表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白い結婚三年目、離縁届を置いておきますね  作者: 九葉(くずは)
第3章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/32

第25話 揺れる信頼

晩秋の朝は、冷たい風が窓を叩いていた。


朝食の席で、執事のセバスチャンが控えめに報告した。


「奥様、昨日の夜会にて、いくつか噂が流れていたようでございます」


「どんな噂?」


「公爵夫人が工房仕事を続けていることへの批判と、平民の弟子を取ったことへの疑問の声が」


私は紅茶のカップを置いた。


予想はしていた。ヴィクトールとイザベルが訪ねてきてから数日。あの二人が黙っているはずがない。


「出所は?」


「イザベル様のサロンが中心かと」


エミールが新聞から目を上げた。


「気にするな」


「気にしていないわ」


私は肩をすくめた。


「陰口で私の技術が落ちるわけではないもの」


エミールの口元が僅かに緩んだ。


「その通りだ」


陰口など、三年間の白い結婚で嫌というほど聞いてきた。今さら動じるものか。


だが、一つだけ気になることがあった。


リゼットのことだ。


平民の弟子。それが批判の的になっている。


彼女に害が及ばなければいいが。


工房に入ると、リゼットは既に作業を始めていた。


いつもなら「おはようございます、師匠」と明るく声をかけてくる。だが今日は、私が入ってきたことに気づかないほど、手元に集中しているように見えた。


いや、違う。


集中しているのではない。何かを考え込んでいる。


「リゼット」


彼女の肩が跳ねた。


「し、師匠。おはようございます」


振り返った顔には、笑顔があった。だがその目は笑っていなかった。


「どうかした?」


「いえ、何も」


嘘だ。


私は彼女の前に歩み寄った。


「私は嘘が嫌いよ。知っているでしょう」


リゼットの顔が強張った。


「何かあったなら、話してちょうだい。話したくないなら無理にとは言わない。でも、一人で抱え込まないで」


その言葉を口にした瞬間、私は苦笑した。


一人で抱え込むな。


それは、エミールが私に何度も言った言葉だ。そして私が、なかなかできなかったこと。


リゼットは俯いた。


しばらく沈黙が続いた。


やがて、彼女は小さな声で言った。


「昨日、商人に声をかけられました」


「商人?」


「はい。王都で魔道具を扱っている方だと。道で偶然会って、少し話をしました」


私は黙って続きを待った。


「その方が……私に、申し出をしてきたんです」


リゼットの手が震えていた。


「月影の工房の技術を教えてくれれば、独立の資金を出すと。店舗も用意すると。将来を保証すると」


私の背筋に冷たいものが走った。


「断ったの?」


「……まだ、返事はしていません」


リゼットは顔を上げた。その目には涙が滲んでいた。


「師匠、私は……迷いました。迷ってしまったんです」


彼女の声が震えた。


「孤児院を出て、やっと見つけた居場所。師匠に拾っていただいて、技術を教えていただいて。なのに、甘い言葉を聞いた瞬間、心が揺れた」


涙が頬を伝った。


「私は最低です。師匠を裏切ろうとした」


「裏切ってないわ」


私は彼女の肩に手を置いた。


「迷うのは当然よ。将来を保証すると言われたら、誰だって心が揺れる」


「でも……」


「大事なのは、あなたが今ここにいること。そして、正直に話してくれたこと」


リゼットが目を見開いた。


「私も昔、似たような経験があるの」


前世のことだ。


転職エージェントから甘い言葉をかけられ、心が揺れたことがある。結局は今の会社に残ったが、あの時の迷いは今でも覚えている。


「甘い言葉には裏がある。その商人が何を狙っているのか、私にはわかる」


「何を……?」


「月影の工房の技術よ。あなた自身ではなく、あなたが持ち出せる技術」


リゼットの顔が青ざめた。


「そんな……」


「あなたを責めているんじゃないわ。ただ、知っておいてほしいの。世の中には、人を道具としてしか見ない者がいる」


私はリゼットの目を見つめた。


「その商人の名前は?」


「ロラン、と名乗っていました。ロラン・デュボワ」


聞いたことがない名前だった。だが、調べる必要がある。


「わかったわ。その件は私が調べる。あなたは気にしなくていい」


「師匠……」


リゼットは深く頭を下げた。


「申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございます」


「謝らなくていいわ。でも、一つだけ約束して」


「何でしょうか」


「また何かあったら、すぐに話すこと。一人で抱え込まないこと」


リゼットは顔を上げた。その目には、もう迷いはなかった。


「約束します。私は師匠を裏切りません。絶対に」


その声には、決意があった。


私は頷いた。


「信じるわ」



夕方、エミールに商人のことを伝えた。


「ロラン・デュボワ……聞いたことがあるな」


エミールは眉をひそめた。


「調べさせる」


「お願い」


「リゼットは大丈夫か」


「ええ。正直に話してくれたわ」


エミールは頷いた。


「よかった。あの子は信頼できる」


「私もそう思う」


窓の外では、夕陽が雲を赤く染めていた。


夜。


寝室で横になっていると、エミールが隣に来た。


「名前」


「え?」


「子供の名前。そろそろ考えないとな」


私は笑った。


「まだ五ヶ月よ」


「四ヶ月あれば十分考えられる」


エミールは真剣な顔だった。


「男の子だったら?」


「そうね……」


私は天井を見つめた。


「アランはどう?」


「悪くない。女の子だったら?」


「リディア……は、駄目よね」


私は口にしてから、はっとした。


エミールの亡き婚約者の名前だ。


「すみません、私……」


「いや」


エミールは首を振った。


「リディアは優しい女性だった。でも、俺たちの子供には、新しい名前をつけたい」


彼は私の手を取った。


「過去ではなく、未来を見て」


私は彼の手を握り返した。


「そうね。新しい名前を考えましょう」


「エリーズはどうだ」


「素敵ね。でも、まだ時間はあるわ。ゆっくり考えましょう」


エミールは小さく笑った。


「ああ」


私は彼の肩に頭を預けた。


お腹の子供が、小さく動いた気がした。


まだ胎動には早い。気のせいかもしれない。


でも、確かにそこにいる。


私たちの子供が。


「ねえ」


「何だ」


「幸せよ、私」


エミールは何も言わず、私の手を握りしめた。


その温もりが、答えだった。



翌朝、工房でリゼットが待っていた。


「師匠。昨日の商人のことですが」


「何かあった?」


「いいえ。ただ、改めて伝えたくて」


リゼットは真っ直ぐに私を見た。


「私は、月影の工房の弟子です。師匠の技術を、外に漏らしません。誰に何を言われても」


その目には、強い光があった。


「昨日、迷いました。でも今日は迷いません。私の居場所はここです」


私は微笑んだ。


「ありがとう、リゼット」


「いえ。これからもよろしくお願いします、師匠」


彼女は深く頭を下げた。


私は作業台に向かった。


今日も、仕事がある。


守るべきものがある。


弟子がいる。


子供がいる。


そして、隣には彼がいる。


だが、私は知っていた。


ロラン・デュボワ。あの商人は、簡単には諦めないだろう。


そしてヴィクトールとイザベル。公爵家の継承を狙う者たち。


嵐は、まだ始まったばかりだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ