商会の開店準備 1
ふと目を覚ますと、カーテンの隙間から柔らかい朝の光が漏れていた。サラは夜着のまま窓に近づき、そっとカーテンを開けた。窓から見える庭の木々は少しずつ色づき始めており、狩猟大会までそれほど日数が残っていないことを実感させた。
この2週間、サラは驚くほど精力的に活動していた。
商会には従業員を10名雇った。彼らは商業ギルドを通じて募集したのだが、書類選考の段階で他の商家や商会、そして商業ギルドの幹部の息がかかった人物はすべて排除している。この調査はセドリックに依頼すれば一発である。そして、こちらの人員も魔法で機密保持の契約済みだ。
『露骨に紐付きを排除してるから、こちらが諜報能力に長けていることは他の商人たちには既にバレてると思った方がいいわね』
本店の一階は、半分をシンプルな様式の椅子とテーブルを並べたカフェスペースとした。ここでハーブティやエルマ酒を試飲できる。
もう半分のスペースには商品がディスプレイされているのだが、この店の最大の特徴は『音のなる箱』から常に音楽が流れていることにある。数種類の箱が用意されており、一つの演奏が終わると、店員が箱を閉めて次の箱を開けるという動作を繰り返す。
この箱は注文販売となっており、リクエストがあれば箱に装飾を施したり、中に別の商品を入れて贈答用の箱にすることも可能だ。
収録曲はピアノ曲だけでなくヴァイオリンの独奏曲やヴァイオリンの演奏にピアノの伴奏を付けた曲がある。サラのヴァイオリンにピアノの伴奏をしたのは、城のメイドのジュリエットだ。最初は多重録音しようかと思っていたのだが、ジュリエットが熱心に立候補したことから伴奏をお願いした。
展示する商品のうち、最も時間が掛かったのはやはりエルマブランデーである。蒸留所として侯爵が確保したのは、フランの実家、つまりハーラン農園から徒歩で10分程の場所にある小高い丘に立つ建物であった。没落した商家が所有していた煉瓦造りの頑健な倉庫であったが、数年打ち捨てられていたらしい。侯爵はこの建物を私財で買い上げ、ソフィア商会名義としてサラに引き渡した。
フランは鍛冶職人仲間に声を掛け、大急ぎで蒸留釜を2基製造して設置してくれた。本当はもっと作って欲しかったのだが、大きな蒸留釜を作る作業は非常に繊細であり、本来なら数か月かけて作られるものらしい。曾祖父の残した資料を元にしたとはいえ、乙女の塔にあるものと同じ蒸留釜をこんなに短期間で作ってくれた方が驚きだ。
実はちょっとだけズルをしたこともある。いくつかの材料は土属性の魔法で取り出しているのだ。正直魔法で生み出されるモノの耐久度などはわからないため、フランに様子を見ながら作るよう依頼しておいた。
また、乙女の塔にあった蒸留釜も分解してこちらに移し、テオフラストスの弟子の錬金術師にエルマブランデーの蒸留を依頼した。サラは気乗りがしなかったが、侯爵の強い意向によって、エルマ酒を蒸留する錬金術師たちとは魔法による機密保持契約が締結されている。
蒸留するのはフランの母であるトニアが作ったものではなく、フランの兄嫁が作ったエルマ酒である。試しに蒸留してみたところ、トニアのエルマ酒から作られたものと遜色のない出来上がりとなったため、サラはフランの兄嫁の作ったエルマ酒をすべて買い上げた。
熟成する樽は、オーク材のやや小振りなものを選んでいる。樽の大きさは熟成にも影響し、小さいほど熟成が早い。これから長く熟成するようなエルマブランデーは、もっと大きな樽で仕込むべきなのだろうが、ひとまず狩猟大会で必要な分はこれで造るのが良さそうという判断だ。
更紗時代、彼女はさまざまな国の醸造所や蒸留所を巡り、取引を成立させてきた。それぞれに異なる思想があり、伝統があり、理想があった。更紗はそんな彼らを尊敬し、自分たち商社の都合で彼らを蔑ろにすることのないよう尊重した。
おかげでエルマブランデーをミケに熟成させるたび、『お酒を即席に製造するなんて冒涜だわ…』と感じてもいたが、商会の華麗なスタートダッシュを決めるため、今は目をつぶるしかなかった。
商業ギルドで宣言した通り、ハーブティやポプリを入れたサシェなどの準備も着々と進んでいる。
ハーブティを販売するための茶箱は、商業ギルドに紹介してもらった商家から大量に購入した。多くの木工職人が商家のお抱えであったため、手数料を支払っても商家を通じて工房に発注する方が早かったのだ。
茶箱は杉板の箱の内側にブリキが貼られた湿気を抑える箱である。木箱の底には商会の紋章を焼き印で入れている。あまり大きな物はプレゼント用にはしにくいという判断から、女性が片手で持ち上げられるレベルの小さい物を用意した。
これにはアメリアの生産が追い付かないという裏事情もある。ゆくゆくはハーブティを量り売りで販売できるようにしたいのだが、まだまだ生産が追い付いていない。おそらく本店ではなく専門の別店舗を用意すべきだろう。
なお、茶箱は女性たちの集落で作られた可愛い巾着に入れて、レベッカが開催する女性だけのお茶会の参加者全員に配る予定である。爵位など身分に応じて品質に差をつけるべきではないかという侯爵の意見をサラとレベッカは否定した。
爵位や身分が低くても富貴な家は多く、自分たちが質の悪いものを渡されたという印象を与えるのは商会にとって得策ではないと考えたのだ。
ただし、ポプリ入りのサシェ、秘密の花園にあった花やハーブから抽出した精油、アロマキャンドル、そして商会で販売する化粧品シリーズの第一弾となるハンドクリームといった商品については、公爵家と侯爵家のみに提供し、他の方々にはその場で試して貰うよう試供品を用意することとした。
もちろん商会の倉庫には在庫を置いているが、まだそれほどの数は揃えられておらず、全員に配ると売る分が無くなってしまうのだ。サシェや巾着は女性たちの集落だけでなく、彼女たちの横のつながりで、さまざまな女性たちがいそいそと内職に励んでくれているらしい。
その巾着やサシェのデザインサンプルを作ってくれたのは、女性たちの集落で母親と暮らしている10歳の男の子である。デザインが決まった後も、その子が縫製の指導や検品をしてくれるらしく、出来上がってきた製品の質は非常に高い。
サラが忙し過ぎるせいでまだ会えてはいないのだが、送られてきたサンプルにサラやレベッカだけでなく侍女やメイドたちも一目惚れしてしまった。商会とデザイナー契約を申し出ているが、彼はまだどうするか悩んでいるらしい。
アロマキャンドルは薬師ギルドに紹介してもらった薬師数名に製造方法を習得してもらい、日雇いの作業者たちに製造方法を教えつつ監視してもらうことにした。なお、主な日雇い作業者は、女性たちの集落にいた子供たちや修道院の子供たちなのだが、老人や怪我で働けなくなった男性などもいるそうだ。冬支度を始める時期ということもあり、働き手には困らなかった。
そして肝心のハンドクリーム、つまり商会が最初に販売する化粧品は、高い品質を維持する必要があると判断し、念入りにアメリアが作成している。サンプルをグランチェスター城の侍女やメイドに試してもらっているが、彼女たちからの評判は上々である。特に水仕事をするメイドたちからは、乙女の塔に礼状が届けられる程であった。
秘密の花園には蜜蜂もいるので蜜蝋も収穫できるのだが、ここで採れた蜜蝋はハンドクリームにだけ使用されている。本来であればアロマキャンドル分の蜜蝋も採取したいところではあるが、さすがに採取できる量が少なすぎた。そのため、自分たちで品質が管理できるものをハンドクリーム用とし、アロマキャンドルには他の商会から購入した蜜蝋を使うことにしたのだ。
当然、秘密の花園からは蜜蝋だけでなく蜂蜜も採取できているのだが、これは勉強の合間に出てくるおやつ用に取っておくことにした。将来的には商品化するかもしれないが、ひとまずはブレイズが喜ぶ顔の方が大切だと乙女たちの間で意見が一致したのだ。
なお、養蜂についてはハーラン農園も興味を示しており、もしかするとエルマの花の蜂蜜も採れるようになるかもしれない。秘密の花園から分蜂できるか検討中ではあるが、花の時期は終わっているので、これは来年のお楽しみだろう。妖精を経由すれば、蜜蜂に直接お願いできるらしい。が、その絵面が妙にメルヘンチックに思えるのは、サラの気のせいではないだろう。
サラ:ミツバチさん、私のお願い聞いてくれる?
西崎:中身アラサーのくせに…キモっ
サラ:いうなし! 自分でもそう思ってるわっ




