第15話 モンフォールの現状
商会からの報告書は、予想以上に分厚かった。
工房の作業台に広げられた書類の束。モンフォール子爵家の過去五年間の財務記録、領地の収支報告、取引先との契約書の写し。
知り合いの商会主に頼んで、一週間かけて集めてもらったものだ。公爵夫人の立場を使えばもっと早く手に入っただろうが、エミールに知られたくなかった。だから、個人的な伝手を使った。
「……これは」
最初のページをめくった時点で、私は眉をひそめていた。
収入と支出のバランスが、明らかにおかしい。
モンフォール家の領地は小さいが、肥沃な土地だ。農作物の収穫は安定しているはずだった。それなのに、帳簿上の収入は年々減少している。
一方で、支出は増え続けていた。
「領地整備費」「設備投資」「人件費」「雑費」——項目だけを見れば、正当な支出に見える。けれど、金額が異常だった。
前世の記憶が、警鐘を鳴らしていた。
私は日本で設計技師をしていた。経理の専門家ではない。けれど、会社の帳簿を見る機会は何度もあった。不正経理の手口も、研修で学んだことがある。
「この『雑費』の項目……」
私は別の書類を引っ張り出した。
過去三年間の雑費の推移。金額は毎月ほぼ一定で、年間にすると相当な額になる。しかも、具体的な使途が一切記載されていない。
ヴァルトシュタイン伯爵家で見た帳簿と、同じパターンだった。
あの時は、義母マルグリットが架空の支出を計上し、自分の口座に送金していた。
今回も——同じことが起きているのではないか。
「ギルベール」
執事の名前を、呟いた。
リュカの手紙には、「執事が全てを取り仕切っている」と書かれていた。帳簿を管理しているのも、おそらく彼だろう。
だとすれば。
「横領、か」
声に出すと、現実味が増した。
リュカは気づいていないのだろう。あるいは、気づいていても何もできないのかもしれない。彼は当主とは名ばかりで、実権は執事に握られている。傀儡だ。
怒りが、込み上げてきた。
父の代から仕えていた執事。信頼されていた男。それが、主家の財産を横領している。
そして、リュカは助けを求めてきた。
「助けてください」と。
---
書類を読み終えた時、窓の外は既に暗くなっていた。
私は椅子の背にもたれ、目を閉じた。
疲れていた。身体ではなく、心が。
モンフォール家の問題は、私が思っていたよりも深刻だった。単なる借金ではない。横領が行われている可能性が高い。それを暴くには、証拠を集め、法的な手続きを踏まなければならない。
一人で、できるだろうか。
エミールに相談すれば、力を貸してくれるだろう。公爵家の権力を使えば、ギルベールを追い詰めることは難しくない。
けれど——
「これは、私の問題だ」
また、同じ言葉が浮かんだ。
エミールには、自分の仕事がある。王国筆頭公爵家の当主として、政務に忙殺されている。ここ一週間、夕食を共にする時間さえ取れない日が続いていた。
そんな彼に、私の実家の問題まで背負わせていいのか。
「奥様」
扉を叩く音がした。
「旦那様がお呼びです。夕食の時間でございます」
「……今行きます」
私は書類を引き出しにしまい、立ち上がった。
---
夕食の席は、静かだった。
食堂のテーブルには、エミールと私だけ。給仕たちが料理を運び、静かに下がっていく。
「今日は何を作っていた」
エミールが口を開いた。
「王妃陛下の腕輪です。設計が難航していて」
「そうか」
短い返事。
沈黙が落ちた。
以前なら、もっと会話があった。彼が工房に来て、私の作業を眺めて、ぽつりぽつりと言葉を交わして。
けれど、ここ一週間、それがなかった。
エミールは政務に追われていた。朝早くに出かけ、夜遅くに戻る。夕食を共にできるのは、三日に一度程度。
私は、モンフォール家の調査に没頭していた。工房に籠もり、書類を読み、考えを巡らせて。
すれ違っている。
わかっていた。けれど、どうすればいいかわからなかった。
「シルヴィア」
エミールの声で、顔を上げた。
「最近、顔色が悪い」
「そうですか?」
「嘘をつくな。俺にはわかる」
その目が、まっすぐに私を見ていた。
深い青の瞳。いつもは読み取れないその目に、今は明らかな心配の色があった。
「何かあったのか」
問われて、私は言葉に詰まった。
話すべきだろうか。リュカのこと、モンフォール家のこと、横領の疑いのこと。
けれど、口が開かなかった。
「……少し、考え事をしているだけです」
「考え事」
「はい。工房のことで」
嘘だった。
エミールは、しばらく私を見つめていた。
そして、小さく息を吐いた。
「そうか」
それ以上、追及はなかった。
彼は私を信じてくれている。だから、嘘を見抜いても、問い詰めない。私が話したくなるまで、待ってくれている。
それが、余計に胸を締め付けた。
---
夜。
寝室で、私は眠れずにいた。
隣にはエミールがいる。規則正しい寝息が聞こえる。けれど、私の頭の中は、モンフォール家の帳簿のことでいっぱいだった。
横領の証拠を集めなければ。
リュカに会いに行かなければ。
ギルベールを追い詰めなければ。
けれど、どこから手をつければいいのか。一人で、どこまでできるのか。
不安が、波のように押し寄せてきた。
「……っ」
知らず、拳を握り締めていた。
その時。
温かい手が、私の手を包んだ。
「エミール……?」
振り返ると、彼の目が開いていた。
暗闘の中でも、深い青の瞳が見える。
「起きていたんですか」
「ああ」
「すみません。起こしてしまいましたか」
「違う」
エミールの手が、私の指を一本ずつ解いていく。握り締めていた拳を、ゆっくりと開かせる。
「話したくなったら、聞く」
短い言葉だった。
「無理に聞き出すつもりはない。だが、一人で抱え込むな」
「……エミール」
「君が何を考えているか、俺にはわからない。だが、辛そうな顔をしているのはわかる」
彼の手が、私の手を握ったまま離れなかった。
「俺は君の味方だ。それだけは、忘れるな」
目の奥が、熱くなった。
話したい。全部話して、助けを求めたい。
けれど、まだ——まだ、できなかった。
「……ありがとうございます」
それだけを言って、私は彼の手を握り返した。
エミールは何も言わなかった。ただ、私の手を握ったまま、目を閉じた。
その温もりに包まれながら、私はようやく少しだけ眠ることができた。
---
翌朝。
朝食の席で、エミールが切り出した。
「明日から、地方視察に出る」
「視察、ですか」
「ああ。北部の領地で問題が起きている。一週間ほど、留守にする」
一週間。
私は、動揺を隠した。
「そうですか。お気をつけて」
「ああ」
エミールの目が、私を見つめた。
「君も、無理をするな」
「しません」
「本当か」
「本当です」
彼は、しばらく私を見つめていた。何か言いたげな目だった。けれど、結局何も言わずに立ち上がった。
「行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
翌日、玄関で彼を見送った。
馬車が門を出ていく。その姿が見えなくなるまで、私は立ち尽くしていた。
一週間。
エミールがいない、一週間。
その間に——
「動こう」
私は呟いた。
モンフォール家の問題を、自分で解決する。リュカに会いに行く。ギルベールの正体を暴く。
エミールが戻ってくる前に、片をつける。
そう決意しながら、私は工房へと足を向けた。
窓の外では、春の風が木々を揺らしていた。
嵐が近づいている予感がした。




