表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白い結婚三年目、離縁届を置いておきますね  作者: 九葉(くずは)
第2章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/32

第12話 囁かれる陰口

レオン侯爵邸の庭園は、早春の花で彩られていた。


白い藤棚の下に設けられたテーブルには、貴婦人たちが優雅に腰掛けている。銀の茶器が陽光を反射し、給仕たちが音もなく行き交う。


私は侯爵夫人に案内され、庭園の一角へと足を進めた。


「クレシー公爵夫人のお越しです」


その一言で、庭園の空気が変わった。


会話が止まる。視線が集まる。好奇、警戒、そして——軽蔑。


覚悟はしていた。


大夜会の前に、こうした小規模な茶会で顔を見せておく必要がある。エミールもそう言っていた。いきなり大舞台に立つより、少しずつ社交界に慣れておいた方がいいと。


「ようこそ、公爵夫人」


レオン侯爵夫人が柔らかく微笑んだ。四十代半ばの、落ち着いた雰囲気の女性だ。夫のレオン侯爵はエミールの親友であり、侯爵夫人も私に好意的だと聞いている。


「お招きいただき、ありがとうございます」


「いいえ。クレシー公爵からも、よろしくお伝えくださいと言われておりましたのよ」


侯爵夫人に導かれ、私は空いている席に腰を下ろした。


周囲の令嬢たちが、ちらちらとこちらを窺っている。誰も話しかけてこない。まるで、触れてはいけないものを見るような目だった。


「紅茶をどうぞ」


侯爵夫人が自ら茶を注いでくれた。その気遣いが、ありがたかった。


「ありがとうございます」


「お口に合うとよろしいのですが。東方から取り寄せた茶葉ですの」


穏やかな会話を交わしながら、私は周囲の様子を観察していた。


令嬢たちは三つほどのグループに分かれている。年配の夫人たちは比較的落ち着いた態度だが、若い令嬢たちの目には明らかな敵意があった。


仕方のないことだと思う。


私は「元伯爵家の出戻り」だ。しかも、王国筆頭公爵家に嫁いだ。彼女たちから見れば、成り上がり以外の何者でもないだろう。


「——聞いた? あの方、離縁されたんですって」


声が聞こえた。


小さな声だったが、わざと聞こえるように囁いている。


「まあ。それでクレシー公爵に拾われたの?」


「拾われた、というより、取り入ったのでしょうね。何しろ、職人仕事をしていたそうですから」


「貴族が職人ですって? 恥ずかしい」


くすくすと笑い声が上がる。


私は紅茶を口に運んだ。


熱い液体が喉を通り過ぎていく。手は震えていない。表情も変えていない。


「——お気の毒に。クレシー公爵も、ああいう方しか選べなかったのね」


「本当に。もっとふさわしい方がいらしたでしょうに」


聞こえている。


全部、聞こえている。


けれど、私は反応しなかった。


かつてなら、傷ついていたかもしれない。ヴァルトシュタイン伯爵家にいた頃の私なら、俯いて、唇を噛んで、耐えることしかできなかった。


今は違う。


私には、自分で築いたものがある。六年間かけて育てた工房がある。Sランク付与魔法師という実力がある。そして——私を信じてくれる人がいる。


彼女たちの言葉は、私の価値を決めない。


「公爵夫人」


侯爵夫人が、そっと声をかけてきた。


「お気になさらないで。若い子たちは、まだ世間知らずですから」


「いいえ、大丈夫です」


私は微笑んだ。


「聞こえておりますが、私には関係のないことですので」


侯爵夫人の目が、わずかに見開かれた。そして、感心したように頷いた。


「……お強いのですね」


「強いのではありません。ただ、自分の価値は自分で知っているだけです」


それ以上、何も言う必要はなかった。


---


茶会が半ばを過ぎた頃、庭園に新たな客が現れた。


「まあ、セレスティーヌ様!」


令嬢たちの声が華やぐ。さきほどまで陰口を叩いていた者たちが、競うように立ち上がった。


振り返ると、一人の女性が庭園に足を踏み入れるところだった。


金髪碧眼。華やかな美貌。最新の流行を纏った、まさに社交界の華という言葉がふさわしい令嬢。


「ごきげんよう、皆様」


鈴を転がすような声だった。


令嬢たちが彼女を取り囲む。セレスティーヌと呼ばれた女性は、優雅に微笑みながら挨拶を交わしていた。


「セレスティーヌ・ド・ヴェルサイユ嬢ですわ」


侯爵夫人が小声で教えてくれた。


「ヴェルサイユ侯爵家のご令嬢です。慈善活動に熱心で、社交界でも人気のある方ですの」


「そうですか」


私は彼女を観察した。


二十代半ばだろうか。自信に満ちた立ち居振る舞い。周囲の令嬢たちを従えるような存在感。確かに、社交界の華と呼ばれるのも納得できる。


ふと、彼女の視線がこちらを向いた。


碧眼が、私を捉える。


一瞬、その目に何かが閃いた。好奇心か、それとも——別の何かか。


「あら」


セレスティーヌが、こちらに歩いてきた。


「お初にお目にかかりますわね。クレシー公爵夫人でいらっしゃいますか?」


「ええ。シルヴィア・ド・クレシーです」


「まあ、お噂はかねがね」


彼女が微笑んだ。


完璧な笑顔だった。けれど、その奥に何かが潜んでいるような気がした。


「月影の工房の方でしょう? Sランク付与魔法師でいらっしゃるとか。素晴らしいことですわ」


「ありがとうございます」


「私も以前から興味がありましたの。貴族の方が職人仕事をなさるなんて、珍しいですものね」


言葉は褒めているように聞こえる。けれど、その語尾には微かな棘があった。


「珍しいかどうかは存じませんが、私にとっては大切な仕事です」


「ええ、ええ、もちろんですわ」


セレスティーヌが扇子を開いた。


「それにしても、クレシー公爵がご結婚なさったと聞いた時は、驚きましたわ。あの方、誰とも結婚しないと仰っていたのに」


心臓が、一瞬跳ねた。


「ご存知でしたの?」


彼女の目が、こちらを見据える。


「ええ。昔、少しだけご縁がありましたの。もう何年も前のことですけれど」


その言葉の意味を、私は理解した。


縁談。


エミールとこの女性の間に、かつて縁談があったのだ。


「そうでしたか」


私は平静を装った。


「存じませんでした」


「あら、旦那様はお話しにならなかったの?」


セレスティーヌが、くすりと笑った。


「まあ、無理もありませんわね。あの方、お口が重いですもの。私との縁談が流れた後、ずっとお一人でいらしたのに……急にご結婚なさるなんて、本当に驚きましたわ」


言葉の端々に、刃が混じっている。


表面上は親しげに。けれど、その奥には明らかな敵意があった。


「私も驚いています」


私は、あえて微笑んだ。


「エミールが私を選んでくれたことに、今でも感謝しています」


セレスティーヌの目が、一瞬細くなった。


「……そう。お幸せそうで、何よりですわ」


沈黙が落ちた。


周囲の令嬢たちが、固唾を呑んで見守っている。


「春の大夜会、楽しみにしておりますわ」


セレスティーヌが、扇子を閉じた。


「公爵夫人の正式デビュー、拝見させていただきますわね」


その言葉は、祝福ではなかった。


宣戦布告だった。


「ええ。私も楽しみにしています」


私は、彼女の目をまっすぐに見返した。


「ヴェルサイユ嬢にお会いできることを」


セレスティーヌの唇が、わずかに歪んだ。


そして、何も言わずに踵を返した。


---


帰りの馬車の中で、私は窓の外を眺めていた。


夕暮れの王都が、ゆっくりと流れていく。


セレスティーヌ・ド・ヴェルサイユ。


エミールとの縁談が、かつてあった女性。社交界の華。慈善活動に熱心な侯爵令嬢。


そして——私を敵視している者。


理由は、おそらくエミールだろう。


彼女は待っていたのかもしれない。エミールが婚約者を亡くした後、いつか自分に振り向いてくれることを。それなのに、私が現れた。


嫉妬。逆恨み。


理解できないわけではない。けれど、だからといって引くつもりはなかった。


「奥様」


馬車が公爵邸に着いた。


玄関でエミールが待っていた。政務を終えて、私の帰りを待っていたのだろう。


「おかえり」


「ただいま戻りました」


「茶会はどうだった」


私は、一瞬迷った。


セレスティーヌのことを話すべきだろうか。エミールとの縁談のことを、問い詰めるべきだろうか。


けれど、今はやめておくことにした。


「陰口を叩かれました」


正直に答えた。


「成り上がりだと。職人仕事が恥ずかしいと」


エミールの目が、わずかに細くなった。


「誰だ」


「名前は存じません。若い令嬢たちでした」


「……そうか」


エミールは何も言わなかった。


怒りを見せることも、慰めの言葉をかけることもなかった。ただ、私の手を取り、屋敷の中へと導いた。


書斎に入ると、彼は私を椅子に座らせ、自分は向かいに腰を下ろした。


「傷ついたか」


「いいえ」


「嘘をつくな」


「嘘ではありません」


私は、まっすぐに彼を見た。


「聞こえていました。でも、気にしませんでした。彼女たちの言葉は、私の価値を決めませんから」


エミールが、じっと私を見つめていた。


そして、ゆっくりと頷いた。


「その通りだ」


彼の手が、私の手に重なった。


「君の価値は、君が決める。社交界の連中が何を言おうと、俺が何を言おうと、それは変わらない」


「エミール」


「君は自分の足で立ってきた。それを知らない者が何を言っても、気にする必要はない」


温かい手だった。


大きくて、硬くて、けれど優しい手。


「……ありがとうございます」


「礼を言うな」


「言います」


「頑固だな」


「あなたほどではありません」


エミールの口元が、わずかに緩んだ。


その表情を見ていると、セレスティーヌのことなど、どうでもよくなった。


この人がいる。私の隣にいてくれる。


それだけで、十分だと思えた。


「エミール」


「何だ」


「春の大夜会、楽しみにしています」


彼の眉が、かすかに上がった。


「社交界が、ではありません。あなたと一緒に踊れることが」


エミールは何も言わなかった。


けれど、その耳が赤くなっているのを、私は見逃さなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ