第22話 押しかけ弟子
朝靄が庭園を包む頃、私は工房に向かっていた。
秋の空気は澄んでいて、深呼吸すると肺が冷たくなる。妊娠がわかってから、朝の散歩が日課になっていた。医師に勧められたのだ。適度な運動は体に良いと。
工房の扉に手をかけた時、声がした。
「あの、すみません」
振り返ると、昨日の少女が立っていた。
栗色の髪に、そばかす。小柄な体に、質素だが清潔な服。そして、強い光を宿した目。
「昨日の……」
「はい。昨日、ここにいました」
少女が、真っ直ぐに私を見た。
「お願いがあって来ました」
「お願い?」
「私を、弟子にしてください」
朝の静けさの中、その声だけが響いた。
工房の中で、私たちは向かい合って座っていた。
少女——リゼットと名乗った——は、椅子の端に背筋を伸ばして座っている。緊張しているのだろう。けれど、その目だけは真っ直ぐだった。
「弟子入り、ね」
私は、腕を組んだ。
「私は弟子を取ったことがないわ。それに、今は妊娠中で、いつまで工房を続けられるかわからない」
「存じています」
「存じている?」
「昨日、公爵邸の使用人の方に聞きました。公爵夫人様がご懐妊されたと」
なるほど。噂はもう広まっているらしい。
「だからこそ、今なんです」
リゼットの声に、力がこもった。
「夫人様がお休みになる前に、少しでも教えていただきたいんです。お願いします」
「なぜ、私なの」
「月影の工房の品に、命を救われたからです」
私は、目を見開いた。
「四年前のことです。私は王都の外れで、盗賊に襲われました」
リゼットの声が、少し低くなった。
「逃げようとしたけど、追いつかれて。もう駄目だと思った時、懐にあった護符が光ったんです」
「護符……」
「孤児院で、ある人からもらったものでした。小さな、銀色の護符。『月影の工房』の刻印がありました」
私は記憶を辿った。四年前。その頃、確かに安価な護符を孤児院に寄付していた。余った素材で作った、簡素だが実用的なもの。
「護符が発動して、盗賊たちは弾き飛ばされました。私は、逃げることができました」
リゼットの目が、私を見つめた。
「あの時から、ずっと思っていたんです。この護符を作った人に会いたい。そして、同じものを作れるようになりたいと」
「……そう」
「独学で、付与魔法を学びました。本を読んで、見様見真似で。四年間、ずっと」
彼女が、懐から何かを取り出した。
小さな布袋。中から、粗削りな護符が現れた。
「これを、見ていただけませんか」
護符を手に取った瞬間、私は息を呑んだ。
粗削りだった。素材の選び方も、魔力の込め方も、回路の設計も、全てが未熟だった。
けれど——
「この回路……」
「何かおかしいですか」
「いいえ。おかしくない。むしろ……」
私は、護符をじっと見つめた。
防御の回路が、独特の形をしている。教科書通りではない。けれど、理に適っている。むしろ、効率的かもしれない。
「これ、誰かに教わったの?」
「いいえ。本を読んで、自分で考えました」
「自分で……」
「防御の魔法は、壁を作るより、力を逸らす方がいいと思ったんです。だから、回路をこういう形に」
私は、リゼットを見た。
十六歳の少女。孤児院出身。独学で付与魔法を学んだ。
そして、自分で回路を考案した。
「才能があるわね」
「え……」
「この護符、未熟だけど、発想は悪くない。むしろ、私が思いつかなかった形よ」
リゼットの目が、大きく見開かれた。
「本当ですか」
「お世辞は言わないわ」
私は、護符を彼女に返した。
「ただ、基礎がなっていない。素材の選び方、魔力の込め方、全部やり直し。このままじゃ、発動するかどうかも怪しい」
「はい。だから、教えていただきたいんです」
リゼットが、身を乗り出した。
「お願いします。何でもします。雑用でも、掃除でも。だから——」
「落ち着きなさい」
私は、手を上げて彼女を止めた。
「いくつか、条件がある」
リゼットの背筋が、さらに伸びた。
「まず、試用期間として一ヶ月。その間に、基礎を教える。覚えが悪ければ、その時点で終わり」
「はい」
「次に、私の言うことは絶対。危険な作業は禁止。勝手な判断もしない」
「はい」
「最後に——」
私は、彼女の目を見つめた。
「工房の技術は、外に漏らさない。誰に聞かれても、何を見ても、他言しないこと。これが守れるなら、試してみてもいいわ」
リゼットの目に、涙が滲んだ。
「ありがとうございます。絶対に、守ります」
「泣かないの。まだ何も始まっていないわ」
「はい……すみません……」
彼女が慌てて目を拭う。
その姿を見ながら、私は思った。
かつての自分も、こんな風だっただろうか。何かを掴もうと、必死に手を伸ばしていた頃。
「明日の朝、また来なさい。それまでに、住む場所を確保しておくわ」
「え……住む場所?」
「工房の離れに、小さな部屋がある。弟子が使う部屋として、整えておく」
リゼットの目が、また潤んだ。
「本当に……本当に、いいんですか……」
「泣くなと言ったでしょう」
「すみません……でも、嬉しくて……」
私は、小さくため息をついた。
けれど、その顔には自然と笑みが浮かんでいた。
夜。
寝室で、私はエミールの隣に横たわっていた。
「弟子を取ったのか」
「試用期間よ。まだ正式じゃない」
「そうか」
エミールの手が、私の髪を撫でた。
「どんな子だ」
「十六歳の少女。孤児院出身で、独学で付与魔法を学んだらしいわ」
「独学で?」
「ええ。才能はある。けれど、基礎がなっていない。教え甲斐はありそうね」
「そうか」
エミールが、少し黙った。
「君に似ているな」
「私に?」
「一人で何かを成し遂げようとする。必死に手を伸ばす。そういうところが」
私は、彼の顔を見上げた。
「そう見える?」
「ああ。だから、君は弟子に取ったんだろう」
見透かされていた。
「……そうかもしれないわね」
私は、小さく笑った。
「あの子を見ていると、昔の自分を思い出す。だから、放っておけなかった」
「君らしいな」
エミールの手が、私のお腹に触れた。
「ところで」
「何?」
「男の子と女の子、どちらがいい」
不意打ちだった。
「え……どちらって……」
「俺は、どちらでもいい。君に似た子なら」
「私に似た子……」
「銀髪で、意地っ張りで、職人気質で」
「それ、褒めていますか」
「褒めている」
エミールの口元が、わずかに緩んだ。
「君はどうだ。希望はあるか」
私は、お腹に手を当てた。
まだ何も感じない。けれど、ここに命がある。
「私も、どちらでもいいわ」
「そうか」
「ただ——」
「ただ?」
「あなたに似た子だといいな」
エミールの手が、一瞬止まった。
「俺に?」
「ええ。黒髪で、無表情で、不器用で」
「それは褒めていないだろう」
「褒めています」
私は、くすりと笑った。
「あなたのそういうところが、好きだから」
エミールは何も言わなかった。
けれど、その耳が赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
「……寝ろ」
「はい」
「明日から、弟子の指導があるんだろう」
「ええ」
「無理はするな」
「しません」
彼の腕が、私を引き寄せた。
温かい腕の中で、私は目を閉じた。
新しい命。新しい弟子。新しい日々。
全てが、これから始まる。
けれど、リゼットの目に浮かんでいた影が、少しだけ気にかかっていた。
月影の護符に救われた、と彼女は言った。
けれど、その言葉の奥に、何か別のものがある気がした。
まだ語られていない、何かが。
明日からの日々で、少しずつわかっていくのだろう。
今は、この温もりの中で眠ろう。
秋の夜は、静かに更けていった。




