将来を保証すると」
私の背筋に冷たいものが走った。
「断ったの?」
「……まだ、返事はしていません」
リゼットは顔を上げた。その目には涙が滲んでいた。
「師匠、私は……迷いました。迷ってしまったんです」
彼女の声が震えた。
「孤児院を出て、やっと見つけた居場所。師匠に拾っていただいて、技術を教えていただいて。なのに、甘い言葉を聞いた瞬間、心が揺れた」
涙が頬を伝った。
「私は最低です。師匠を裏切ろうとした」
「裏切ってないわ」
私は彼女の肩に手を置いた。
「迷うのは当然よ。将来を保証すると言われたら、誰だって心が揺れる」
「でも……」
「大事なのは、あなたが今ここにいること。そして、正直に話してくれたこと」
リゼットが目を見開いた。
「私も昔、似たような経験があるの」
前世のことだ。
転職エージェントから甘い言葉をかけられ、心が揺れたことがある。結局は今の会社に残ったが、あの時の迷いは今でも覚えている。
「甘い言葉には裏がある。その商人が何を狙っているのか、私にはわかる」
「何を……?」
「月影の工房の技術よ。あなた自身ではなく、あなたが持ち出せる技術」
リゼットの顔が青ざめた。
「そんな……」
「あなたを責めているんじゃないわ。ただ、知っておいてほしいの。世の中には、人を道具としてしか見ない者がいる」
私はリゼットの目を見つめた。
「その商人の名前は?」
「ロラン、と名乗っていました。ロラン・デュボワ」
聞いたことがない名前だった。だが、調べる必要がある。
「わかったわ。その件は私が調べる。あなたは気にしなくていい」
「師匠……」
リゼットは深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございます」
「謝らなくていいわ。でも、一つだけ約束して」
「何でしょうか」
「また何かあったら、すぐに話すこと。一人で抱え込まないこと」
リゼットは顔を上げた。その目には、もう迷いはなかった。
「約束します。私は師匠を裏切りません。絶対に」
その声には、決意があった。
私は頷いた。
「信じるわ」
夕方、エミールに商人のことを伝えた。
「ロラン・デュボワ……聞いたことがあるな」
エミールは眉をひそめた。
「調べさせる」
「お願い」
「リゼットは大丈夫か」
「ええ。正直に話してくれたわ」
エミールは頷いた。
「よかった。あの子は信頼できる」
「私もそう思う」
窓の外では、夕陽が雲を赤く染めていた。
夜。
寝室で横になっていると、エミールが隣に来た。
「名前」
「え?」
「子供の名前。そろそろ考えないとな」
私は笑った。
「まだ五ヶ月よ」
「四ヶ月あれば十分考えられる」
エミールは真剣な顔だった。
「男の子だったら?」
「そうね……」
私は天井を見つめた。
「アランはどう?」
「悪くない。女の子だったら?」
「リディア……は、駄目よね」
私は口にしてから、はっとした。
エミールの亡き婚約者の名前だ。
「すみません、私……」
「いや」
エミールは首を振った。
「リディアは優しい女性だった。でも、俺たちの子供には、新しい名前をつけたい」
彼は私の手を取った。
「過去ではなく、未来を見て」
私は彼の手を握り返した。
「そうね。新しい名前を考えましょう」
「エリーズはどうだ」
「素敵ね。でも、まだ時間はあるわ。ゆっくり考えましょう」
エミールは小さく笑った。
「ああ」
私は彼の肩に頭を預けた。
お腹の子供が、小さく動いた気がした。
まだ胎動には早い。気のせいかもしれない。
でも、確かにそこにいる。
私たちの子供が。
「ねえ」
「何だ」
「幸せよ、私」
エミールは何も言わず、私の手を握りしめた。
その温もりが、答えだった。
翌朝、工房でリゼットが待っていた。
「師匠。昨日の商人のことですが」
「何かあった?」
「いいえ。ただ、改めて伝えたくて」
リゼットは真っ直ぐに私を見た。
「私は、月影の工房の弟子です。師匠の技術を、外に漏らしません。誰に何を言われても」
その目には、強い光があった。
「昨日、迷いました。でも今日は迷いません。私の居場所はここです」
私は微笑んだ。
「ありがとう、リゼット」
「いえ。これからもよろしくお願いします、師匠」
彼女は深く頭を下げた。
私は作業台に向かった。
今日も、仕事がある。
守るべきものがある。
弟子がいる。
子供がいる。
そして、隣には彼がいる。
だが、私は知っていた。
ロラン・デュボワ。あの商人は、簡単には諦めないだろう。
そしてヴィクトールとイザベル。公爵家の継承を狙う者たち。
嵐は、まだ始まったばかりだ。




