ピックアップ式日本推理小説小史 1
1
愚痴っぽく始めます。
月見がミステリファンとして痛感しているのは、世代間ギャップです。月見には、若い人たちがわからない。当然逆もそうだろうで、若い人たちには、月見たち古参の言っていることがわからないだろうと思っています。時代は変わるものだし、空気も好みもそれにともなって変化するのだから、こればっかりはどうしようもないよなと思いつつも、なんだかなあという気持ちもあります。
どうしてこうまでギャップがあるかというと、やはり読んできた本が違うというのが最大の理由でしょう。冊数にしてもそうなんだけど、質と内容もかなり違う。古典とか、過去の名作とかを、いまの人たちは、ほんと読んでいない。入手困難、絶版などの事情もあるのだろうけど、ほんと読んでいない。繰り返し、再三言いたい、ほんと読んでいない。ただ、そういった古典が、いまの小説を読んだあとでは、古臭く、ありきたりで、トリックなんて単純すぎ――でもって面白くなく、読んでもつまらない作品ばかり。という事情もあるでしょう。
また、月見たち古参が古典に親しんでいて、若い人がそうでないのには、出版事情の違いもある。月見の時代の文庫本というのは、いまみたいに、新書なりハードカバーで出た新刊が、二、三年経ったらあたりまえのように文庫化される、なんてことはなかった。文庫書き下ろしなんて絶無。むかしは、名作・傑作しか文庫本にはなれなかったんですね。文庫本というのは岩波書店が普及元なんだけど、時代を越えて優れた作品が多くの人に読まれるように、廉価で提供する小型本というのがポリシーで、岩波ほどではないけど他の出版社もそれに追従していた。つまり、当時は、猫も杓子もでなく、名作しか文庫にはなれなかったわけです。文庫になるのは名誉なことだったんです。そして、そのころ学生だった月見たちの世代は、当然小遣い銭が少なく、買える本といえば文庫しかなく、そういうことで古典をせっせと読んでいったわけです。だから、なにも古いものが好きで古典を読んだのでなく、必然的にそうなったわけで、もし月見がいまの若い人たちと同じ世代だったら、古典は読んでないかもしれない。つまり、簡単に、古典を読んでいないと、若い人たちに文句を言えないとこがあります。
しかしそうでありながら、文春文庫の2013年版の「東西ミステリーベスト100」あたりを見ると、古典のなんと強いこと。ベストスリーまでをあげると、海外は、1位「そして誰もいなくなった」、2位「Yの悲劇」、3位「シャーロック・ホームズの冒険」。国内だと、1位「獄門島」、2位「虚無への供物」、3位「占星術殺人事件」。古典、やっぱ強い。読んどかないと、話が合わないよね。結果として月見の世代は古典を読んでいるのですが、得したなと思っています。
さて、「十角館の殺人」を古典として読んだ、古典を知らない新本格世代読者。金田一少年にコナンにルパン三世。これらの作品が根強い人気を誇っているのは、古典の恩恵があるからこそなんですよ。タイトル見ても瞭然でしょう。古典の知識や設定や世界観などは、フフフ、不滅スタイルなんです。みんな、古典がほんとうは好きなの。孤島に集められた人々が、一人また一人と殺されていく。なんて、「そして誰もいなくなった」じゃないですか。1939年の小説です。75年前で、昭和14年。日本初訳もその年で、真珠湾を攻撃する二年前。その古めかしい設定が、十年一日みたいに、新作にいまだに綿々と脈打ち、人気がある。その全部が、「そして」のバリエーションなわけです。そして、バリエーションはバリエーション。その本質や特徴を知るには、バリエーション読むより、最初から「そして」読んだほうが早道なわけです。読書は娯楽であり、読んで楽しければそれでいいと言う人はいいけど、推理小説について一家言持ちたいなり、読み解きたいなり、創作したいという人は、古典を読みましょう。特に推理小説は、「オリエント急行殺人事件」や「アクロイド殺し」や「Yの悲劇」を読んでなくて、それと同じアイディアで作品を書いて公募に応募した場合、知りませんでしたというのは通りません。読んでいないだけで、もうアウトです。古典の基本知識があるのが必須条件なのです。
*「そして」のすごいとこのひとつは、クローズドサイクルの元祖でありながら、最後に生き残った者が犯人ではないなんてことをやらかしてしまっているとこです。一人、また一人と殺されていけば、当然最後の者が犯人だという常識に挑戦しているわけです。
古典の薦めはこれぐらいにして、それつながりではありますが、この章では国内における推理小説史を若干試みたいと月見は思っています。ええっ! 推理小説史なんて、ひとりで勝手にしてください。まあまあ、そう言わずにおつきあいください。ある程度の歴史の知識もいるのですよ。たとえば、昨今テレビで科学捜査官ものが多いと思いませんか。あと法医学とか鑑定士とか鑑識官とか、あたりがですね。でなかったら、心理捜査官とか人間嘘発見器とか。それって、ホームズの活躍した時代みたいだと月見は感じています。19世紀末ですね。いま読むとわかりにくいのですが、当時のホームズは、現代における科学捜査官型の探偵だったんです。ホームズといえば虫観鏡でしょう。それで仔細にものを見ていく。床に寝そべったりしてですね。そして、ちょっとした傷や毛髪から、驚くべき推理を導き出します。タバコの灰の分析の論文も書いているなら、ロンドン中の土の分布を知り尽くしている。ワトソンには、死体を棒で叩く実験者として紹介される。ホームズが科学的捜査法の信奉者だったのは、これだけでわかるでしょう。ソーンダイク博士や思考機械も同じ仲間です。19世紀末というのは、人々の考えが迷信から科学へと移行の時代で、それを反映して、ホームズたちは絶大な人気を博したのだという説があります。なるほどです。時代の先端いっていたわけです。それと同じことがミステリ界でいま起こっているのではないかと、月見は判断しています。人々の考え方、ものの見方が、アナログからデジタルへ、科学から先端科学へと一般レベルで移行していて、それで科学捜査官ものが増えてきているのではないかとです。つまり、時代を反映して、主役が、刑事から科学系プロフェッショナル連中になってきているんです。19世紀末に、ちょうど主役が、レストレイド警部でなくホームズだったようにです。しかもインターネットの普及などで、世界的な現象となっている。ここ数年の間に、映画やテレビでシャーロック・ホームズが復活しているのは、決して偶然ではないです。
その説が正しいかどうかは置くとして、ここで言いたいのは、ミステリの歴史とか知っていると、そういうものの見方ができるということです。では、科学捜査官ものがある程度出尽くしたら、つぎはどうなるか? そんな思考もできます。ホームズの時代が終焉を迎えたあとは、探偵小説の項で書いたように「トレント最後の事件」が近代ミステリの開祖となり、長編が主流の時代がきました。では、もし歴史が繰り返されるとしたら、次世代「トレント」は、いつ、どんな形で出現するのか。「トレント」がアンチミステリとして書かれたことがヒントになるかもです。
月見は、歴史は繰り返されるを安易に信じてはいけないと考えていますが、そういう考察は興味深いものです。推理小説の歴史を調べるのは、ただの懐古趣味ではないのです。それに、歴史を知っていたほうが、古典を読み解くのに便利です。
で、少々、国内版推理小説小史をしてみようかと思っているのですが、とはいっても専門家ではないので、月見流に、これだけは知っておきたいで書いてみることになります。歴史の中の、いくつかの事柄を抜き出して書いてみるだけです。ピックアップというのは、そういうことです。また、歴史と言いながら、そのじつ推理小説に対する考え方なんかもいろいろ紹介してみたいと思っていますので、内容が脱線につぐ脱線になるかもしれません。あまり、型苦しく考えられませんようにお願いします。
元本にするのは、中島河太郎氏の「推理小説通史」「推理小説辞典」、伊藤秀雄氏の著作など、もろもろです。それらの月見流の寄せ集めであり、解釈になります。




