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白い結婚三年目、離縁届を置いておきますね  作者: 九葉(くずは)
第3章

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第23話 師匠と弟子

「違う。魔力の流れが乱れている」


私の声が、工房に響いた。


リゼットが、作業台の前で固まっている。手元には、半分だけ魔力を込めた護符がある。


「す、すみません」


「謝らなくていいわ。やり直して」


「はい」


リゼットが、深呼吸をした。目を閉じ、集中する。


弟子入りから二週間が経っていた。


最初の一週間は、座学だった。付与魔法の基礎理論、素材の性質、魔力回路の設計原理。全て、私が独学で身につけたことを、体系的に教えた。


そして今週から、実技に入った。


「魔力は、水のように流れる。無理に押し込むのではなく、導くの。回路に沿って、自然に」


「はい……」


リゼットの手が、護符の上で動いた。銀色の光が、微かに揺れる。


まだ不安定だ。けれど、一週間前よりは良くなっている。


「そう。その感覚を覚えなさい」


「……できた、かもしれません」


リゼットが目を開けた。護符の表面に、淡い光が宿っている。


「見せて」


私は護符を手に取った。魔力の流れを確認する。


「……悪くないわね」


「本当ですか」


「まだ粗いけど、形にはなっている。続けなさい」


リゼットの顔が、ぱっと明るくなった。


「はい、師匠」


師匠。


その呼び方にも、少しずつ慣れてきた。


---


午後、私は茶会に出席していた。


伯爵夫人主催の小さな集まり。妊娠中でも、完全に社交界から離れるわけにはいかない。公爵夫人としての務めだ。


「公爵夫人、お体の具合はいかがですか」


「おかげさまで、順調です」


「それは何よりですわ。お子様の誕生が、楽しみですわね」


穏やかな会話が続く。


けれど、庭園の向こうから、別の声が聞こえてきた。


「——平民の弟子ですって? 信じられませんわ」


聞き覚えのない声だった。ちらりと視線を向けると、五十代ほどの貴婦人が、数人の令嬢に囲まれて話している。


「公爵夫人ともあろう方が、孤児院出身の小娘を弟子に取るなんて。品位が疑われますわ」


私は、紅茶を口に運んだ。


「あの方は……」


隣に座っていた侯爵夫人が、小声で教えてくれた。


「イザベル・ド・クレシー。ヴィクトール様の奥様ですわ」


「ヴィクトール?」


「ええ。公爵閣下の従叔父様です。地方に領地をお持ちで、滅多に王都には来られないのですけれど」


エミールの親戚。


初めて聞く名前だった。


「最近、王都に来られているようですわ。何か用事があるのかしら」


イザベルの声が、また聞こえてきた。


「それに、妊娠中に工房仕事を続けるなんて。お子様に悪影響ですわよ。公爵家の跡継ぎを、そんな扱いで良いのかしら」


私は、紅茶のカップを置いた。


「公爵夫人……」


侯爵夫人が、心配そうな顔をした。


「お気になさらないで。あの方は、少し口が過ぎるところがありますの」


「大丈夫です」


私は微笑んだ。


「私の選択は、私が決めることですから」


立ち上がり、イザベルのいる方へ歩いていった。


周囲の視線が集まる。イザベルが、私に気づいて顔を強張らせた。


「ごきげんよう、クレシー夫人」


私は、にこやかに声をかけた。


「お噂は、よく聞こえておりましたわ」


イザベルの顔が、わずかに引きつった。


「あ、あら、公爵夫人。お体の具合は——」


「おかげさまで。それより、弟子のことが気になっていらっしゃるとか」


「い、いえ、そういうわけでは……」


「私の弟子は、才能のある子ですわ。身分は関係ありません。技術は、努力で身につけるものですから」


私は、真っ直ぐにイザベルを見た。


「それに、私が工房を続けることも、子供に悪影響だとは思いませんわ。むしろ、母が誇りを持って働く姿を見せることは、良い教育になると考えています」


イザベルは、何も言えなかった。


周囲の貴婦人たちが、ひそひそと囁いている。しかし、その視線はイザベルに向けられていた。同調する者は、一人もいなかった。


「では、失礼いたしますわ。楽しいお話、ありがとうございました」


私は微笑み、その場を離れた。


背後で、イザベルの悔しそうな声が聞こえた気がした。


---


夕刻、工房に戻ると、リゼットが一人で練習を続けていた。


「師匠、おかえりなさい」


「ただいま。進み具合は?」


「あの……三つ、完成させました」


リゼットが、作業台の上の護符を示した。


手に取って確認する。魔力の流れは安定していた。まだ私の作品には及ばないが、市場に出しても恥ずかしくないレベルだ。


「よくできたわね」


「本当ですか」


「ええ。この調子で続けなさい」


リゼットの顔が、輝いた。


「ありがとうございます。もっと頑張ります」


「ただし、無理はしないこと。今日はここまでにしなさい」


「はい」


リゼットが片付けを始める。その背中を見ながら、私は思った。


二週間前、工房の前に立っていた少女。あの時の目に宿っていた光は、今も消えていない。むしろ、強くなっている。


才能だけではない。努力する姿勢がある。


「師匠」


「何?」


「あの……今日、変なことを聞いてもいいですか」


「変なこと?」


リゼットが、少し躊躇いながら言った。


「師匠は、どうして弟子を取ってくれたんですか。私みたいな、孤児院出身の……」


「身分が気になる?」


「いえ、そういうわけじゃなくて……ただ、不思議で」


私は、窓の外を見た。


秋の夕暮れが、庭園を橙色に染めている。


「あなたの目が、昔の私に似ていたから」


「師匠に……?」


「何かを掴もうとして、必死に手を伸ばしていた頃の私。あなたの目を見た時、それを思い出したの」


リゼットが、黙って聞いていた。


「私も、一人で何かを成し遂げようとしていた。誰にも頼らず、自分の力だけで。それが強さだと思っていた」


「今は、違うんですか」


「違うわね」


私は、微笑んだ。


「一人で立つことと、一人で抱え込むことは、違う。誰かと一緒に歩くことも、強さの一つよ」


リゼットの目が、揺れた。


「だから、私に弟子を……」


「技術は、一人で抱え込むものじゃない。次の世代に繋いでいくもの。あなたに教えることで、私もまた学んでいるの」


「師匠……」


「さあ、今日は終わり。明日も早いわよ」


「はい。ありがとうございます」


リゼットが頭を下げ、工房を出ていった。


私は一人、窓辺に立っていた。


次の世代に繋ぐ。


お腹の子供にも、いつかそれを教える日が来るのだろうか。


---


夜、寝室で。


「動いたか」


エミールの手が、私のお腹に触れた。


毎日の日課になっていた。朝、昼、夜。暇さえあれば、彼は私のお腹に手を当てる。


「まだよ。三ヶ月じゃ、まだ動かないわ」


「そうか」


「五ヶ月くらいになれば、感じられるらしいわ」


「そうか。待ち遠しいな」


エミールの声には、珍しく柔らかさがあった。


「あなた、毎日確認しすぎよ」


「駄目か」


「駄目じゃないけど……」


「なら、いいだろう」


私は、小さく笑った。


「本当に、楽しみにしているのね」


「当たり前だ」


彼の手が、優しくお腹を撫でた。


「君との子供だ。楽しみでないはずがない」


「……エミール」


「何だ」


「ありがとう」


「何を——」


「毎日、確認してくれて。心配してくれて。一緒に喜んでくれて」


エミールは何も言わなかった。


けれど、その手がわずかに強く、私を引き寄せた。


---


翌朝。


書斎で、エミールから話があった。


「ヴィクトールが、明日公爵邸を訪問する」


「ヴィクトール……昨日、茶会でその名前を聞いたわ」


「俺の父の従弟だ。地方に領地を持っている」


エミールの表情が、わずかに硬くなった。


「親戚付き合いは、ほとんどない。俺が当主になってから、数えるほどしか会っていない」


「それが、なぜ今?」


「おそらく、君の妊娠を聞いたからだろう」


私は、眉をひそめた。


「妊娠と、何の関係が?」


「ヴィクトールには、以前から野心がある」


エミールの目が、冷たくなった。


「俺が『誰とも結婚しない』と言っていた頃、自分の息子を養子に入れようと画策していた。俺に跡継ぎがいなければ、公爵家は傍系に移る。それを狙っていた」


「つまり……」


「君との結婚で、その計画は崩れた。そして今、君が妊娠した。正式な跡継ぎが生まれれば、ヴィクトールの野心は完全に潰える」


私は、理解した。


「だから、今になって来たのね」


「ああ。何を企んでいるかはわからないが、警戒しておいた方がいい」


エミールの手が、私の肩に置かれた。


「明日の訪問、俺も同席する。一人で対応する必要はない」


「わかったわ」


私は頷いた。


昨日の茶会で会ったイザベル。そして、明日来るというヴィクトール。


嫌な予感がした。


けれど、逃げるつもりはなかった。


私は公爵夫人だ。この子の母だ。

何が来ても、守ってみせる。

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