第七十六話 石碑の前で 前編
コンラディンが部屋を出た後、わたしも退出すべく席を立ち、フェデリカを呼んだ。彼女は近くで控えていたのか、すぐにやってきてくれ、「ヴィルヘルム様はコンラディン様を見送っていますので、そのままお待ちください」とわたしを再び椅子に座らせ、茶を用意して目の前に置いた。
そういえば喉が渇いていたと、カップを持ち上げゆっくりと口に含む。
そうしているうちに見送りを終えたのか、ヴィルヘルムが部屋に到着したことを知らせるベルが鳴り、若草色の三つ編みを揺らしながらヴィルヘルムが入室してきた。彼の顔色は酷いものだった。……もしかしてコンラディンから聞いたのだろうか。
「オフィーリア」
「はい?」
名を呼ばれ、返事をするとヴィルヘルムが何と言ったら良いのかわからないが、難しい表情を見せていた。その青磁色の瞳は細められ、眉が寄っている。
「石碑に行く」
「え? 今からですか?」
「ああ」
わたしの返事も待たずにヴィルヘルムは踵を返すと、スタスタと精霊殿の中に入っていく。何か急ぎの用事かと思ったが、わざわざ石碑まで行く理由がわからない。しかし立ち止まったままだと置いていかれそうなので、仕方なしにわたしはその後を追った。一応先ほどの話もしておかなければならないし。
数々の花が咲き誇る中庭に入り抜けて行くと、大きな平べったい石が置かれているのが見えた。その石碑を守るように蔓性の植物が絡み付き、可憐な花を咲かせている。
「あ! プローヴァ文字!」
石碑に彫られている字を発見するやいなや、わたしはすぐに駆け出し、石碑にぺたりぺたりと触る。ふふふ、あの時は読めなかったけど、今のわたしは昔とは違う。ジギスムントが所持していた古書からプローヴァ文字はある程度読めるようになっているのだ。
久しぶりに金色と銀色の文字を引き出し、プローヴァ文字の記述を探す。長い間書き続けてきたので多量になったそれらから探すのはなかなかに苦労しそうだが、大体の見当はついているのですんなり見つかる。この石碑には一体何が書かれてあったのかワクワクと胸を高鳴らせ、一文字ずつなぞろうと沿わせようとしたところで、肩にポンと手が乗る。
何よ、今から良いところなんだからと怒りをぶつけようと振り返ると綺麗すぎる笑顔のヴィルヘルムがわたしを見下ろしていた。
「オフィーリア」
「……は、はい」
凄みのある声でわたしの名を呼ぶヴィルヘルムはとんでもなく恐ろしい。プローヴァ文字に夢中になってしまって周りが見えてなかったことを自覚し、ブワッと冷や汗が吹き出す。いつも同じことで止められたり、怒られたりしているので確実にあるのはお説教だ。
しかしヴィルヘルムからでた言葉は小言ではなく、問いかけだった。
「其方は他の文字に出会いたいか?」
ヴィルヘルムは突然真面目になって何を言うんだろうか。だが、その真剣な表情から茶化してはいけない気がして、ちゃんと答えるべく言葉を探す。
「はい、それがわたしの一番やりたいことです。未解読文字に出会って解読することがわたしの生きている意味だとも思っています」
「……そうか」
ヴィルヘルムは目を伏せて呟くような小さな声を落とした。何か悪いことでもあるのだろうか、しっかり聞く方が良いのかもとわたしは広げていた金銀の文字たちをザッと仕舞い、ヴィルヘルムに向き合う。
「領主様、どうかしたのですか? 様子がいつもと違うのですが……」
「……様子が違うか……」
「いつもと違っておかしいですよ。もし悩みごとがあるなら力はないので何もできませんが、聞くことはできますよ」
一人で悶々と考えていたら結局堂々巡りだったということはよくある話だ。意外に口に出すことで解決策が見えたり、見えずとも整理できてすっきりしたりするのだ。わたしはヴィルヘルムのように仕事はできないし、権力も持っていないので本当に何もできないだろうが、相談役くらいにはなれるはずだ。
わたしの言葉にヴィルヘルムは「そうだな」と素直な言葉をこぼすと、わたしの髪に指してある飾り兼お守りに触れた。
「オフィーリアは王家に行くのか?」
「はい?」
またその話? と思わず眉を顰めた。この話、フェシリアからも聞かれたことだ。正直に言うと心はかなり大きく揺れたが、私の意志は変わらない。
「行きませんよ。前にお話ししましたよね? わたしはのんびりと文字解読がしたいだけなのですよ? 王家に入ったらその分の仕事もしなければならないと思いますし、責任も生まれます。わたしはそんなもの背負う覚悟も度胸もありません」
イディにも王になる資質がないと烙印を押されているくらいなので、人の上に立つということに向いていないのだと思う。それなら下から支える方が国のためになるのではないだろうか。まあそうでないと解読する時間なんて取れなくなるからね。わたしはそちらにたくさんの時間を割きたいのだ。
「では王家の文官として働くつもりか?」
「はい?」
何故王家の文官の話が? と訳がわからず素っ頓狂な声を上げてしまった。王家に何故そこまでこだわっているのか全く理解できない。何か勘違いされている気がする。これは全力で弁明しなければならない事態だとわたしの直感が告げた。
「そんなつもりはありませんよ! フェシリア様に伺いましたが、王家の文官ってとーっても仕事量が多くて忙しいのですって。そんなブラックだとわかっているのに飛び込むと思いますか? わたし、解読以外に体力も気力も使い果たしたくありませんよ? 領主様は努力家で誠実ですからしっかり向き合うかと思いますが、わたしはそんなことできません」
アダン領を回っている時にフェシリアから文官の話を聞いたが、なかなかに大変そうだと思った。そういう仕事はやりたいと思ってやらなければモチベーションが続かないと思う。
わたしの返答にヴィルヘルムはますます眉を寄せて怪訝な顔になった。
「ブラックの意味がいまいちわからぬが……、まあ王都の文官の仕事は強い意思を持たねばこなせないのは理解できる。……では何故オフィーリアは前に婚約の話を持ち出したのだ? 其方、婚約を解消してどこへ行くつもりだ」
「どこって……、どこにも行きませんが?」
「は?」
「え?」
この領主は何を言いたいのか全く掴めず、淡々と質問に答えていたが、ヴィルヘルムは固まってしまった。
どこへ行くつもりもないんだけど、いつからそんな話になったのか。わたしは首を捻り、ヴィルヘルムの言葉の意味を理解しようと考える。……確か婚約の話って言っていたな。婚約の話は解消を持ちかけた時にしか出していない。しかも結局提案する前にアルベルトがやってきて中断したはずだ。だからあの流れでどこか行くなんて言った覚えはない。
「わたし、どこにも行きませんけど? 当初の目的である王家との契約も果たしましたし、コンラディン様方に婚姻などで王都に縛られることもなくなりました。それならばこの状態を続けるメリットは領主様にはないでしょう? それなら領主様の利になるお相手を選ばれた方がジャルダンのためになるかと思いましてお話しさせていただいたのですが」
わたしの言葉にヴィルヘルムはポカンと口を開け、触れていた手をだらんと下ろす。そんな顔をほとんど見たことがないので新鮮だ。
わたしはヴィルヘルムには幸せになってもらいたいのだ。ジャルダン領主は幼い頃から苦労してきたのだろうと察せられる。そのせいで捻くれた性格になることもなく、人の上に立てる人間になったのだ。そんな頼れる上司のようなヴィルヘルムは敵も少ない自領でしっかり自分の派閥を固め、心穏やかに過ごしてほしい。
「……待て、オフィーリアは王都へ出るために解消を申し出た訳ではないと?」
「だからそう言っているではありませんか、領主様。解消は目的を果たしたからです」
「だが王都の城で働けばオフィーリアの望むものも手に入るかもしれんぞ?」
「うぐ……、それはそうですが。ですがわたしはジャルダンを出る気はありませんよ? たくさんの方に助けていただいてわたしはここに居るのですからしっかり恩返しをしなくては」
そんな甘言を囁かないでとわたしは両耳を両手で塞ぎながら何とか言い切る。フェシリアにも同じようなことを言われてかなり心揺れたのでしっかり深呼吸をして心を落ち着かせる。違う方法を探してちゃんと統一前の文献に辿り着く、辿り着く、辿り着く……、うん大丈夫。
落ち着いたところでヴィルヘルムの方に目を向けると、彼は顔に手を当てていた。何かあったんだろうか。
「領主様?」
わたしが呼ぶと、ヴィルヘルムははあ、と呆れたような溜息をついた。呆れられるようなことをしただろうかと首を傾げていると、ヴィルヘルムは手を下ろし、こちらを向く。青磁色の瞳が真っ直ぐ向けられ、何だかむずむずしてしまう。
「それならば婚約は解消しない」
「え? 何故ですか?」
「それは……」
そう言って目を逸らされた。何かやましいことでもあるのかと勘繰ってしまう。そんなわたしの目を見て「そのような目をするな」と苦言を呈してきた。
「言えないことなんですか?」
「言えなくはないが……聞きたいか?」
「知りたいですよ、自分のことですから」
「まあそうか」
ヴィルヘルムは残念な子を見るような目でわたしを見ると、小さな息を吐いた。何て目をするんですかと怒りたくなったが、まあここは仕方がないと自分に言い聞かせ、ヴィルヘルムの言葉を待つ。
しかしヴィルヘルムは何か言いにくいのか眉を寄せてなかなか話そうとしない。……よほど言いたくないことなのだろうか。それなら聞かない方が良いのかも。
「あの……、領主様。そんな無理に話さなくても良いのですよ? 気になりますが、とーっても気になりますが、そこまでして聞こうとは思えないです」
「その言い方だと言わざる得ん状態に追い込まれたようなものだぞ。……良い、きちんと言葉にする」
ヴィルヘルムは首を横に振ると軽く咳払いをした。
「オフィーリア、其方の存在は私にはなくてはならない」
改めて言われた言葉にわたしは目を見開いてしまった。わたしを必要としてくれていたことがわかって正直に言うと嬉しかったのだ。今までの努力が報われたような気がして心が温かくなる。
「ありがとうございます。そう言っていただけるとその、嬉しいです」
「そ、そうか」
改めて言われたのでやはり照れ気味に礼を言うと、ヴィルヘルムは耳を赤くして照れた様子で頷いた。先ほどまで機嫌が悪そうだったのにすごい落差である。
「今まで解読などお役に立てるように頑張ってきた甲斐があります」
「……違う」
「え?」
胸をドンと叩いて胸を張ると、ヴィルヘルムは眉を寄せ、否定してくる。急に雪が降ったかのようなテンションの変わりようにわたしはたじろいでしまう。何か変なことでも言っただろうか。
ヴィルヘルムは溜息をつき、額に手をやった。
「……オフィーリアが大切だと思うから婚約を解消しないと言っている」
「え!?」
心の準備を全くしていなかったからか突然の告白に頭が真っ白になった。




