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白い結婚三年目、離縁届を置いておきますね  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第13話 春の大夜会

鏡の中の自分が、見知らぬ誰かのように見えた。


深い紫紺のドレス。銀糸の刺繍が裾に流れ、胸元には小ぶりの真珠があしらわれている。髪は侍女の手で丁寧に結い上げられ、エミールから贈られた銀細工の髪飾りが光を受けて煌めいていた。


「お似合いでございます、奥様」


侍女が微笑む。


「……ありがとう」


声が上ずった。


春の大夜会。今日、私は公爵夫人として正式に社交界デビューを果たす。国王陛下、王妃陛下への拝謁。数百人の貴族たちの前での挨拶。


わかっていた。覚悟もしていた。


それでも、手が震えるのを止められなかった。


「シルヴィア」


扉が開く音がした。


振り返ると、エミールが立っていた。


黒い正装。胸元には公爵家の紋章を象った金のブローチ。いつもより少しだけ整えられた黒髪。深い青の瞳が、私を見つめている。


「準備は」


「はい。今、終わりました」


私は立ち上がった。ドレスの裾が床を滑る。


エミールが近づいてきた。何も言わず、私の手を取る。


冷たくなっていた指先が、彼の温もりに包まれた。


「……緊張しているな」


「していません」


「手が冷たい」


反論できなかった。


エミールの指が、私の指を一本ずつ包み込むように握る。ゆっくりと、丁寧に。


「俺がいる」


低い声だった。


「君の隣に、ずっといる。忘れるな」


心臓が、大きく跳ねた。


「……はい」


頷くと、彼の目がわずかに和らいだ。


「行こう」


その手に導かれて、私は部屋を出た。


---


王宮の大広間は、光の海だった。


天井から吊るされた無数のシャンデリア。壁を彩る燭台の炎。白い大理石の床に、金糸の絨毯が敷かれている。


そして、そこに集う貴族たち。


公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵。王国中の名家が一堂に会する、年に一度の大夜会。


「クレシー公爵閣下、並びにクレシー公爵夫人のお成りです」


衛兵の声が響いた。


広間が、一瞬静まり返った。


視線が集まる。好奇、羨望、嫉妬、敵意。様々な感情を孕んだ目が、私たちを射抜いていた。


エミールが、私の手を握ったまま歩き始めた。


堂々とした足取り。王国筆頭公爵家の当主としての威厳。その隣を、私は背筋を伸ばして歩いた。


俯かない。怯えない。


私は、この人の妻だ。


広間を横切る間、囁き声が聞こえた。


「あれが新しい公爵夫人……」


「元伯爵家の、ねえ」


「でも、月影の工房の……」


「Sランク付与魔法師ですって」


様々な声。様々な視線。


けれど、私は前だけを見ていた。


エミールの手が、私の手を握っている。それだけで、十分だった。


---


玉座の間は、大広間よりもさらに荘厳だった。


深紅の絨毯が玉座まで続き、その両脇には近衛騎士が直立している。正面には国王陛下と王妃陛下が並んで座っていた。


「クレシー公爵、並びに公爵夫人。近う」


国王陛下の声が響いた。


エミールと共に進み出て、私は深く頭を下げた。


「国王陛下、王妃陛下。本日はこの栄えある場にお招きいただき、心より御礼申し上げます」


声は震えなかった。


何度も練習した言葉。エミールと侯爵夫人に教わった作法。全てを、正確に実行した。


「面を上げよ」


顔を上げると、国王陛下の鋭い目が私を見ていた。五十代半ばの、威厳に満ちた風貌。


「そなたが月影の工房主か」


「はい、陛下」


「騎士団からも評判を聞いておる。精進せよ」


「ありがたきお言葉でございます」


短い言葉だったが、それは認められたということだった。


王の言葉は重い。これで、私を「成り上がり」と嘲る者たちへの牽制になる。


「公爵夫人」


今度は王妃陛下が声をかけてきた。


四十代後半の、優雅な美しさを持つ女性。柔らかな微笑みを浮かべている。


「ようこそ、社交界へ。これからよろしくお願いいたしますね」


「こちらこそ、何卒よろしくお願いいたします」


王妃陛下の目が、温かかった。


その視線に、私は少しだけ救われた気がした。


---


拝謁を終え、大広間に戻ると、貴族たちが次々と挨拶に訪れた。


「公爵夫人、初めまして」


「お噂はかねがね」


「月影の工房の品、いつも愛用しております」


好意的な者もいた。冷淡な者もいた。探るような目で見てくる者もいた。


私は一人一人に丁寧に応対した。笑顔を絶やさず、言葉を選び、相手の名前と顔を記憶していく。


社交界とは、情報戦だ。


誰が味方で、誰が敵か。誰が中立で、誰が日和見か。それを見極めなければ、生き残れない。


「あら、公爵夫人」


聞き覚えのある声がした。


振り返ると、セレスティーヌ・ド・ヴェルサイユが立っていた。


金髪碧眼。純白のドレス。首元には青いサファイアのネックレスが輝いている。社交界の華という言葉が、そのまま形になったような姿だった。


「ヴェルサイユ嬢。お会いできて光栄です」


「ええ、私もですわ」


セレスティーヌが微笑んだ。


周囲の貴族たちが、二人のやり取りに注目している。茶会での噂が広まっているのかもしれない。


「拝謁、お疲れ様でした。緊張なさったでしょう?」


「いいえ、それほどでも」


「まあ、ご謙遜を」


セレスティーヌが扇子を開いた。


「それにしても、月影の工房のお品、本当に素晴らしいですわね。王宮でも評判ですもの」


「ありがとうございます」


「ただ……」


彼女の目が、すっと細くなった。


「あれは本当に、公爵夫人ご自身がお作りになっているのかしら?」


空気が、凍りついた。


周囲の貴族たちが、息を呑む気配がした。


「Sランク付与魔法師でいらっしゃるのは存じておりますけれど、あれほどの品を、お一人で……? 職人を雇っていらっしゃるのではなくて?」


言葉の刃が、静かに突き刺さってくる。


私の実力を疑っている。私が偽物だと、暗に示している。


「ヴェルサイユ嬢」


私は、まっすぐに彼女を見た。


「ご心配には及びません。月影の工房の品は、すべて私の手で作っております。疑問がおありでしたら、工房にお越しください。実演いたしますわ」


セレスティーヌの目が、わずかに見開かれた。


「まあ、そこまで仰るなら——」


「私からも一言、よろしいかしら」


別の声が割り込んだ。


振り返ると、王妃陛下が立っていた。


いつの間に、大広間にいらしたのだろう。周囲の貴族たちが、慌てて頭を下げる。


「王妃陛下……」


「セレスティーヌ嬢。公爵夫人の実力を疑っているの?」


王妃陛下の声は穏やかだったが、その目には有無を言わせぬ光があった。


「い、いいえ、そのような——」


「私は月影の工房の品を、もう三年ほど愛用しているの。王宮の魔道具師にも見せたけれど、あれほどの付与は誰にも真似できないと言っていたわ」


セレスティーヌの顔から、血の気が引いていく。


「公爵夫人の実力は、私が保証します。それでも疑うのかしら?」


「……いいえ。失礼いたしました」


セレスティーヌが、深く頭を下げた。


その声が、かすかに震えていた。


「良かったわ。誤解が解けて」


王妃陛下が微笑んだ。


そして、私の方を向いた。


「公爵夫人。今度、工房にお邪魔してもよろしいかしら? 新しい品を注文したいの」


「……はい。いつでもお越しください」


「楽しみにしているわ」


王妃陛下が去っていく。


後には、蒼白な顔のセレスティーヌと、呆然とした貴族たちが残された。


---


夜会の後半、ダンスの時間が始まった。


楽団が優雅な旋律を奏で始める。貴族たちが次々と踊りの輪に加わっていく。


「シルヴィア」


エミールが、私の前に立った。


「踊るか」


「……はい」


差し出された手を取る。


エミールに導かれ、広間の中央へ。周囲の視線が集まるのを感じながら、私たちは踊り始めた。


「王妃陛下に助けられたな」


「ええ。驚きました」


「俺も驚いた」


エミールの手が、私の腰を支えている。大きな手。温かい手。


「王妃陛下が月影の工房の顧客だったとは、知りませんでした」


「……そうか」


エミールの目が、どこか遠くを見ていた。


「エミール?」


「何でもない」


彼の視線が、私に戻った。


深い青の瞳。いつもは読み取れないその目が、今夜は少しだけ柔らかく見えた。


「今夜の君は、綺麗だ」


不意打ちだった。


「……っ」


「動揺するな。踊りが乱れる」


「あなたのせいです」


「知らん」


エミールの口元が、わずかに緩んだ。


周囲では、他の貴族たちも踊っている。けれど、エミールの目は私だけを見ていた。他の誰も見ていない。私だけを。


「エミール」


「何だ」


「私も、あなたが好きです」


彼の手が、一瞬強く握られた。


そして、何も言わずに踊り続ける。けれど、その耳が赤くなっているのを、私は見逃さなかった。


曲が終わる。


私たちは踊りの輪から離れ、広間の端へと移動した。給仕からグラスを受け取り、喉を潤す。


「公爵夫人」


声がした。


セレスティーヌだった。


先ほどの蒼白さは消え、いつもの完璧な笑顔を浮かべている。けれど、その目の奥には、隠しきれない炎があった。


「素敵なダンスでしたわ」


「ありがとうございます」


「クレシー公爵とお似合いですこと。本当に、お幸せそう」


その言葉に、棘はなかった。


けれど、次の言葉には、明確な意思があった。


「でも、これで終わりだと思わないでくださいね」


私は、彼女を見つめ返した。


「どういう意味でしょうか」


「社交界は、一度や二度の成功で生き残れる場所ではありませんの。これからが本番ですわ」


セレスティーヌが、扇子を閉じた。


「また、お会いしましょう。公爵夫人」


彼女が去っていく。


その背中を見送りながら、私は静かに息を吐いた。


「脅されたな」


エミールの声が、隣から聞こえた。


「ええ。そのようです」


「どうする」


私は、グラスを置いた。


「受けて立ちます」


エミールの目が、わずかに見開かれた。


「彼女が何を企んでいるかは知りません。でも、逃げるつもりはありません。私は公爵夫人です。あなたの妻です。そして、月影の工房主です」


私は、エミールを見上げた。


「その全てを守るために、戦います」


エミールは何も言わなかった。


けれど、その手が私の手を握った。


強く。確かに。


「俺もいる」


短い言葉だった。


けれど、それだけで十分だった。


窓の外では、春の夜空に星が瞬いていた。


戦いは、これから始まる。

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