美しい生き方
ノックの音が聞こえたが、エリザベスは無視していた。泣いているところは誰にも見せたくなかった。
意図的にポロポロと涙を流すときは、目が赤くなる程度で済む。だがこれほど大泣きすれば明らかに目はパンパンに腫れているだろう。このような醜い姿を、たとえ使用人と言えども見せるつもりは無かった。
だがノックの音が止むと、勝手に誰かが部屋に入ってきた。ここは小侯爵夫人の私室であり、許可なく入れるのは夫だけである。つまり入室してきたのはエドワードということになる。
「こちらに来ないでくださいまし」
「リズ…」
「今は放っておいてください」
「だが…」
エリザベスはベッドの紗を閉ざしており、部屋の入口付近で立ち尽くすエドワードからはその表情は窺えなかった。だが声は明らかに鼻声であり、時折しゃくりあげるような音が聞こえることから、彼女が泣いていたことは推測できた。
そこに再びノックの音が聞こえてきた。
「お母様、クロエです。謝罪しに参りました。どうか入れてください」
娘の声を聞いたエドワードは、エリザベスの許可を待つことなくドアを開けた。クロエはまったく淑女らしくなく部屋の中を駆け足で横切り、乱暴に靴を蹴るように脱ぎ捨て、紗を跳ね上げるようにして母のベッドに飛び込んだ。
「お母様ごめんなさい。私が言い過ぎました」
クロエはエリザベスにぎゅっと抱き着いた。
「でも、あなたはサラの味方なのでしょう?」
「サラは私たちの敵ではありません。ここに行けと言ってくれたのもサラです」
「…サラに言われてきたのね」
「そうではありません。ここに来たのは私の意思です。私はお母様を傷つけてしまったことを悔やんでいます。お母様を嫌いになったわけではないとわかって欲しくて」
エリザベスは堪えきれないようにさめざめと泣きだした。母の涙を見たことが無いわけではなかったが、このような泣き方をするのは初めてだとクロエは驚いた。夫のエドワードでさえ、このようなエリザベスを見たことは無かった。
「お母様、私はそれほどにお母様を傷つけてしまったのですね」
「私は…私はエレオノーラ様が遺された言葉を大切に、グランチェスター小侯爵夫人として必死に頑張ってきたのです。なのに、それをサラは下種だと真向から否定しました。エレオノーラ様の息子であるロブまでレヴィの口車に乗るように貴族を否定するなど。クロエやクリスまで影響されて!」
再びエリザベスは大きな声を上げて泣き始めた。エドワードも慌ててベッドに駆け寄って、ベッドサイドに置いてあるスツールに腰かけた。
「お父様、祖母様はどのような言葉をお母様に遺されたのですか?」
「母上はそれぞれを個別に呼んで言葉を遺したんだ。だからリズにどんなことを言ったのかは僕も知らない」
「ちなみに、お父様にはなんと仰ったのですか?」
「うーん、『グランチェスターの血を持つ者として美しい生き方をしろ』と言っていたな。まぁ口癖のように言ってたことだったけどね。それと『リズにきちんと本音を話して弱みを見せ合えるようになれ』とも言ってたかな」
エドワードが昔を懐かしむようにクロエに話すと、エリザベスも同様に話し始めた。
「私にも、『貴族婦人の品位を大切にして、美しい生き方をしろ』と仰っていたわ。だから私は生前の義母上様のように社交界の中心に凛と立って影響力を維持しているし、慈善事業も率先してやっているわ」
クロエは少し首を傾げた。
「凄く気になるんですけど、祖母様に『貴族としての美しい生き方』って具体的にどんな生き方なのか聞いたことあります?」
「そんなこと聞かなくてもわかるではありませんか。貴族としての秩序を守り、夫に従い、社交界では毅然と美しく振舞うのです」
「お父様もそう思われますか?」
「どうだろう。少なくとも母上は夫に従う方ではなかったな。なにせ父上はよく母上に怒られていたから」
「は?」
エリザベスは驚いたように顔を上げた。
「母上は怒ると物凄く怖いんだよ。あぁ、そういえばサラが怒るときは、母上に少し似てる気がするね。理詰めで怒るんだよ」
「私は義母様が怒っているところを一度も見たことがありません」
「それは、運が良かったね。あの背筋が凍るような怒りを向けられると、タマがちぢ…いやなんでもない」
不適切な表現になりかけるところをあわてて止めたエドワードであったが、エリザベスにもクロエにもバッチリ伝わっていた。
「お父様はどんなことで怒られたの?」
「うーん、色々あるんだけど僕が勝手に馬車を購入した時かなぁ」
「ふふふっ。アダムと一緒じゃない!」
「確かにそうだね。だから僕も強くアダムに怒れなかったのかもしれないな」
「エド、それは怒らなきゃいけないことなの? 小侯爵の長男が馬車も自由に買えないなんておかしいではありませんか」
エリザベスが反論した。
「うーん。僕の時はね『そのお金はあなたが稼いだものではありません。勝手に使うことは許されません』って言ってたね。もちろん、僕に割り当てられた予算内での買い物なら何を買っても怒られなかったんだけど、馬車は予算を大幅に超えていたからね」
「それ、サラと言ってることは同じですよね?」
「確かにそうだね」
エリザベスは驚いたような表情を浮かべた。
「あぁそういえば、僕が家庭教師に癇癪を起した時も母上は物凄く怒ったな」
「癇癪ですか?」
「僕は歴史が苦手でね、特に暗記が全然ダメだったんだ。で、家庭教師が『何度も繰り返して読んで覚えてください』って言うのに腹を立ててしまって、『お前のような平民と違って小侯爵は他に覚えるべきことが山ほどある。何度も繰り返す時間などあるわけがないだろう』って怒鳴り散らしたんだ。それを母上が耳にしてしまってね…」
その時のことを思い出し、エドワードはブルっと震えた。正確には身体の一部分が縮み上がった。
「それでどうなったの?」
「覚えなければいけない歴史の年表を、諳んじられるようになるまで毎日書かされた」
「祖母様は厳しい方でしたのね」
「正確には3日目くらいでイヤになってサボってたら、乗馬用の鞭をもった母上が僕の尻を何度も叩いてね…数日間は柔らかい椅子に座ることもできなかったよ。治ったらまた年表を書かされたけど」
「お父様は反抗したりしなかったのですか?」
「あの母上にかい? それは無謀だね」
「というと?」
「母上はとても魔力の多い人でね、威圧されるんだよ」
「は?」
クロエは首を傾げた。母から聞かされる祖母の話では、「いつでも優雅で美しい人」という印象しかなく、魔力で威圧する女性というイメージがまったく思い浮かばなかった。
「母上は水属性の魔法が発現していたんだけど、無詠唱でいろいろな物を凍り付かせるのが得意だったんだ」
「えっと…それってサラの話ですか?」
「イヤ、間違いなく母上の話だ。家族や知り合いに向けるような魔法じゃないから、知らない人も多かったけどね。いつだったか、母上の乗った馬車に盗賊が襲い掛かったことがあったんだ。だが、そいつらは全員手足が付け根から凍ったそうだ。愚かにも母上を侮辱するような言葉を投げつけたらしく、母上が実家から連れてきた侍女は馬車から降りて微笑みを浮かべながら盗賊たちの凍った手足を叩き割ったそうだよ…」
クロエとエリザベスは同時に同じことを考えた。
『サラは絶対に祖母に似たんだ』
「結婚するよりもずっと前に、リズの話をしたこともあったな。多分母上はずっと昔からリズのことが気に入ってたんだと思う」
「私の話?」
「まだリズが伯爵令嬢になってない頃、アーサーに手伝わせて自分をイジメた令嬢に仕返ししてたことがあったよね?」
「ご存じだったのですか?」
「あの頃のアーサーはリズに夢中だったから、リズの賢さを自慢してたよ」
「アーサーも余計なことを…」
エリザベスは頭を抱えた。
「でも、母上は『なかなか可愛い腹黒令嬢ね』って愉快そうに微笑んでたよ。逆にリズをイジメてた令嬢たちのことを貴族令嬢として品性に欠けると不機嫌になってたな。淑女教育をやり直すべきだと彼女らの母親に進言してたからね」
すると、クロエがぽつりと話し始めた。
「ねぇ祖母様の仰る『貴族としての美しい生き方』や『貴族としての品性』って、美しく着飾ることでも、社交界に影響を与えることでもないのではありませんか? 祖母様のお話を伺えば伺うほど、祖母様は身分を笠に着た理不尽な行為を嫌い、ノブレスオブリージュを果たすことを目指されているように思えるのです。社交界への影響力とはそういう行動の結果なのでないかと」
その瞬間、エリザベスの脳裏にかつてのエレオノーラの言葉が蘇った。
『リズ、伯爵令嬢としての品性を持ちなさい。かつての自分を忘れてはだめよ』
エリザベスはクロエをギュッと抱きしめ、小さな声で囁くように話し始めた。
「そうねクロエ。私は義母様の仰ったことを守れていなかった。伯爵令嬢になる前の私がうけた理不尽な仕打ちを自分がしているのだもの。義母様には怒られてしまうわね」
「すまないリズ。おそらく君がそんな風になってしまったのは、僕が貴族としての生き方を勘違いしていたからだと思う。いつだって君は僕を立て、僕の言葉を肯定してくれていたからね。改めなければいけなかったのは僕だったのに」
エドワードはエリザベスごとクロエを抱きしめた。
「私たちがサラをイジメたことをサラは許さないって言ったわ。多分、一生許されないでしょうね。過去にやってしまった過ちは、謝っても取り返しがつかないこともたくさんあるのね。なのに、私たちに優しくするんだから、サラだってお人好しのお馬鹿よね」
「イイ性格はしてると思うが…まぁ悪い子ではないな」
「そうね。あの調子では社交界で生きていけないかもしれないわ。社交界は戦場ですもの。常に美しい生き方をしたいと願っていても、いつでも正々堂々というわけにはいかないわ。それは義母様だって同じだと思いますわ」
「美しい生き方を目指しつつも、醜く争うのが貴族か。イヤな矛盾だな」
「だからこそ高い理想を持ち続けるのでしょうね。下種な人間に成り下がるのはあまりにも容易だから…」
「それにしてもあの子は自分の力を本気で隠す気はあるのかしら? キレて他家の令嬢や令息の頭を禿げにしかねないわ」
その瞬間、クロエの脳裏にちょっとした疑念が湧いた。
『もしかして私の髪をパサパサにしたのって…』
だが心の平穏のためにクロエはその疑念を捨て去ることにした。クロエは自分や家族のため、サラと良好な関係を築いていくことが重要であることに既に気付いている。
「サラって『勢いで』とか『調子にのって』って感じで暴走するような気がします。お母様の言う通り、令嬢や令息の頭部が危険かもしれません。狩猟大会ではサラに大人しくしていてもらえるよう、オルソン令嬢に頼んでおいた方が良さそうです。多分彼女を止められるのはガヴァネスで母親の彼女だけだと思います」
「「確かに!」」
エレオノーラは、もうちょっときちんと説明すべきだったと思う(;'∀')




