その頃レベッカは
サラが商会の開店準備で忙しくしている間、レベッカも忙しくしていた。
結婚にまつわるあれこれは、正直放っておいても他の人がどんどん進めてくれるので、レベッカ自身はそれほどすることが無かった。
『事前に準備してたの？』
と問い詰めたくなるほど、グランチェスター家もオルソン家も迅速に行動に移した。レベッカは既に用意されている提案の中から選択するだけで良かった。
さすがにウェディングドレスは自分の意見を積極的に言おうとやる気満々で打合せに参加したが、レベッカの好みを良く知っている母と姉が事前に用意したデザインが素敵過ぎて口を挟む余地が無かった。ベールは姉が嫁入りするときにも使った、オルソン家の女性が代々受け継いでいる物を使用する。ドレスはこのベールに合わせて作られるのだ。
新居としてグランチェスター侯爵が用意したのは、かつて王室に嫁いだ先々代の侯爵令嬢のために建てられた別邸である。今の侯爵の叔母に当たる人物で、当時の王太子に嫁いだものの夫が急逝したため実家に戻ったのだという。王室に嫁いだ時点で王族の籍に入っているため、王宮に残ることも可能であったが、秀でた美貌が災いして王妃や側室たちから疎まれたことで王宮を辞している。
レベッカがガヴァネスとしてグランチェスター城に到着したのは初夏だったが、何故かこの別邸は侯爵の命令で夏頃から修繕されていたらしい。不思議なことに庭まで手入れが終わっていた。
『まぁ歓迎されていることだけは素直に喜んでおこう』
家具やファブリックなどはレベッカの好きにしていいという話だったので、彼女は別邸の中を見て回ることにした。しかし、ここも恐ろしいほどレベッカの趣味が反映された仕上がりになっていた。シンプルではあるが、あまり硬い印象にならないよう曲線を活かしたデザインの家具、どの部屋のファブリックもアースカラーをベースにはしているものの、それぞれに異なる差し色を用いて個性をだしていた。こういう部分にも、母や姉の陰謀を感じずにはいられない。
ただし夫婦の寝室、ロバートの執務室、家族用のリビングは、内装が終わっていなかった。『夫婦で話し合って決めろ』という意味なのだろう。
ダンスホールには新しく購入したピアノまで置かれていた。おそらく侯爵がサラのために用意したのだろうが、この別邸に彼女が同居するかは微妙なところだ。新婚夫婦と同居は気まずいというサラの気持ちも理解できるので、そのあたりは本人に任せることにしている。もっともロバートが大騒ぎすることはわかりきっているので、サラの部屋もきちんと用意するつもりではいる。
ひととおり別邸をチェックして回ったので、レベッカは乙女の塔へと向かった。今日はトマスが乙女の塔でスコットとブレイズに数学を教えているはずである。
サラが作成を指示した読み書きと計算の教科書は、トマスが鋭意編纂中である。多くの子供たちに必要とされる本であるため、トマスの原稿をレベッカとコーデリアも監修することになっている。今日はその第一回の会合であり、これにはアリシアとアメリアも参加してくれるという。
それぞれに専門分野を持つ彼女たちの意見は非常に貴重で、とてもありがたい。可能であれば彼女たちにも得意分野の教科書を書いてもらいたいくらいだ。まぁ当分は商会の仕事が忙しくて、それどころではないだろうが。
乙女の塔に着くと、スコットとブレイズがパンケーキにたっぷり蜂蜜を掛けたおやつを食べているところだった。どうやら休憩時間のようである。
「ブレイズはすっかり蜂蜜の虜になってそうね？」
「うん、甘くてすごくおいしい！」
初めて会ったときにはガリガリに痩せていた少年も、栄養のある食事と規則正しい生活のおかげで身体に肉が付き、すっかり健康的な雰囲気になっていた。文句なしの美少年である。
スコットも間違いなく美少年なのだが、このところ急に背が伸び始め、少年らしさが失われつつあった。父親によく似ていることから、ジェフリーのように190センチくらいまで伸びるのかもしれない。もうしばらくすれば声も変わってしまうだろう。
「ちょっと見ない間に、スコットは随分背が高くなったわね」
「はは。レベッカ先生を超えちゃいましたね」
「年が明けたら14歳だものね。来年こそアカデミーに入学できそう？」
「さすがに来年は入学しないと、父上の逆鱗に触れそうです」
そんなことを言いながらも朗らかに笑っているところをみれば、スコットの成績はかなり上向いたのだろう。笑顔は本当にジェフリーそっくりである。
「スコット君は、来年のアカデミーの試験には十分間に合いますよ。おそらく優秀な成績で合格できるでしょう。ブレイズ君も数学は完璧です。これ以上はアカデミーでも高等教育になるレベルです。ですが、読み書きの方はもう少し頑張らないと、アカデミーの入学は難しそうです」
そこに、メイドに案内されたコーデリアが入室してきた。
「まぁなんて美しい図書館でしょう！」
コーデリアは一面の書架を見てうっとりしている。ちょうど実験室から出てきたアリシアやアメリアも、コーデリアの意見にはうんうんと頷いた。
「皆さんそう仰います。ここで働いている私たちでさえ、毎日美しいと感じますからね」
「図書館も美しいですが、外にある秘密の花園も見ごたえのある庭園ですよ」
声をかけた乙女たちは、さっそくコーデリアに挨拶と自己紹介を済ませた。無論トマスも後に続いた。
「そういえば先程トマス先生の会話を漏れ聞いてしまったのですが、そちらのブレイズさんの読み書きがスコットさんよりも遅れているそうですね」
「そうですね。この二人は年齢も勉強を始めた時期もまったく違いますから、当然といえば当然です。ブレイズ君が私の授業を受けるようになってから、まだ一月程しか経っていないことを考えると、驚異的な習得速度ですよ」
コーデリアは頷いた。
「ブレイズさんは言葉の端々に、アヴァロン以外の単語やイントネーションが含まれているように聞こえます」
「オレは自分がどこで生まれたのかは知らないんだ。けど、ロイセンとアヴァロンの国境付近の山小屋に数年居たってことはわかってる」
「ロイセンとアヴァロンの言葉は似ていますが、それぞれに違う言語です。文法も違っています。頭のいい子は両方の言語を耳で覚えてしまうため、混乱して読み書きの習得が遅れてしまうことがあるのです。あらためて文法を基礎から学習すると良いですよ」
ブレイズを見つめながらコーデリアは優し気に微笑んだ。
「トマス先生、ブレイズさんのような頭のいい子に文字を教えたら、いきなりスラスラと書き始めますよね？」
「そうですね」
「ですから基礎は身についていると勘違いしがちなのですが、確認してみると基礎が曖昧な子も多いんです。特にアヴァロンの言語は口語と文語の違いに癖がありますからね。文法を基礎からおさらいすると、意外な発見があるはずです」
「なるほど。家庭教師として私はまだまだ未熟でした」
トマスとコーデリアのやりとりを横で見ていたレベッカは、内心でコーデリアの知識の深さに舌を巻いていた。自分もガヴァネスとして教え子を導く立場にあるが、コーデリアのような広い視野を持っていると言い切る自信はない。
これまでレベッカは、心のどこかでアカデミーにさえ通えていれば、自分はもっと優秀だったと考えてきた。自分の能力が不足していることの言い訳は、いつだって『女性だから学習機会が無かった』であったように思う。しかも、王妃から直々にお妃教育を受けたことで、どこか思い上がっていたようにすら感じる。
「ふふっ。オルソン令嬢、いえ、この場ではレベッカ先生とお呼びしますが、珍しく淑女の微笑みが途切れていらっしゃいますよ」
コーデリアはレベッカのガヴァネスのように指摘した。
「こ、これは失礼しました」
改めて微笑みを張り付ける。
「レベッカ先生が何をお考えなのかは薄々理解できるような気がいたします。私はこれでも20年以上子供たちを教えてきましたから。子供の教育は私の専門分野なのです」
「もちろんです。素晴らしいキャリアだと存じます」
レベッカは慌てて言い繕った。
「ですがレベッカ先生は、王妃様が自らお妃教育を施した淑女です。その能力の高さは、私のような男爵家の娘風情では窺い知ることさえ叶いません。一人の人間がすべての分野に精通することはできません。私には私にしかできないことがあるように、レベッカ先生にしかできないこともたくさんあるのです。どうか自信をもって教え子を導いてください。もしなんらかの不足を感じたら、その分野に精通している人に助けを求めればよいだけなのです」
「コーデリア先生には、なにもかもお見通しのようで怖いですわ」
「ふふっ。すべてを見通せる目があれば、もう少し違う生き方をしていたかもしれません」
コーデリアは少し困ったような表情で笑った。その微笑みは貴族的ではないが、柔らかく暖かであった。
「それにしても、ソフィア様は素晴らしい女性ですね。まさか商会が教育施設の開設と教科書作成を同時にされるなんて」
「人材不足なので、優秀な働き手が欲しいそうですわ」
「ですが教育施設を作るのはレベッカ先生の長年の夢だったとシンディから聞きました。それをサラお嬢様が後押しされ、ソフィア様に進言されたとか。レベッカ先生の教え子でいらっしゃるサラお嬢様も聡明な方なのですね」
これには他のメンバーが一斉に同意する。
「サラお嬢様はこの乙女の塔の所有者であり、私たち乙女のパトロンなのです」
「商会の会長はソフィア様という方だそうですが、サラお嬢様の言動から鑑みるに、実質的なオーナーはサラお嬢様だと思うんです。販売するハーブティの効能などを私に指示されるのはサラお嬢様ですから！」
「サラお嬢様は私が忠誠を誓うほど聡明な女性です。彼女の前ではアカデミー卒業の経歴など吹けば飛ぶようなものでしょう」
「サラの剣の腕前はそこらの騎士と遜色ないレベルなんだ」
「魔法だって凄いんだ。威力だけじゃなくて制御能力も半端ないんだよ」
コーデリアは目をぱちくりとさせて固まったが、何とか気を取り直して会話を再開する。
「サラお嬢様が素晴らしく優秀なお嬢さんだということは理解しました。実際にお会いしてみたいものですね」
「狩猟大会が終われば、教育施設に顔を出すはずです。新しい帳簿の講義を担当しなければなりませんから」
トマスが涼しい顔で答えた。
「もう一度聞き返すようで申し訳ございませんが、サラお嬢様が講義を受けられるのですか？」
「違います。サラお嬢様が私どもに講義するのです。その講座には私も教わる側で参加したいと考えております」
「あの、私の勘違いでしょうか？ サラお嬢様は8歳と伺ったのですが」
「「「「「その通り（です）」」」」」
「え？」
今度こそ本当にコーデリアは固まった。
そしてこの瞬間レベッカは悟った。乙女にもコーデリアにもソフィアの正体を隠しておける時間は短いだろうと。
