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白い結婚三年目、離縁届を置いておきますね  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第11話 公爵夫人の朝

工房に朝日が差し込む頃、私は作業台に向かっていた。


窓から見える庭園には、まだ霜が降りている。早春の空気は冷たいが、工房の中は魔道具の炉が放つ熱で心地よい温度に保たれていた。


手元には、半分ほど完成した護符がある。依頼主は王都の商会長。遠方への旅が多いため、身を守る付与を施した品が欲しいとのことだった。


複合付与の設計図を頭の中で組み立てながら、私は細い筆で魔力を込めた文様を描いていく。


結婚して一年。


工房は王都の店舗から公爵邸の離れに移したが、注文は相変わらず途切れない。むしろ、公爵夫人が作る魔道具ということで、以前より話題になっているらしい。


複雑な気持ちがないわけではない。私は職人として評価されたいのであって、公爵夫人という肩書きで注目されたいわけではない。


けれど、エミールは何も言わなかった。私が工房を続けることを、当然のこととして受け入れてくれた。


それだけで、十分だと思えた。


「シルヴィア」


扉が開く音がした。


振り返らなくても、誰が来たかはわかっている。


「おはようございます、エミール」


「ああ」


黒い軍服姿のエミールが、工房に足を踏み入れる。深い青の瞳が、私の手元を覗き込んだ。


「今日は何を作っている」


「護符です。複合付与で、防御と警報の二重構造に」


「商会長の依頼か」


「よくご存知ですね」


「俺の妻に依頼する者は把握している」


さらりと言われて、少し頬が熱くなった。


一年経っても、この人の言葉には時々不意打ちを食らう。本人は何でもないことのように言うから、余計にたちが悪い。


「それで」


エミールが腕を組んだ。


「朝食は」


「もう少しで区切りがつきますので」


「いつもそう言う」


「本当にもう少しです」


「昨日も同じことを言っていた」


反論できなかった。


エミールが無言で椅子を引き、作業台の隣に座る。待つ姿勢だった。


これが、私たちの朝の日課になっていた。


エミールは毎朝、政務の前に必ず工房に顔を出す。私が作業に没頭して朝食を忘れることを知っているからだ。


最初の頃は、執事のセバスチャンが呼びに来ていた。しかしいつからか、エミール自身が来るようになった。


理由を聞いたことがある。


「顔を見たい」


それだけだった。


不器用な人だと思う。言葉は少ないし、表情も乏しい。けれど、行動で示してくれる。毎日、毎朝、変わらずに。


「……わかりました」


私は筆を置いた。


「行きましょう」


エミールの目が、わずかに和らいだ。


朝食室には、柔らかな陽光が差し込んでいた。


白いテーブルクロスの上に、焼きたてのパン、季節の果物、温かいスープが並んでいる。給仕が紅茶を注ぎ、静かに下がった。


「領地の視察は終わりましたか」


「ああ。昨日で一段落だ」


「お疲れ様でした」


「大したことはない」


エミールがパンを手に取る。その横顔を、私はぼんやりと眺めていた。


一年前、この人が私に求婚した時のことを思い出す。


『俺は君を守りたいんじゃない。君と共に歩きたい』


あの言葉は、嘘ではなかった。


エミールは私を束縛しない。工房を続けることも、自分の時間を持つことも、すべて尊重してくれる。その上で、こうして毎朝顔を見に来る。


静かな溺愛、と誰かが言っていた。言い得て妙だと思う。


「シルヴィア」


「はい」


「食べていない」


見ると、私の皿にはまだ何も盛られていなかった。


「すみません、考え事を」


「何を考えていた」


「……あなたのことを」


エミールの手が、一瞬止まった。


そしてすぐに、何事もなかったようにパンを口に運ぶ。けれど、その耳がわずかに赤くなっているのを、私は見逃さなかった。


「……食べろ」


「はい」


笑いをこらえながら、私はスープに手を伸ばした。


朝食を終えた頃、執事のセバスチャンが書斎に現れた。


「奥様、旦那様。王宮よりお届け物でございます」


銀の盆の上に、豪華な封筒が載っている。深紅の封蝋に刻まれているのは、王家の紋章だった。


「春の大夜会の招待状か」


エミールが封筒を手に取った。


春の大夜会。


王国最大の社交行事であり、貴族たちが一堂に会する場。そして――公爵夫人となった者が、正式に社交界デビューを果たす舞台。


「はい。三週間後の開催でございます」


セバスチャンが恭しく頭を下げる。


「国王陛下、王妃陛下への拝謁も予定されております」


胸の奥が、きゅっと締まった。


わかっていたことだ。結婚して一年以内に、公爵夫人として社交界に正式デビューしなければならない。それが慣例だと、エミールからも聞いていた。


けれど、実際に招待状を目の前にすると、不安が込み上げてくる。


私は、社交界で歓迎される存在ではない。


かつてヴァルトシュタイン伯爵家にいた頃、どれだけ冷遇されたか。陰口を叩かれ、無視され、存在しないもののように扱われた。


今は公爵夫人という立場がある。Sランク付与魔法師という実績もある。けれど、社交界の記憶は簡単には消えない。


「シルヴィア」


エミールの声で、我に返った。


「……はい」


「顔色が悪い」


「そんなことは」


「嘘をつくな」


見透かされていた。


エミールが招待状をテーブルに置き、私の方を向いた。深い青の瞳が、まっすぐに私を見つめている。


「社交界が不安か」


「……少しだけ」


正直に答えた。


この人には、嘘をつきたくなかった。


「以前のことを、考えてしまいます。伯爵家にいた頃、私は……あまり、良い扱いを受けていませんでしたから」


「知っている」


「ええ。だから、また同じようなことが起きるのではないかと」


言葉にすると、余計に不安が膨らんだ。


あの頃の私には、何もなかった。実家は没落し、夫は無関心で、義母には敵視されていた。社交界で陰口を叩かれても、味方は誰もいなかった。


今は違う。


わかっている。今の私には、工房がある。実績がある。そして、エミールがいる。


それでも、あの頃の記憶が、時々胸を締め付けるのだ。


「シルヴィア」


エミールの手が、私の手に重なった。


「俺がいる」


短い言葉だった。


けれど、その声には確かな温度があった。


「君が不安なら、俺が隣にいる。君を傷つけようとする者がいるなら、俺が守る。だが――」


彼の目が、わずかに和らいだ。


「君は、守られるだけの女ではないだろう」


心臓が、大きく跳ねた。


「君は自分の足で立ってきた。六年間、誰の助けも借りずに工房を育てた。俺はそれを知っている。だから、心配はしていない」


「……エミール」


「君の価値は、君が証明してきた。社交界の連中が何を言おうと、それは変わらない」


目の奥が、熱くなった。


この人は、いつもそうだ。


言葉は少ない。表情も乏しい。けれど、必要な時に、必要な言葉をくれる。


「……ありがとうございます」


「礼を言うことではない」


「いいえ。言わせてください」


私は、彼の手を握り返した。


「あなたがいてくれて、よかった」


エミールは何も言わなかった。


けれど、その手が少しだけ強く握り返されたのを、私は感じていた。


午後、私は再び工房に戻っていた。


護符の続きを作りながら、朝の会話を思い返す。


春の大夜会。


不安がないと言えば嘘になる。けれど、逃げるつもりはなかった。


私は公爵夫人だ。エミールの妻だ。そして、月影の工房を築いた付与魔法師だ。


その全てを、社交界に見せてやればいい。


かつて私を見下していた者たちに、今の私を見せてやればいい。


「……上等です」


呟きながら、私は筆を走らせた。


窓の外では、早春の風が木々を揺らしている。


三週間後、春が来る。


そして私は、公爵夫人として社交界に立つ。

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