第12話 囁かれる陰口
レオン侯爵邸の庭園は、早春の花で彩られていた。
白い藤棚の下に設けられたテーブルには、貴婦人たちが優雅に腰掛けている。銀の茶器が陽光を反射し、給仕たちが音もなく行き交う。
私は侯爵夫人に案内され、庭園の一角へと足を進めた。
「クレシー公爵夫人のお越しです」
その一言で、庭園の空気が変わった。
会話が止まる。視線が集まる。好奇、警戒、そして——軽蔑。
覚悟はしていた。
大夜会の前に、こうした小規模な茶会で顔を見せておく必要がある。エミールもそう言っていた。いきなり大舞台に立つより、少しずつ社交界に慣れておいた方がいいと。
「ようこそ、公爵夫人」
レオン侯爵夫人が柔らかく微笑んだ。四十代半ばの、落ち着いた雰囲気の女性だ。夫のレオン侯爵はエミールの親友であり、侯爵夫人も私に好意的だと聞いている。
「お招きいただき、ありがとうございます」
「いいえ。クレシー公爵からも、よろしくお伝えくださいと言われておりましたのよ」
侯爵夫人に導かれ、私は空いている席に腰を下ろした。
周囲の令嬢たちが、ちらちらとこちらを窺っている。誰も話しかけてこない。まるで、触れてはいけないものを見るような目だった。
「紅茶をどうぞ」
侯爵夫人が自ら茶を注いでくれた。その気遣いが、ありがたかった。
「ありがとうございます」
「お口に合うとよろしいのですが。東方から取り寄せた茶葉ですの」
穏やかな会話を交わしながら、私は周囲の様子を観察していた。
令嬢たちは三つほどのグループに分かれている。年配の夫人たちは比較的落ち着いた態度だが、若い令嬢たちの目には明らかな敵意があった。
仕方のないことだと思う。
私は「元伯爵家の出戻り」だ。しかも、王国筆頭公爵家に嫁いだ。彼女たちから見れば、成り上がり以外の何者でもないだろう。
「——聞いた? あの方、離縁されたんですって」
声が聞こえた。
小さな声だったが、わざと聞こえるように囁いている。
「まあ。それでクレシー公爵に拾われたの?」
「拾われた、というより、取り入ったのでしょうね。何しろ、職人仕事をしていたそうですから」
「貴族が職人ですって? 恥ずかしい」
くすくすと笑い声が上がる。
私は紅茶を口に運んだ。
熱い液体が喉を通り過ぎていく。手は震えていない。表情も変えていない。
「——お気の毒に。クレシー公爵も、ああいう方しか選べなかったのね」
「本当に。もっとふさわしい方がいらしたでしょうに」
聞こえている。
全部、聞こえている。
けれど、私は反応しなかった。
かつてなら、傷ついていたかもしれない。ヴァルトシュタイン伯爵家にいた頃の私なら、俯いて、唇を噛んで、耐えることしかできなかった。
今は違う。
私には、自分で築いたものがある。六年間かけて育てた工房がある。Sランク付与魔法師という実力がある。そして——私を信じてくれる人がいる。
彼女たちの言葉は、私の価値を決めない。
「公爵夫人」
侯爵夫人が、そっと声をかけてきた。
「お気になさらないで。若い子たちは、まだ世間知らずですから」
「いいえ、大丈夫です」
私は微笑んだ。
「聞こえておりますが、私には関係のないことですので」
侯爵夫人の目が、わずかに見開かれた。そして、感心したように頷いた。
「……お強いのですね」
「強いのではありません。ただ、自分の価値は自分で知っているだけです」
それ以上、何も言う必要はなかった。
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茶会が半ばを過ぎた頃、庭園に新たな客が現れた。
「まあ、セレスティーヌ様!」
令嬢たちの声が華やぐ。さきほどまで陰口を叩いていた者たちが、競うように立ち上がった。
振り返ると、一人の女性が庭園に足を踏み入れるところだった。
金髪碧眼。華やかな美貌。最新の流行を纏った、まさに社交界の華という言葉がふさわしい令嬢。
「ごきげんよう、皆様」
鈴を転がすような声だった。
令嬢たちが彼女を取り囲む。セレスティーヌと呼ばれた女性は、優雅に微笑みながら挨拶を交わしていた。
「セレスティーヌ・ド・ヴェルサイユ嬢ですわ」
侯爵夫人が小声で教えてくれた。
「ヴェルサイユ侯爵家のご令嬢です。慈善活動に熱心で、社交界でも人気のある方ですの」
「そうですか」
私は彼女を観察した。
二十代半ばだろうか。自信に満ちた立ち居振る舞い。周囲の令嬢たちを従えるような存在感。確かに、社交界の華と呼ばれるのも納得できる。
ふと、彼女の視線がこちらを向いた。
碧眼が、私を捉える。
一瞬、その目に何かが閃いた。好奇心か、それとも——別の何かか。
「あら」
セレスティーヌが、こちらに歩いてきた。
「お初にお目にかかりますわね。クレシー公爵夫人でいらっしゃいますか?」
「ええ。シルヴィア・ド・クレシーです」
「まあ、お噂はかねがね」
彼女が微笑んだ。
完璧な笑顔だった。けれど、その奥に何かが潜んでいるような気がした。
「月影の工房の方でしょう? Sランク付与魔法師でいらっしゃるとか。素晴らしいことですわ」
「ありがとうございます」
「私も以前から興味がありましたの。貴族の方が職人仕事をなさるなんて、珍しいですものね」
言葉は褒めているように聞こえる。けれど、その語尾には微かな棘があった。
「珍しいかどうかは存じませんが、私にとっては大切な仕事です」
「ええ、ええ、もちろんですわ」
セレスティーヌが扇子を開いた。
「それにしても、クレシー公爵がご結婚なさったと聞いた時は、驚きましたわ。あの方、誰とも結婚しないと仰っていたのに」
心臓が、一瞬跳ねた。
「ご存知でしたの?」
彼女の目が、こちらを見据える。
「ええ。昔、少しだけご縁がありましたの。もう何年も前のことですけれど」
その言葉の意味を、私は理解した。
縁談。
エミールとこの女性の間に、かつて縁談があったのだ。
「そうでしたか」
私は平静を装った。
「存じませんでした」
「あら、旦那様はお話しにならなかったの?」
セレスティーヌが、くすりと笑った。
「まあ、無理もありませんわね。あの方、お口が重いですもの。私との縁談が流れた後、ずっとお一人でいらしたのに……急にご結婚なさるなんて、本当に驚きましたわ」
言葉の端々に、刃が混じっている。
表面上は親しげに。けれど、その奥には明らかな敵意があった。
「私も驚いています」
私は、あえて微笑んだ。
「エミールが私を選んでくれたことに、今でも感謝しています」
セレスティーヌの目が、一瞬細くなった。
「……そう。お幸せそうで、何よりですわ」
沈黙が落ちた。
周囲の令嬢たちが、固唾を呑んで見守っている。
「春の大夜会、楽しみにしておりますわ」
セレスティーヌが、扇子を閉じた。
「公爵夫人の正式デビュー、拝見させていただきますわね」
その言葉は、祝福ではなかった。
宣戦布告だった。
「ええ。私も楽しみにしています」
私は、彼女の目をまっすぐに見返した。
「ヴェルサイユ嬢にお会いできることを」
セレスティーヌの唇が、わずかに歪んだ。
そして、何も言わずに踵を返した。
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帰りの馬車の中で、私は窓の外を眺めていた。
夕暮れの王都が、ゆっくりと流れていく。
セレスティーヌ・ド・ヴェルサイユ。
エミールとの縁談が、かつてあった女性。社交界の華。慈善活動に熱心な侯爵令嬢。
そして——私を敵視している者。
理由は、おそらくエミールだろう。
彼女は待っていたのかもしれない。エミールが婚約者を亡くした後、いつか自分に振り向いてくれることを。それなのに、私が現れた。
嫉妬。逆恨み。
理解できないわけではない。けれど、だからといって引くつもりはなかった。
「奥様」
馬車が公爵邸に着いた。
玄関でエミールが待っていた。政務を終えて、私の帰りを待っていたのだろう。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
「茶会はどうだった」
私は、一瞬迷った。
セレスティーヌのことを話すべきだろうか。エミールとの縁談のことを、問い詰めるべきだろうか。
けれど、今はやめておくことにした。
「陰口を叩かれました」
正直に答えた。
「成り上がりだと。職人仕事が恥ずかしいと」
エミールの目が、わずかに細くなった。
「誰だ」
「名前は存じません。若い令嬢たちでした」
「……そうか」
エミールは何も言わなかった。
怒りを見せることも、慰めの言葉をかけることもなかった。ただ、私の手を取り、屋敷の中へと導いた。
書斎に入ると、彼は私を椅子に座らせ、自分は向かいに腰を下ろした。
「傷ついたか」
「いいえ」
「嘘をつくな」
「嘘ではありません」
私は、まっすぐに彼を見た。
「聞こえていました。でも、気にしませんでした。彼女たちの言葉は、私の価値を決めませんから」
エミールが、じっと私を見つめていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「その通りだ」
彼の手が、私の手に重なった。
「君の価値は、君が決める。社交界の連中が何を言おうと、俺が何を言おうと、それは変わらない」
「エミール」
「君は自分の足で立ってきた。それを知らない者が何を言っても、気にする必要はない」
温かい手だった。
大きくて、硬くて、けれど優しい手。
「……ありがとうございます」
「礼を言うな」
「言います」
「頑固だな」
「あなたほどではありません」
エミールの口元が、わずかに緩んだ。
その表情を見ていると、セレスティーヌのことなど、どうでもよくなった。
この人がいる。私の隣にいてくれる。
それだけで、十分だと思えた。
「エミール」
「何だ」
「春の大夜会、楽しみにしています」
彼の眉が、かすかに上がった。
「社交界が、ではありません。あなたと一緒に踊れることが」
エミールは何も言わなかった。
けれど、その耳が赤くなっているのを、私は見逃さなかった。




