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白い結婚三年目、離縁届を置いておきますね  作者: 九葉(くずは)
第3章

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第22話 押しかけ弟子

朝靄が庭園を包む頃、私は工房に向かっていた。


秋の空気は澄んでいて、深呼吸すると肺が冷たくなる。妊娠がわかってから、朝の散歩が日課になっていた。医師に勧められたのだ。適度な運動は体に良いと。


工房の扉に手をかけた時、声がした。


「あの、すみません」


振り返ると、昨日の少女が立っていた。


栗色の髪に、そばかす。小柄な体に、質素だが清潔な服。そして、強い光を宿した目。


「昨日の……」


「はい。昨日、ここにいました」


少女が、真っ直ぐに私を見た。


「お願いがあって来ました」


「お願い?」


「私を、弟子にしてください」


朝の静けさの中、その声だけが響いた。


工房の中で、私たちは向かい合って座っていた。


少女——リゼットと名乗った——は、椅子の端に背筋を伸ばして座っている。緊張しているのだろう。けれど、その目だけは真っ直ぐだった。


「弟子入り、ね」


私は、腕を組んだ。


「私は弟子を取ったことがないわ。それに、今は妊娠中で、いつまで工房を続けられるかわからない」


「存じています」


「存じている?」


「昨日、公爵邸の使用人の方に聞きました。公爵夫人様がご懐妊されたと」


なるほど。噂はもう広まっているらしい。


「だからこそ、今なんです」


リゼットの声に、力がこもった。


「夫人様がお休みになる前に、少しでも教えていただきたいんです。お願いします」


「なぜ、私なの」


「月影の工房の品に、命を救われたからです」


私は、目を見開いた。


「四年前のことです。私は王都の外れで、盗賊に襲われました」


リゼットの声が、少し低くなった。


「逃げようとしたけど、追いつかれて。もう駄目だと思った時、懐にあった護符が光ったんです」


「護符……」


「孤児院で、ある人からもらったものでした。小さな、銀色の護符。『月影の工房』の刻印がありました」


私は記憶を辿った。四年前。その頃、確かに安価な護符を孤児院に寄付していた。余った素材で作った、簡素だが実用的なもの。


「護符が発動して、盗賊たちは弾き飛ばされました。私は、逃げることができました」


リゼットの目が、私を見つめた。


「あの時から、ずっと思っていたんです。この護符を作った人に会いたい。そして、同じものを作れるようになりたいと」


「……そう」


「独学で、付与魔法を学びました。本を読んで、見様見真似で。四年間、ずっと」


彼女が、懐から何かを取り出した。


小さな布袋。中から、粗削りな護符が現れた。


「これを、見ていただけませんか」


護符を手に取った瞬間、私は息を呑んだ。


粗削りだった。素材の選び方も、魔力の込め方も、回路の設計も、全てが未熟だった。


けれど——


「この回路……」


「何かおかしいですか」


「いいえ。おかしくない。むしろ……」


私は、護符をじっと見つめた。


防御の回路が、独特の形をしている。教科書通りではない。けれど、理に適っている。むしろ、効率的かもしれない。


「これ、誰かに教わったの?」


「いいえ。本を読んで、自分で考えました」


「自分で……」


「防御の魔法は、壁を作るより、力を逸らす方がいいと思ったんです。だから、回路をこういう形に」


私は、リゼットを見た。


十六歳の少女。孤児院出身。独学で付与魔法を学んだ。


そして、自分で回路を考案した。


「才能があるわね」


「え……」


「この護符、未熟だけど、発想は悪くない。むしろ、私が思いつかなかった形よ」


リゼットの目が、大きく見開かれた。


「本当ですか」


「お世辞は言わないわ」


私は、護符を彼女に返した。


「ただ、基礎がなっていない。素材の選び方、魔力の込め方、全部やり直し。このままじゃ、発動するかどうかも怪しい」


「はい。だから、教えていただきたいんです」


リゼットが、身を乗り出した。


「お願いします。何でもします。雑用でも、掃除でも。だから——」


「落ち着きなさい」


私は、手を上げて彼女を止めた。


「いくつか、条件がある」


リゼットの背筋が、さらに伸びた。


「まず、試用期間として一ヶ月。その間に、基礎を教える。覚えが悪ければ、その時点で終わり」


「はい」


「次に、私の言うことは絶対。危険な作業は禁止。勝手な判断もしない」


「はい」


「最後に——」


私は、彼女の目を見つめた。


「工房の技術は、外に漏らさない。誰に聞かれても、何を見ても、他言しないこと。これが守れるなら、試してみてもいいわ」


リゼットの目に、涙が滲んだ。


「ありがとうございます。絶対に、守ります」


「泣かないの。まだ何も始まっていないわ」


「はい……すみません……」


彼女が慌てて目を拭う。


その姿を見ながら、私は思った。


かつての自分も、こんな風だっただろうか。何かを掴もうと、必死に手を伸ばしていた頃。


「明日の朝、また来なさい。それまでに、住む場所を確保しておくわ」


「え……住む場所?」


「工房の離れに、小さな部屋がある。弟子が使う部屋として、整えておく」


リゼットの目が、また潤んだ。


「本当に……本当に、いいんですか……」


「泣くなと言ったでしょう」


「すみません……でも、嬉しくて……」


私は、小さくため息をついた。


けれど、その顔には自然と笑みが浮かんでいた。


夜。


寝室で、私はエミールの隣に横たわっていた。


「弟子を取ったのか」


「試用期間よ。まだ正式じゃない」


「そうか」


エミールの手が、私の髪を撫でた。


「どんな子だ」


「十六歳の少女。孤児院出身で、独学で付与魔法を学んだらしいわ」


「独学で?」


「ええ。才能はある。けれど、基礎がなっていない。教え甲斐はありそうね」


「そうか」


エミールが、少し黙った。


「君に似ているな」


「私に?」


「一人で何かを成し遂げようとする。必死に手を伸ばす。そういうところが」


私は、彼の顔を見上げた。


「そう見える?」


「ああ。だから、君は弟子に取ったんだろう」


見透かされていた。


「……そうかもしれないわね」


私は、小さく笑った。


「あの子を見ていると、昔の自分を思い出す。だから、放っておけなかった」


「君らしいな」


エミールの手が、私のお腹に触れた。


「ところで」


「何?」


「男の子と女の子、どちらがいい」


不意打ちだった。


「え……どちらって……」


「俺は、どちらでもいい。君に似た子なら」


「私に似た子……」


「銀髪で、意地っ張りで、職人気質で」


「それ、褒めていますか」


「褒めている」


エミールの口元が、わずかに緩んだ。


「君はどうだ。希望はあるか」


私は、お腹に手を当てた。


まだ何も感じない。けれど、ここに命がある。


「私も、どちらでもいいわ」


「そうか」


「ただ——」


「ただ?」


「あなたに似た子だといいな」


エミールの手が、一瞬止まった。


「俺に?」


「ええ。黒髪で、無表情で、不器用で」


「それは褒めていないだろう」


「褒めています」


私は、くすりと笑った。


「あなたのそういうところが、好きだから」


エミールは何も言わなかった。


けれど、その耳が赤くなっているのを、私は見逃さなかった。


「……寝ろ」


「はい」


「明日から、弟子の指導があるんだろう」


「ええ」


「無理はするな」


「しません」


彼の腕が、私を引き寄せた。

温かい腕の中で、私は目を閉じた。

新しい命。新しい弟子。新しい日々。


全てが、これから始まる。


けれど、リゼットの目に浮かんでいた影が、少しだけ気にかかっていた。


月影の護符に救われた、と彼女は言った。


けれど、その言葉の奥に、何か別のものがある気がした。


まだ語られていない、何かが。


明日からの日々で、少しずつわかっていくのだろう。


今は、この温もりの中で眠ろう。

秋の夜は、静かに更けていった。

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