第11話 公爵夫人の朝
工房に朝日が差し込む頃、私は作業台に向かっていた。
窓から見える庭園には、まだ霜が降りている。早春の空気は冷たいが、工房の中は魔道具の炉が放つ熱で心地よい温度に保たれていた。
手元には、半分ほど完成した護符がある。依頼主は王都の商会長。遠方への旅が多いため、身を守る付与を施した品が欲しいとのことだった。
複合付与の設計図を頭の中で組み立てながら、私は細い筆で魔力を込めた文様を描いていく。
結婚して一年。
工房は王都の店舗から公爵邸の離れに移したが、注文は相変わらず途切れない。むしろ、公爵夫人が作る魔道具ということで、以前より話題になっているらしい。
複雑な気持ちがないわけではない。私は職人として評価されたいのであって、公爵夫人という肩書きで注目されたいわけではない。
けれど、エミールは何も言わなかった。私が工房を続けることを、当然のこととして受け入れてくれた。
それだけで、十分だと思えた。
「シルヴィア」
扉が開く音がした。
振り返らなくても、誰が来たかはわかっている。
「おはようございます、エミール」
「ああ」
黒い軍服姿のエミールが、工房に足を踏み入れる。深い青の瞳が、私の手元を覗き込んだ。
「今日は何を作っている」
「護符です。複合付与で、防御と警報の二重構造に」
「商会長の依頼か」
「よくご存知ですね」
「俺の妻に依頼する者は把握している」
さらりと言われて、少し頬が熱くなった。
一年経っても、この人の言葉には時々不意打ちを食らう。本人は何でもないことのように言うから、余計にたちが悪い。
「それで」
エミールが腕を組んだ。
「朝食は」
「もう少しで区切りがつきますので」
「いつもそう言う」
「本当にもう少しです」
「昨日も同じことを言っていた」
反論できなかった。
エミールが無言で椅子を引き、作業台の隣に座る。待つ姿勢だった。
これが、私たちの朝の日課になっていた。
エミールは毎朝、政務の前に必ず工房に顔を出す。私が作業に没頭して朝食を忘れることを知っているからだ。
最初の頃は、執事のセバスチャンが呼びに来ていた。しかしいつからか、エミール自身が来るようになった。
理由を聞いたことがある。
「顔を見たい」
それだけだった。
不器用な人だと思う。言葉は少ないし、表情も乏しい。けれど、行動で示してくれる。毎日、毎朝、変わらずに。
「……わかりました」
私は筆を置いた。
「行きましょう」
エミールの目が、わずかに和らいだ。
朝食室には、柔らかな陽光が差し込んでいた。
白いテーブルクロスの上に、焼きたてのパン、季節の果物、温かいスープが並んでいる。給仕が紅茶を注ぎ、静かに下がった。
「領地の視察は終わりましたか」
「ああ。昨日で一段落だ」
「お疲れ様でした」
「大したことはない」
エミールがパンを手に取る。その横顔を、私はぼんやりと眺めていた。
一年前、この人が私に求婚した時のことを思い出す。
『俺は君を守りたいんじゃない。君と共に歩きたい』
あの言葉は、嘘ではなかった。
エミールは私を束縛しない。工房を続けることも、自分の時間を持つことも、すべて尊重してくれる。その上で、こうして毎朝顔を見に来る。
静かな溺愛、と誰かが言っていた。言い得て妙だと思う。
「シルヴィア」
「はい」
「食べていない」
見ると、私の皿にはまだ何も盛られていなかった。
「すみません、考え事を」
「何を考えていた」
「……あなたのことを」
エミールの手が、一瞬止まった。
そしてすぐに、何事もなかったようにパンを口に運ぶ。けれど、その耳がわずかに赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
「……食べろ」
「はい」
笑いをこらえながら、私はスープに手を伸ばした。
朝食を終えた頃、執事のセバスチャンが書斎に現れた。
「奥様、旦那様。王宮よりお届け物でございます」
銀の盆の上に、豪華な封筒が載っている。深紅の封蝋に刻まれているのは、王家の紋章だった。
「春の大夜会の招待状か」
エミールが封筒を手に取った。
春の大夜会。
王国最大の社交行事であり、貴族たちが一堂に会する場。そして――公爵夫人となった者が、正式に社交界デビューを果たす舞台。
「はい。三週間後の開催でございます」
セバスチャンが恭しく頭を下げる。
「国王陛下、王妃陛下への拝謁も予定されております」
胸の奥が、きゅっと締まった。
わかっていたことだ。結婚して一年以内に、公爵夫人として社交界に正式デビューしなければならない。それが慣例だと、エミールからも聞いていた。
けれど、実際に招待状を目の前にすると、不安が込み上げてくる。
私は、社交界で歓迎される存在ではない。
かつてヴァルトシュタイン伯爵家にいた頃、どれだけ冷遇されたか。陰口を叩かれ、無視され、存在しないもののように扱われた。
今は公爵夫人という立場がある。Sランク付与魔法師という実績もある。けれど、社交界の記憶は簡単には消えない。
「シルヴィア」
エミールの声で、我に返った。
「……はい」
「顔色が悪い」
「そんなことは」
「嘘をつくな」
見透かされていた。
エミールが招待状をテーブルに置き、私の方を向いた。深い青の瞳が、まっすぐに私を見つめている。
「社交界が不安か」
「……少しだけ」
正直に答えた。
この人には、嘘をつきたくなかった。
「以前のことを、考えてしまいます。伯爵家にいた頃、私は……あまり、良い扱いを受けていませんでしたから」
「知っている」
「ええ。だから、また同じようなことが起きるのではないかと」
言葉にすると、余計に不安が膨らんだ。
あの頃の私には、何もなかった。実家は没落し、夫は無関心で、義母には敵視されていた。社交界で陰口を叩かれても、味方は誰もいなかった。
今は違う。
わかっている。今の私には、工房がある。実績がある。そして、エミールがいる。
それでも、あの頃の記憶が、時々胸を締め付けるのだ。
「シルヴィア」
エミールの手が、私の手に重なった。
「俺がいる」
短い言葉だった。
けれど、その声には確かな温度があった。
「君が不安なら、俺が隣にいる。君を傷つけようとする者がいるなら、俺が守る。だが――」
彼の目が、わずかに和らいだ。
「君は、守られるだけの女ではないだろう」
心臓が、大きく跳ねた。
「君は自分の足で立ってきた。六年間、誰の助けも借りずに工房を育てた。俺はそれを知っている。だから、心配はしていない」
「……エミール」
「君の価値は、君が証明してきた。社交界の連中が何を言おうと、それは変わらない」
目の奥が、熱くなった。
この人は、いつもそうだ。
言葉は少ない。表情も乏しい。けれど、必要な時に、必要な言葉をくれる。
「……ありがとうございます」
「礼を言うことではない」
「いいえ。言わせてください」
私は、彼の手を握り返した。
「あなたがいてくれて、よかった」
エミールは何も言わなかった。
けれど、その手が少しだけ強く握り返されたのを、私は感じていた。
午後、私は再び工房に戻っていた。
護符の続きを作りながら、朝の会話を思い返す。
春の大夜会。
不安がないと言えば嘘になる。けれど、逃げるつもりはなかった。
私は公爵夫人だ。エミールの妻だ。そして、月影の工房を築いた付与魔法師だ。
その全てを、社交界に見せてやればいい。
かつて私を見下していた者たちに、今の私を見せてやればいい。
「……上等です」
呟きながら、私は筆を走らせた。
窓の外では、早春の風が木々を揺らしている。
三週間後、春が来る。
そして私は、公爵夫人として社交界に立つ。




