第五十六話 母の力
傷を負い、病院で治療を受けた信介を家に送り届けて翔子は一人最早家のような存在である職場に数時間ぶりに舞い戻ってきた。
「あれ、編集長どうしたんですか?」
自分の部署にやってくるとその部屋には電気がついていた。中に入るとまだ仕事中のようでパソコンに向かって作業をしている者だったり原稿を睡魔と戦いながら確認している者など、既に日付を超える二時間前だというのに仕事をしている部下達の姿が翔子の目で確認できる。
その中の一人が翔子が編集部の部屋に入ってきた事に気づき翔子に声を掛けた。
「ん~ちょっと野暮用」
翔子は含みのある笑みで部下に返した。
それに声を掛けた人は「そ、そうですか」と短く終えて会話を終わらせた。
「おい、見たか今の」
「編集長が笑ってたぞ」
「でも目が笑ってなかった」
「誰が怒らせたんだ?」
「進行中の先生方の原稿は既に大部分が届いていますし。特に仕事で問題は」
「だったら何で編集部に顔を出すんだ。久しぶりに家に帰れるって喜んで帰っていっただろ」
翔子と長年仕事を共にしてきたベテラン編集やまだこの部に配属されてから数年の若い者、皆が現れた翔子の様子がおかしいと気づきコソコソと本人に聞こえない声で雑談をする。
翔子の編集部での部下達からの評価は、仕事の出来る頼れる存在。若くして部の頂点に立ち大手作家さんから若手の新人作家までの情報を常に頭に入れそれぞれのスケジュールを確認、その作家の担当に助言など。それにより部下達からの信頼は厚く皆翔子を慕っている。何より普通に仕事の愚痴やら上司への不満、そして快適な仕事環境を整えるべく尽力していたり、部下達の健康管理までもを翔子自身が仕事の一つと考えており、ストレスがないようにと上下関係があまりないように気配っている。無理に部の中で敬語にする必要はないだろうと言葉遣いの注意は部に外ではするが中では基本しない。
変に気を使わなくて済むので部下達も楽に仕事が出来ている。
しかしそんな部下第一のような翔子の表情が固い事に気づいた部署にいる人間全員は何事かと心配する。
「はあ、さてと.....」
いつもの自分の席に着いた翔子はそんな部下からの視線に気づくことなくパソコンを立ち上げる。完全に仕事モードに入り切っている。
「......あの、編集長」
「ん~?」
その掛けづらい空気の中、一人の部下が翔子に声を掛けた。そいつを見て他の者は「勇者だな」「変な所で勇気がある」「あいつは今後とも伝説として語り告げられる」など声を掛けた一人を称える。
「今日は息子さんと久しぶりに過ごすって言ってませんでしたか?」
翔子に一人息子がいる事は部の人間なら常識で知っている。なにより翔子の机には翔子とまだ幼い時の信介の映った写真に高校入学で撮った写真の二枚が大事そうに置かれている。時折仕事で忙しい時に疲れた様子でその写真を眺めているのも部下は気づいていたりする。本人は無意識らしく問いただしてみても分からないとの事。
「う~ん、本当はそうする予定だったんだけどね」
「確か息子さん高校生でしたよね。反抗期ですか?」
「ははは、反抗期になる程私あの子に接して上げれてないから未だにないんだよね」
「え、じゃあ何で会社に戻ってきたんです?」
てっきり信介と喧嘩した翔子が家にいるのも気まずくて会社に逃げて仕事に没頭していると簡単な予想を立てていた部下は当てが外れて疑問になった。
ちなみに現在話を聞いている部下達の予想の中でかなり意見は出ている。最初に出てきた通り、息子と喧嘩した。更には、息子と連絡がつかない。本当に緊急の仕事が編集部を通さずに直に翔子に来た。そして少ない意見で何かの仕事にミスがありそれを訂正している所。
一番多い意見は仕事。この手の仕事は作家さんが働いてくれない事には仕事が出来ない。それに作家さんの連絡も取れたり取れなくなったりと色々ある。だからこそ休日に急に担当作家から連絡が入って仕事になるなんて事もある。それに仕事なら会社に出戻った理由も少し不機嫌な様子なのも説明がつく。ここは編集部。最初のことがらから登場人物の性格、そしてその出来事の原因となるまで物語性がある事を知っている者達。出てきた意見全てに説明がつくのは流石としか言わざるを得なかった。
「私だって本当は母親の仕事をこなしてるつもりだったよ」
そう言う翔子は何故か段々と怒りが込みあがっているように感じる部下達。それをもろに食らっている声を掛けた男。
「でもねこればっかりは流石に私がどうにかしないといけないの」
「...ぶ、部長?」
「勝手に人の息子傷つけておいて何もないなんて思わい事ね。田中くん、だったかしら。なんにせよ相手が悪かったわね。私が出版社で働いているなんて知らないで。頭が良いって葵ちゃん達は言ってたけど所詮子供。でも子供の許される範囲ってものがあるのよ。あのガキはそれを超えたの。だったら私だって大人げなく潰してあげるわよ」
「みなさ~ん!!!!部長が怖いんですけど!!!!!!!!」
あまりの翔子の怒り具合に遂に根を上げた男は部署にいる人達に助けを求める声を出した。
◇
「.....それで何が原因でお前さんはそんなに荒ぶってたんだ?」
人影の少ない社内にある一本道の廊下にて、翔子は同じ会社に勤めている年配の白髪の男性に呆れた様子で聞かれた。それに翔子は拗ねた子供のように口をとがらせる。
「別に荒ぶってる訳じゃありませんよ」
「嘘つけ。普段から社内でも評判のお前さんが”何か凄い口が悪くてイライラして出社して来た”ってお前さんの部下達からヘルプ要請が俺に来たんだぞ」
「う~~~~~」
うねり声を出す翔子。いつもは優秀で可愛がっている部下達を今は恨みたくなる気持ちである。
その様子を間近に見据える男性は溜息を一つ溢す。
「お前さんとは長い付き合いだが俺もそこまで不機嫌なお前さんを拝むのは初めてだぜ。よっぽどの事があったとしか思えん」
「...流石に六さんにはバレちゃうか」
「ハハハ!伊達に長い付き合いじゃねえからな」
翔子と話しているこの白髪の男性は、翔子と同じくこの出版社で働いている大ベテランの人物。翔子がこの会社に就職した時からお世話になっている大先輩であり、部署の違う現在でも翔子の良き相談相手になっている人物。社内では本名の下の名前である六助の名前を親しみやすく”六さん”と呼ばれている。
「......実は」
翔子は会社に来る数時間前に起きた息子信介に起きた悲劇を六助に話した。最初は翔子の部下達がしていた予想を話を聞いている時にしていた六助だったが、段々と話が悪い方向に行くにつれて六助の眉間の皺は寄る。
「って事があったんです」
「なんだそりゃ。どう考えても殺人未遂。警察案件じゃねえか」
高校生だろうと拉致監禁に加えて暴力行為。確かに誰が聞いても事件になるレベルの話だ。
「そうですね~。でも、警察の世話にするにはまだ良いかな~って」
「.....何でだ?」
「だって仮に少年院に入ったとして数年で出てきますよね?それだとダメなんですよ。私の大事な息子をあんなにも痛めつけといてそんな罰は軽いじゃないですか。それだと軽いんですよ、罪が。あのクソガキには外に出てからも普通の生活を送れないようにしないと」
「.....お前さん相当頭に来てんな」
「それはそうですよ。六さんも私が息子の事を大事に想ってるの知ってるじゃないですか」
「そりゃあな」
伊達に長い付き合いではない。翔子が六助の事を知っているのと同じように六助もまた翔子の事を知っている。
翔子があまり怒らない性格なのも知っているし、今回の件でよほど頭に来ているのも理解している。六助も話を聞いているだけで犯人である田中の事が嫌いになっている。
しかし六助が思ったのはこれから行おうとしていた翔子の行動だった。
「でもな翔子。この先どうするつもりだ。警察に言う事を先延ばしするにしてもだ。お前さんに出来る事はないぞ一般的に考えて」
「.......」
六助の言葉で翔子は黙ってしまった。
まさかと思い、六助は頭によぎった悪い予感を口にする。
「まさかとは思うが翔子よ。お前さん、その田中ってガキを」
「しませんよ」
しかし翔子はその言葉を六助の目を真っすぐに見つめて否定した。
それを聞けた六助は取り合えず安堵する。
「なら良い。俺も、可愛い後輩が犯罪者として生きていく未来なんて見たくないからな」
「確かに殺意はありますよ。でも、息子を一人残す訳にはいきませんよ」
「その息子、確か高校生だよね。少し過保護じゃねえか?」
「自分の子供が可愛いのは普通ですよ」
「じゃあどうするつもりだったんだ?」
六助が言うと翔子は嫌な笑みを浮かべて六助に向ける。
「.....六さん確か週間雑誌の担当ですよね?」
「あ?そうだが」
「六さんの雑誌って芸能人のゴシップやらスポーツ選手、政界まで取り扱ってましたよね」
「.....まあな」
会話の途中ではあるが嫌な予感がした六助。
「私あんまり読んだことないんで良く知らないですけど、犯罪関連ってしてます」
「してるぞ。この前もニュースになってた殺人事件の書いたしな」
「じゃあ、ちょっと可愛い後輩のお願いを聞いてくれません?」




