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白い結婚三年目、離縁届を置いておきますね  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第21話 新しい命

秋の陽光が、診察室の窓から差し込んでいた。


私は椅子に座り、向かいに座る医師の言葉を待っていた。心臓が早鐘を打っている。


「公爵夫人」


白髪の老医師が、穏やかな笑みを浮かべた。


「おめでとうございます。ご懐妊です」


その言葉が、ゆっくりと胸に染み渡った。


「本当、ですか」


「ええ。間違いありません。おそらく、二ヶ月ほどかと」


予感は、現実になった。


あの夜、エミールに話した時から、薄々わかっていた。体の変化。微かな吐き気。いつもより重い眠気。


けれど、医師の口から正式に告げられると、急に現実味が増した。


「お体を大切になさってください。無理は禁物ですが、普段通りの生活を送られて構いません。ただし、重い物を持つことや、激しい運動は控えていただきたい」


「わかりました」


「定期的に診察いたします。何か気になることがあれば、いつでもお呼びください」


「ありがとうございます」


私は立ち上がり、医師に礼を述べた。


足がふわふわする。まるで、雲の上を歩いているような心地だった。


書斎の扉を開けると、エミールが待っていた。


窓際に立ち、腕を組んでいる。私の姿を見ると、彼はすぐに近づいてきた。


「どうだった」


その声には、隠しきれない緊張があった。


私は、深呼吸をした。


「エミール」


「ああ」


「妊娠、確定しました」


沈黙が落ちた。


エミールは、何も言わなかった。


ただ、私を見つめていた。深い青の瞳が、微かに揺れている。


「エミール……?」


「……本当か」


「はい。医師が、間違いないと」


彼の手が、私の肩に置かれた。


そして、ゆっくりと引き寄せられた。


「エミール」


「少し、このままでいさせてくれ」


彼の声が、震えていた。


顔は見えない。けれど、私の肩に置かれた彼の顎が、微かに動いているのを感じた。


「……泣いているんですか」


「泣いていない」


「嘘つき」


「うるさい」


私は、彼の背中に手を回した。


大きな背中。いつも私を守ってくれる背中。今は、その背中が小さく震えていた。


「ありがとう、シルヴィア」


掠れた声だった。


「君が、俺の子供を……俺たちの子供を、宿してくれた。それが、どれほど……」


言葉が途切れた。


私は、彼の背中を優しく撫でた。


「私も、嬉しいです」


「ああ」


「あなたとの子供。私たちの子供」


「ああ……」


エミールの腕が、私をさらに強く抱きしめた。


窓から差し込む秋の光が、私たちを包んでいた。


その日の午後、使用人たちに報告した。


執事のセバスチャンを筆頭に、侍女たち、料理人たち、庭師たち。公爵邸に仕える全員が、大広間に集まっていた。


「皆さんにお伝えしたいことがあります」


私は、エミールの隣に立って言った。


「この度、私は子供を授かりました」


一瞬の沈黙。


そして、歓声が上がった。


「おめでとうございます、奥様!」


「旦那様、おめでとうございます!」


「跡継ぎ様のお誕生ですね!」


使用人たちの顔が、喜びに輝いている。セバスチャンは、珍しく目を潤ませていた。


「ありがとうございます」


私は微笑んだ。


「ただ、一つお伝えしておきたいことがあります」


広間が静まった。


「私は、妊娠中も工房を続けるつもりです」


ざわめきが起こった。


「奥様、お体に障るのでは……」


「無理をなさらない方が……」


心配の声が聞こえる。


「もちろん、無理はしません。医師の指示には従います。けれど、工房を閉じるつもりはありません」


私は、真っ直ぐに前を見た。


「月影の工房は、私の一部です。それを手放すことは、私自身を手放すことと同じです。だから、できる限り続けます」


沈黙が落ちた。


使用人たちが、互いの顔を見合わせている。


「俺からも、一言」


エミールが口を開いた。


「シルヴィアの決定を、俺は支持する。ただし、少しでも体調が悪くなれば、すぐに休むこと。それが条件だ」


「もちろんです」


私は頷いた。


エミールの目が、私を見た。その中に、心配と、そして信頼があった。


「皆も、シルヴィアを支えてやってくれ」


「かしこまりました」


セバスチャンが深く頭を下げた。


「奥様のお体と、お子様の安全を、私どもも全力でお守りいたします」


他の使用人たちも、口々に同意の声を上げた。


私は、胸が温かくなるのを感じた。


一人じゃない。


この人たちが、私を支えてくれる。


夕刻、私は工房にいた。


作業台の前に座り、王妃陛下から依頼された首飾りの設計を続けている。妊娠したからといって、仕事が止まるわけではない。


けれど、今日は少しだけ、手が止まることが多かった。


お腹に手を当てる。まだ、膨らみはない。けれど、ここに命がある。


「……不思議ね」


独り言を呟いた。


私の中に、もう一つの命がある。エミールと私の、子供が。


前世では、こんな未来は想像もしなかった。結婚も、出産も、遠い世界の話だと思っていた。


けれど、今は違う。


この世界で、私は生きている。愛する人がいて、仲間がいて、そして——子供がいる。


「……ありがとう」


誰に言うでもなく、呟いた。


この世界に生まれ変わらせてくれた、何かに。


ふと、窓の外に視線を向けた。


夕暮れの庭園。秋の花が、橙色の光に照らされている。


その中に——


「……誰?」


人影があった。


工房の前、庭園の入り口に、一人の少女が立っている。


栗色の髪。小柄な体。質素な服装。明らかに、公爵邸の使用人ではない。


少女は、工房をじっと見つめていた。その目に、強い光が宿っている。


「何者かしら……」


私は立ち上がり、窓に近づいた。


少女と目が合った。


彼女は、一瞬驚いたように身を引いた。けれど、逃げなかった。むしろ、真っ直ぐに私を見返してきた。


その目に宿る光。どこかで見たことがある気がした。


鏡の中で。


かつての私が持っていた、同じ光。


何かを求めて、何かに手を伸ばそうとしている者の目。


「……明日、また来なさい」


声には出さず、口の形だけで伝えた。


少女の目が、大きく見開かれた。


そして——小さく、頷いた。


彼女の姿が、夕闘の中に消えていく。


私は窓際に立ったまま、その背中を見送っていた。


「誰なのかしら……」


けれど、不思議と嫌な予感はしなかった。


むしろ、何かが始まる予感。


新しい命と、新しい出会い。

秋の風が、窓を揺らした。

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