第13話 春の大夜会
鏡の中の自分が、見知らぬ誰かのように見えた。
深い紫紺のドレス。銀糸の刺繍が裾に流れ、胸元には小ぶりの真珠があしらわれている。髪は侍女の手で丁寧に結い上げられ、エミールから贈られた銀細工の髪飾りが光を受けて煌めいていた。
「お似合いでございます、奥様」
侍女が微笑む。
「……ありがとう」
声が上ずった。
春の大夜会。今日、私は公爵夫人として正式に社交界デビューを果たす。国王陛下、王妃陛下への拝謁。数百人の貴族たちの前での挨拶。
わかっていた。覚悟もしていた。
それでも、手が震えるのを止められなかった。
「シルヴィア」
扉が開く音がした。
振り返ると、エミールが立っていた。
黒い正装。胸元には公爵家の紋章を象った金のブローチ。いつもより少しだけ整えられた黒髪。深い青の瞳が、私を見つめている。
「準備は」
「はい。今、終わりました」
私は立ち上がった。ドレスの裾が床を滑る。
エミールが近づいてきた。何も言わず、私の手を取る。
冷たくなっていた指先が、彼の温もりに包まれた。
「……緊張しているな」
「していません」
「手が冷たい」
反論できなかった。
エミールの指が、私の指を一本ずつ包み込むように握る。ゆっくりと、丁寧に。
「俺がいる」
低い声だった。
「君の隣に、ずっといる。忘れるな」
心臓が、大きく跳ねた。
「……はい」
頷くと、彼の目がわずかに和らいだ。
「行こう」
その手に導かれて、私は部屋を出た。
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王宮の大広間は、光の海だった。
天井から吊るされた無数のシャンデリア。壁を彩る燭台の炎。白い大理石の床に、金糸の絨毯が敷かれている。
そして、そこに集う貴族たち。
公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵。王国中の名家が一堂に会する、年に一度の大夜会。
「クレシー公爵閣下、並びにクレシー公爵夫人のお成りです」
衛兵の声が響いた。
広間が、一瞬静まり返った。
視線が集まる。好奇、羨望、嫉妬、敵意。様々な感情を孕んだ目が、私たちを射抜いていた。
エミールが、私の手を握ったまま歩き始めた。
堂々とした足取り。王国筆頭公爵家の当主としての威厳。その隣を、私は背筋を伸ばして歩いた。
俯かない。怯えない。
私は、この人の妻だ。
広間を横切る間、囁き声が聞こえた。
「あれが新しい公爵夫人……」
「元伯爵家の、ねえ」
「でも、月影の工房の……」
「Sランク付与魔法師ですって」
様々な声。様々な視線。
けれど、私は前だけを見ていた。
エミールの手が、私の手を握っている。それだけで、十分だった。
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玉座の間は、大広間よりもさらに荘厳だった。
深紅の絨毯が玉座まで続き、その両脇には近衛騎士が直立している。正面には国王陛下と王妃陛下が並んで座っていた。
「クレシー公爵、並びに公爵夫人。近う」
国王陛下の声が響いた。
エミールと共に進み出て、私は深く頭を下げた。
「国王陛下、王妃陛下。本日はこの栄えある場にお招きいただき、心より御礼申し上げます」
声は震えなかった。
何度も練習した言葉。エミールと侯爵夫人に教わった作法。全てを、正確に実行した。
「面を上げよ」
顔を上げると、国王陛下の鋭い目が私を見ていた。五十代半ばの、威厳に満ちた風貌。
「そなたが月影の工房主か」
「はい、陛下」
「騎士団からも評判を聞いておる。精進せよ」
「ありがたきお言葉でございます」
短い言葉だったが、それは認められたということだった。
王の言葉は重い。これで、私を「成り上がり」と嘲る者たちへの牽制になる。
「公爵夫人」
今度は王妃陛下が声をかけてきた。
四十代後半の、優雅な美しさを持つ女性。柔らかな微笑みを浮かべている。
「ようこそ、社交界へ。これからよろしくお願いいたしますね」
「こちらこそ、何卒よろしくお願いいたします」
王妃陛下の目が、温かかった。
その視線に、私は少しだけ救われた気がした。
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拝謁を終え、大広間に戻ると、貴族たちが次々と挨拶に訪れた。
「公爵夫人、初めまして」
「お噂はかねがね」
「月影の工房の品、いつも愛用しております」
好意的な者もいた。冷淡な者もいた。探るような目で見てくる者もいた。
私は一人一人に丁寧に応対した。笑顔を絶やさず、言葉を選び、相手の名前と顔を記憶していく。
社交界とは、情報戦だ。
誰が味方で、誰が敵か。誰が中立で、誰が日和見か。それを見極めなければ、生き残れない。
「あら、公爵夫人」
聞き覚えのある声がした。
振り返ると、セレスティーヌ・ド・ヴェルサイユが立っていた。
金髪碧眼。純白のドレス。首元には青いサファイアのネックレスが輝いている。社交界の華という言葉が、そのまま形になったような姿だった。
「ヴェルサイユ嬢。お会いできて光栄です」
「ええ、私もですわ」
セレスティーヌが微笑んだ。
周囲の貴族たちが、二人のやり取りに注目している。茶会での噂が広まっているのかもしれない。
「拝謁、お疲れ様でした。緊張なさったでしょう?」
「いいえ、それほどでも」
「まあ、ご謙遜を」
セレスティーヌが扇子を開いた。
「それにしても、月影の工房のお品、本当に素晴らしいですわね。王宮でも評判ですもの」
「ありがとうございます」
「ただ……」
彼女の目が、すっと細くなった。
「あれは本当に、公爵夫人ご自身がお作りになっているのかしら?」
空気が、凍りついた。
周囲の貴族たちが、息を呑む気配がした。
「Sランク付与魔法師でいらっしゃるのは存じておりますけれど、あれほどの品を、お一人で……? 職人を雇っていらっしゃるのではなくて?」
言葉の刃が、静かに突き刺さってくる。
私の実力を疑っている。私が偽物だと、暗に示している。
「ヴェルサイユ嬢」
私は、まっすぐに彼女を見た。
「ご心配には及びません。月影の工房の品は、すべて私の手で作っております。疑問がおありでしたら、工房にお越しください。実演いたしますわ」
セレスティーヌの目が、わずかに見開かれた。
「まあ、そこまで仰るなら——」
「私からも一言、よろしいかしら」
別の声が割り込んだ。
振り返ると、王妃陛下が立っていた。
いつの間に、大広間にいらしたのだろう。周囲の貴族たちが、慌てて頭を下げる。
「王妃陛下……」
「セレスティーヌ嬢。公爵夫人の実力を疑っているの?」
王妃陛下の声は穏やかだったが、その目には有無を言わせぬ光があった。
「い、いいえ、そのような——」
「私は月影の工房の品を、もう三年ほど愛用しているの。王宮の魔道具師にも見せたけれど、あれほどの付与は誰にも真似できないと言っていたわ」
セレスティーヌの顔から、血の気が引いていく。
「公爵夫人の実力は、私が保証します。それでも疑うのかしら?」
「……いいえ。失礼いたしました」
セレスティーヌが、深く頭を下げた。
その声が、かすかに震えていた。
「良かったわ。誤解が解けて」
王妃陛下が微笑んだ。
そして、私の方を向いた。
「公爵夫人。今度、工房にお邪魔してもよろしいかしら? 新しい品を注文したいの」
「……はい。いつでもお越しください」
「楽しみにしているわ」
王妃陛下が去っていく。
後には、蒼白な顔のセレスティーヌと、呆然とした貴族たちが残された。
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夜会の後半、ダンスの時間が始まった。
楽団が優雅な旋律を奏で始める。貴族たちが次々と踊りの輪に加わっていく。
「シルヴィア」
エミールが、私の前に立った。
「踊るか」
「……はい」
差し出された手を取る。
エミールに導かれ、広間の中央へ。周囲の視線が集まるのを感じながら、私たちは踊り始めた。
「王妃陛下に助けられたな」
「ええ。驚きました」
「俺も驚いた」
エミールの手が、私の腰を支えている。大きな手。温かい手。
「王妃陛下が月影の工房の顧客だったとは、知りませんでした」
「……そうか」
エミールの目が、どこか遠くを見ていた。
「エミール?」
「何でもない」
彼の視線が、私に戻った。
深い青の瞳。いつもは読み取れないその目が、今夜は少しだけ柔らかく見えた。
「今夜の君は、綺麗だ」
不意打ちだった。
「……っ」
「動揺するな。踊りが乱れる」
「あなたのせいです」
「知らん」
エミールの口元が、わずかに緩んだ。
周囲では、他の貴族たちも踊っている。けれど、エミールの目は私だけを見ていた。他の誰も見ていない。私だけを。
「エミール」
「何だ」
「私も、あなたが好きです」
彼の手が、一瞬強く握られた。
そして、何も言わずに踊り続ける。けれど、その耳が赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
曲が終わる。
私たちは踊りの輪から離れ、広間の端へと移動した。給仕からグラスを受け取り、喉を潤す。
「公爵夫人」
声がした。
セレスティーヌだった。
先ほどの蒼白さは消え、いつもの完璧な笑顔を浮かべている。けれど、その目の奥には、隠しきれない炎があった。
「素敵なダンスでしたわ」
「ありがとうございます」
「クレシー公爵とお似合いですこと。本当に、お幸せそう」
その言葉に、棘はなかった。
けれど、次の言葉には、明確な意思があった。
「でも、これで終わりだと思わないでくださいね」
私は、彼女を見つめ返した。
「どういう意味でしょうか」
「社交界は、一度や二度の成功で生き残れる場所ではありませんの。これからが本番ですわ」
セレスティーヌが、扇子を閉じた。
「また、お会いしましょう。公爵夫人」
彼女が去っていく。
その背中を見送りながら、私は静かに息を吐いた。
「脅されたな」
エミールの声が、隣から聞こえた。
「ええ。そのようです」
「どうする」
私は、グラスを置いた。
「受けて立ちます」
エミールの目が、わずかに見開かれた。
「彼女が何を企んでいるかは知りません。でも、逃げるつもりはありません。私は公爵夫人です。あなたの妻です。そして、月影の工房主です」
私は、エミールを見上げた。
「その全てを守るために、戦います」
エミールは何も言わなかった。
けれど、その手が私の手を握った。
強く。確かに。
「俺もいる」
短い言葉だった。
けれど、それだけで十分だった。
窓の外では、春の夜空に星が瞬いていた。
戦いは、これから始まる。




