第19話 夜会での逆転
初夏の夜会は、薔薇の香りに包まれていた。
王宮の大広間には、色とりどりのドレスを纏った貴婦人たちが集っている。シャンデリアの光が、宝石のように煌めいていた。
私は、エミールの隣に立っていた。
深紅のドレス。胸元には、エミールから贈られたルビーのブローチ。髪は高く結い上げ、銀の髪飾りが光を受けて輝いている。
「緊張しているか」
エミールの声が、低く響いた。
「いいえ」
今日は、嘘ではなかった。
「全ての準備は整っています。あとは、実行するだけ」
「ああ」
エミールの目が、広間を見渡した。
「ギルベールは、今朝拘束した。モンフォール領から逃げ出そうとしたところを、俺の部下が押さえた」
「そうですか」
「リュカは、無事だ。今頃、王都に向かっている。夜会の途中で到着するだろう」
胸の奥で、安堵が広がった。
「ありがとうございます、エミール」
「礼はいい。今夜は、君の戦いだ」
彼の手が、私の腰にそっと触れた。
「俺は、隣にいる」
「ええ。わかっています」
その時、広間の空気が変わった。
「公爵夫人」
聞き覚えのある声がした。
振り返ると、セレスティーヌ・ド・ヴェルサイユが立っていた。
純白のドレス。首元にはサファイアのネックレス。いつもの完璧な笑顔を浮かべている。
けれど、その目の奥には、隠しきれない炎があった。
「ごきげんよう、ヴェルサイユ嬢」
「ええ、ごきげんよう。今夜は素敵なドレスですわね」
「ありがとうございます。あなたもお綺麗ですわ」
社交辞令を交わす。周囲の貴族たちが、二人のやり取りを見守っている。
セレスティーヌの唇が、わずかに歪んだ。
「ところで、公爵夫人。お噂を聞きましたわ」
「何のことでしょう」
「ご実家のモンフォール家のこと。大変なことになっているとか」
空気が、凍りついた。
「執事が横領をしていたそうですわね。当主のご令弟は軟禁状態。まさか公爵夫人のご実家が、そんな有様だったなんて」
彼女の声は、わざと周囲に聞こえるように大きかった。
「お気の毒に。ご実家の恥を、こんな場で晒されるなんて」
周囲の貴族たちが、ざわめき始めた。
セレスティーヌの狙いは明らかだった。私の実家の醜聞を公開し、恥をかかせようとしている。
「ヴェルサイユ嬢」
私は、静かに言った。
「確かに、モンフォール家では問題が起きていました。執事が横領を働き、当主である弟を傀儡にしていた」
セレスティーヌの目が、勝ち誇ったように輝いた。
「ですが」
私は、一歩前に出た。
「その問題は、既に解決しました」
「……何ですって?」
「執事ギルベールは、今朝、拘束されました。横領の証拠は全て押さえてあります。弟は解放され、今夜この夜会に向かっています」
セレスティーヌの顔から、笑みが消えた。
「モンフォール家の問題は、私たち家族の手で解決しました。ご心配には及びません」
沈黙が落ちた。
周囲の貴族たちが、セレスティーヌと私を交互に見ている。
「……そう。それは良かったですわね」
セレスティーヌが、無理やり笑顔を作った。
「でも、ご実家に問題があったことには変わりませんわ。公爵夫人としての品位が——」
「ヴェルサイユ嬢」
エミールの声が、冷たく響いた。
「一つ、聞いてもいいか」
セレスティーヌの顔が、強張った。
「な、何でしょうか、公爵閣下」
「君の慈善活動について、少々気になることがある」
「慈善活動……?」
「孤児院への寄付金だ。過去三年間で、君が集めた寄付金の総額と、実際に孤児院に届いた金額に、大きな差異がある」
広間が、静まり返った。
「何を……何を仰っているのですか」
「具体的に言おうか」
エミールが、懐から書類を取り出した。
「過去三年間で、君が集めた寄付金は約三万リーブル。しかし、孤児院が受け取った金額は約二万四千リーブル。差額の六千リーブルは、どこへ消えた?」
セレスティーヌの顔から、血の気が引いていく。
「それは……それは、経費です。運営費や、事務費が——」
「経費の明細も調べた。君の申告した経費は、約千リーブル。残りの五千リーブルは、説明がつかない」
「そんな……そんなはずは……」
「さらに言えば」
エミールの声が、容赦なく続いた。
「この五千リーブルと同額の金が、君名義の隠し口座に入金されている記録がある」
広間が、ざわめいた。
「横領だ、ヴェルサイユ嬢。君は、孤児たちのための寄付金を、私的に流用していた」
セレスティーヌの膝が、がくりと崩れた。
「違う……違います……私は……」
「母上!」
彼女が叫んだ。
広間の端に、アデライード侯爵夫人が立っていた。娘を見る目は、凍りついていた。
「母上、助けて……これは誤解です……」
「セレスティーヌ」
侯爵夫人の声は、冷たかった。
「……帰りましょう」
「母上……?」
「これ以上、恥をさらすのはやめなさい」
侯爵夫人が歩み寄り、娘の腕を取った。
「侯爵家の名誉を、これ以上傷つけることは許しません」
セレスティーヌの目に、絶望が浮かんだ。
母親にさえ、見捨てられた。
私は、彼女を見下ろした。
「ヴェルサイユ嬢」
「……何よ」
「お気の毒に」
その言葉に、セレスティーヌの顔が歪んだ。
自分が私に向けた言葉を、そのまま返された。それが、どれほど屈辱的か。
「覚えていなさい……必ず……」
「セレスティーヌ」
侯爵夫人が、娘を引きずるように連れ去った。
その背中が、広間から消えていく。
周囲の貴族たちが、ひそひそと囁き合っている。しかし、その視線に軽蔑の色はなかった。むしろ、私を見る目には、敬意があった。
「シルヴィア」
エミールの声がした。
「終わったな」
「ええ。終わりました」
私は、深く息を吐いた。
終わった。セレスティーヌとの戦いが、ようやく。
---
夜会が再び動き始めた頃、広間の入り口がざわめいた。
「あれは……」
「モンフォール子爵?」
振り返ると、リュカが立っていた。
数日前より、顔色が良くなっている。まだ痩せてはいるが、目には光が戻っていた。
彼は、真っ直ぐに私の元へ歩いてきた。
「姉上」
「リュカ。よく来たわね」
「姉上のおかげです」
リュカが、深く頭を下げた。
周囲の貴族たちが、注目している。
「皆様の前で、申し上げたいことがあります」
彼の声は、震えていたが、はっきりとしていた。
「私は、モンフォール子爵家当主リュカ・モンフォールです。本日は、姉シルヴィアに、公の場で感謝を述べたく参りました」
広間が、静まり返った。
「私は五年間、執事に実権を奪われ、傀儡となっていました。家の財産は横領され、領地は荒廃し、私には何もできませんでした」
リュカの声が、広間に響く。
「そんな私を、姉は見捨てませんでした。助けを求めた私のために、危険を冒して領地に来てくれました。そして、クレシー公爵閣下と共に、私を救い出してくれました」
彼が顔を上げた。その目に、涙が光っていた。
「姉上。本当に、ありがとうございます。あなたがいなければ、私は今も暗闘の中にいました」
「リュカ……」
「これからは、私も変わります。モンフォール家を再建し、領民たちの暮らしを取り戻します。姉上に恥じない当主になります」
私は、弟の肩に手を置いた。
「あなたなら、できるわ」
「はい。必ず」
周囲から、拍手が起こった。
最初は小さく、やがて大きく。貴族たちが、リュカの決意を祝福していた。
私は、弟の隣に立ちながら、エミールを見た。
彼は少し離れた場所で、腕を組んで立っていた。その目が、私を見て、わずかに和らいだ。
口の形だけで、言葉が伝わってきた。
『よくやった』
私は、小さく頷いた。
---
夜会の後半、ダンスの時間が訪れた。
楽団が優雅な旋律を奏で始める。貴族たちが、次々と踊りの輪に加わっていく。
「シルヴィア」
エミールが、私の前に立った。
「踊るか」
「はい」
差し出された手を取る。
広間の中央へ。周囲の視線が集まる中、私たちは踊り始めた。
「今夜は、君の完全な勝利だった」
エミールの声が、低く響いた。
「あなたのおかげです」
「違う。君が、自分で勝ち取った」
彼の手が、私の腰を支えている。大きな手。温かい手。
「セレスティーヌは終わった。ギルベールも拘束した。リュカとも和解した。全て、君の力だ」
「一人では、できませんでした」
「俺は、隣にいただけだ」
「それが、一番大きな力でした」
エミールの目が、わずかに揺れた。
「シルヴィア」
「はい」
「君は、俺の誇りだ」
心臓が、大きく跳ねた。
「自分の足で立ち、自分の手で戦い、自分の力で勝った。そんな君を、俺は誇りに思う」
「エミール……」
「これからも、君の隣にいさせてくれ」
彼の目が、真っ直ぐに私を見つめていた。
深い青の瞳。いつもは読み取れないその目に、今は確かな愛情があった。
「……ずっと、いてください」
「ああ」
「離れないでください」
「離れない」
「約束ですよ」
「約束だ」
曲が終わる。
私たちは、踊りの輪の中央で立ち止まった。周囲の拍手が、遠くに聞こえる。
エミールの手が、私の手を握ったまま離れない。
「シルヴィア」
「はい」
「愛している」
その言葉が、静かに胸に染み渡った。
「私も、愛しています」
エミールの口元が、わずかに緩んだ。
周囲の貴族たちが見ている。けれど、構わなかった。
この人の隣にいられることが、何よりも幸せだった。
窓の外では、初夏の星が輝いていた。
長い戦いが、ようやく終わった。




