第16話 一人で抱え込む癖
茶会の空気は、棘を含んでいた。
伯爵夫人主催の小さな集まり。十人ほどの貴婦人が、庭園のテーブルを囲んでいる。私はその末席に座り、紅茶を口に運んでいた。
エミールが不在の間も、社交界への顔出しは続けなければならない。公爵夫人としての務めだ。
「ねえ、公爵夫人」
声がした。
顔を上げると、セレスティーヌ・ド・ヴェルサイユが微笑んでいた。
大夜会以来、初めて顔を合わせる。あの時、王妃陛下に恥をかかされた彼女は、しばらく社交界から姿を消していた。
けれど、今日は違った。
いつもの完璧な笑顔。金髪碧眼の華やかな美貌。まるで何事もなかったかのように、優雅に茶会に参加している。
「お元気そうで何よりですわ」
「ええ、おかげさまで」
私は平静を装った。
セレスティーヌの目が、すっと細くなった。
「ところで、最近は工房のお仕事が忙しいとか。大変ですわね、公爵夫人ともあろう方が、職人仕事に追われるなんて」
周囲の空気が、わずかに変わった。
「職人仕事、ですか」
「ええ。私には理解できませんの。貴族たるもの、手を汚すような仕事は使用人に任せるものでしょう? それを自らなさるなんて」
彼女の声は甘かった。けれど、その中に毒が混じっている。
「公爵夫人の品位が問われますわ。クレシー公爵閣下も、お困りではないかしら」
刃が、静かに突き刺さってくる。
私の仕事を貶め、エミールの名誉にまで傷をつけようとしている。
「ヴェルサイユ嬢」
私は、紅茶のカップを置いた。
「私の仕事は、私の誇りです。それを恥じるつもりはありません」
「まあ、そうおっしゃいますけれど——」
「私も、そう思いますわ」
別の声が割り込んだ。
振り返ると、若い令嬢が立っていた。見覚えがある。先日の大夜会で挨拶を交わした、男爵家の令嬢だ。
「月影の工房のお品、私も愛用しておりますの。母も、祖母も。三代にわたって」
「私もですわ」
別の令嬢も声を上げた。
「公爵夫人のお作りになった護符のおかげで、父が旅先で命拾いしたことがありますの。感謝してもしきれませんわ」
セレスティーヌの顔が、わずかに強張った。
「皆様、そんな……」
「ヴェルサイユ嬢」
最初に声を上げた令嬢が、にっこりと微笑んだ。
「職人仕事を恥だと仰いますけれど、私はそうは思いませんわ。人の役に立つお仕事をなさる方は、素敵だと思いますの」
周囲の貴婦人たちが、小さく頷いた。
セレスティーヌは何も言えなかった。唇を引き結び、扇子を強く握り締めている。
「……そうですの。皆様がそうお考えなら、私の誤解でしたわね」
彼女は立ち上がった。
「失礼いたします。少々、気分が優れませんので」
その背中が、庭園から消えていく。
私は、声を上げてくれた令嬢たちに目礼した。彼女たちも、小さく微笑み返してくれた。
味方が、いる。
そう思えたことが、少しだけ救いだった。
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公爵邸に戻ると、執事のセバスチャンが待っていた。
「奥様、お手紙が届いております」
「どなたから?」
「モンフォール子爵家より」
心臓が、跳ねた。
リュカからだ。
「ありがとう。工房に届けて」
「かしこまりました」
工房に入り、扉を閉める。手紙を開いた。
『姉上
先日のお手紙、届いておりません。
執事のギルベールが、私宛の手紙を全て検閲しているようです。
この手紙も、信頼できる使用人に頼んで、密かに出してもらいました。
姉上、お願いです。
助けに来てください。
私は屋敷から出ることもできません。
ギルベールが、全てを監視しています。
モンフォール家は、もう私のものではありません。
あの男に、乗っ取られています。
リュカ・モンフォール』
手紙を持つ手が、震えた。
監視。検閲。軟禁。
予想以上に、事態は深刻だった。
リュカは、執事に囚われている。当主でありながら、自由を奪われている。
「……行かなければ」
気づけば、声に出していた。
今すぐ、モンフォール領に行かなければ。リュカを助けなければ。
私は手紙を引き出しにしまい、立ち上がった。
荷物をまとめる。護身用の魔道具を身につける。馬車の手配を——
「奥様」
セバスチャンの声がした。
「何でしょう」
「旦那様がお戻りになられました」
心臓が、凍りついた。
「……何ですって?」
「クレシー公爵閣下が、先ほどお戻りになられました。視察を早めに切り上げられたとのことです」
予定より四日も早い。
なぜ。
「旦那様が、奥様をお呼びです」
「……わかりました」
私は、荷物を置いた。
嫌な予感がした。
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書斎の扉を開けると、エミールが立っていた。
黒い軍服。旅の埃をまとったまま、窓際に佇んでいる。振り返った深い青の瞳は、冷たかった。
いつもの無表情ではない。
怒っている。
「おかえりなさいませ、エミール」
「ああ」
短い返事。
沈黙が落ちた。
私は扉の前に立ったまま、動けなかった。
「座れ」
エミールが、ソファを示した。
私は従った。向かいのソファに、エミールが腰を下ろす。
「一つ、聞きたいことがある」
「……何でしょうか」
「モンフォール家のことを、調べているな」
心臓が、止まりそうになった。
「なぜ、俺に言わなかった」
彼の声は、静かだった。けれど、その奥に押し殺した感情があるのがわかった。
「エミール、私は——」
「商会に財務資料を請求したことは、知っている。弟から手紙が来ていることも。そして今、単身でモンフォール領に向かおうとしていたことも」
全て、知られていた。
「なぜだ、シルヴィア」
彼の目が、私を射抜いた。
「なぜ、俺に相談しなかった」
言葉が、出てこなかった。
「……心配を、かけたくなかったんです」
「心配」
「はい。エミールは忙しくて、政務で大変で。私の実家の問題まで、背負わせるわけには——」
「それは、俺が決めることだ」
エミールの声が、低くなった。
「君が勝手に決めることじゃない」
「でも——」
「シルヴィア」
彼が立ち上がった。
「また、壁を作るのか」
その言葉が、胸を貫いた。
「俺たちは夫婦だ。君の家族の問題は、俺の問題でもある。それを、なぜわからない」
「わかっています。でも、私は——」
「一人で抱え込む癖が、抜けていない」
彼の声には、怒りだけではなく、悲しみが混じっていた。
「去年、同じことを言ったはずだ。一人で抱え込むなと。俺に頼れと。それなのに、君はまた——」
「……すみません」
声が、震えた。
エミールの言うとおりだった。
私は、また同じ過ちを繰り返していた。一人で解決しようとして、彼を遠ざけていた。
「心配をかけたくなかったんです。エミールには、もう十分すぎるほど助けてもらっているから。これ以上、頼るのは——」
「シルヴィア」
エミールが、私の前に膝をついた。
目線が同じ高さになる。深い青の瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。
「俺は、君に頼られたいんだ」
「え……」
「君が困っている時、俺を頼ってくれることが、俺の喜びなんだ。それを奪わないでくれ」
胸が、締め付けられた。
「君を守ることが、俺の存在意義だとは言わない。君は一人で立てる女だ。それは知っている。でも——」
彼の手が、私の手を取った。
「一人で立てることと、一人で抱え込むことは、違う」
涙が、溢れた。
「俺は、君と共に歩きたいんだ。君の荷物を、一緒に背負いたいんだ。それが、夫婦だろう」
「……エミール」
「話してくれ。全部。モンフォール家のこと。弟のこと。何があったのか」
私は、頷いた。
そして、全てを話した。
リュカからの手紙。横領の疑惑。ギルベールのこと。リュカが監視下に置かれていること。
エミールは、黙って聞いていた。
話し終えた時、彼は静かに言った。
「わかった」
「エミール……」
「明日、一緒にモンフォール領に行こう」
「いいんですか? 視察の途中で——」
「視察より、君の方が大事だ」
短い言葉だった。
けれど、その言葉が、どれほど私の心を救ったかわからない。
「……ありがとうございます」
「礼を言うな」
「言います」
「頑固だな」
「あなたほどではありません」
エミールの口元が、わずかに緩んだ。
「次からは、最初から話せ」
「……はい」
「約束だ」
「約束します」
彼の手が、私の頬に触れた。涙を拭ってくれる。
「泣くな」
「泣いていません」
「嘘つきだな」
「あなたに似たんです」
エミールが、小さく笑った。
その笑顔を見て、私はようやく息をつくことができた。
一人じゃない。
この人が、隣にいてくれる。
それを、改めて思い出した。




