黒い噂のせいで婚約破棄されると思ってましたが、実は愛されてました。
王立セレスティア学園の中庭に、ざわめきが走った。
「クララ様だわ……」
「虐めてるのですって」
「あの噂本当?」
そんな声が、石畳の風に混じって背中を刺す。
クララ・レイヴン伯爵令嬢――彼女は何も言わず、ただその場を立ち去った。
◆
母譲りのつり目のせいか、私はよく「きつい」と言われる。
その上話すのが苦手で、どうしても無愛想に見えてしまうのだ。
「お嬢様、もっと積極的にならないと誤解されますよ」
侍女に言われるたびに頷くけれど、なかなかうまくいかない。
結果、「クララ様は怖い」「何を考えているか分からない」と言われる始末。
「はぁ……」
どう言葉を選べば、正しく伝わるのかも分からない。
──黙っているうちに、誤解だけが積もっていった。
◆
「クララ、一緒に帰らないか?」
「……アラン!」
「街で新しい紅茶のお店できたらしいぞ、好きだったろ?紅茶。寄っていかないか?」
私の婚約者、アラン・ヴェイス。
ヴェイス侯爵家の嫡男で、誰もが羨む完璧な青年。
私にはもったいないくらいの人。
(嬉しい……)
返事をしようとした矢先――
「アラン!一緒に帰ろ?あら、クララ様こんにちは」
リシアが可愛らしい笑みを浮かべ、軽くスカートの裾をつまんで会釈した。
「こんにちは」
「……リシア」
「ごめんなさい……もしかして、お邪魔だったよね」
リシアはしゅんとした表情で目を伏せた。
その伏せた瞳を見た瞬間、胸の奥がかすかに軋んだ。
「私……図書館に行く予定思い出したわ。じゃあまた……」
「クララ!」
「クララ様……」
二人を後にして、私はそのまま踵を返した。
石造りの廊下を歩くと、昼下がりの光に照らされた影が揺れ、
遠くから学生たちの声が微かに漂ってきた。
「ねぇ見た? さっきの……」
「リシア様、アラン様と腕を組んでたわ」
「お似合いよね、あの二人」
「クララ様の方が追い出されちゃうんじゃない?」
くす、と笑う声。
私の背中に、冷たいものが流れ落ちた。
視線を向けると、リシアはアランの腕を取り、周囲に微笑みながら歩いていた。
(本当に……私よりも全然お似合いね……)
胸の奥に小さな棘が刺さり、息が浅くなった。
◆
図書館に入ると、足元に落ちている本が一冊だけ目に入った。
そっと拾い上げて棚へ戻し、近くの本を一冊手に取る。
そのまま奥の椅子へ向かい、静かに腰を下ろした。
リシア・グランヴェール。
グランヴェール子爵家の令嬢で、アランの幼馴染だ。
家柄は高くはないけれど、
昔からアラン家とも家族ぐるみの付き合いがあった。
――リシアがアランの婚約者になれなかった理由は、明確だった。
侯爵家であるヴェイス家の後継ぎに並ぶには、
子爵家では後ろ盾が弱すぎる。
家格が合わず、正式な婚約など到底望めない。
それでも幼いころからの距離の近さは誰もが知っていて、
“本当にお似合いなのはあの二人ではないか”
という囁きが、生徒たちの間で絶えたことがなかった。
アラン曰く、
「リシアは妹みたいなものだ」
と、彼女を受け入れていた。
そしてリシアは――。
「クララ様、今日もお一人で図書館なのですね」
彼の婚約者である私にも、気さくに話しかけてくれる優しい子だ。
そんなリシアからアランを引き離すのは心苦しく、私は何も触れずにいる。
「……伯爵家の娘なのに……こんな引っ込み思案だなんて……」
「紅茶のお店……一緒に行きたかったなぁ」
ぽつりぽつりと落ちた呟きが、静寂の中に沈んでいった。
◆
アランとの出会いは夜会だった。
父に紹介されたあの夜を、今でもはっきり覚えている。
「アラン・ヴェイス侯爵家のご子息だ。おまえと同じ学園に通う予定でね」
淡い金髪の青年が一歩前に出た。
堂々としているのに、どこか柔らかい。
「はじめまして、クララ嬢」
(……声が、優しい)
「は、はい。あの……はじめまして」
「もしかして……人と話すのは苦手?」
「え……あ、はい……そうです」
「やっぱり。表情が少し、逃げ腰だった」
冗談めかして笑う彼に、思わず視線を逸らした。
「……すみません、どうも慣れなくて」
「無理しなくていいよ。初対面で緊張するのは、誰だってそうさ」
「……アラン様は、緊張してるようには……見えませんけど」
「見せないようにしているだけさ……すごいだろ?」
小さく笑ったその横顔を見て、胸の奥が少し温かくなった。
「……ありがとうございます」
「何が?」
「そう言ってくださる方、初めてなので」
アランが一瞬だけ目を見開いて、それから微笑んだ。
「それは光栄だな。よろしく、クララ嬢」
その笑顔に、私はすぐ恋に落ちた。
政略とはいえ、婚約が決まった時は嬉しかった。
だからこそ、彼に相応しくあろうと勉強も礼儀も人一倍努力した。
けれど――。
「クララ様、リシア様を虐めてるのですって」
耳にした言葉が、脳裏をよぎる。
「そんなはず……ないのに」
否定しかけた声は、胸の奥で静かに消えた。
たしかに……そう思われても仕方がない。
政略結婚とはいえ、二人の仲を引き裂いたようなものだ。
「悪い話の立つ婚約者なんて、アランには相応しくないよね」
俯いて本を眺める。
革の装丁には、小さく金文字で題名が刻まれていた。
『初級・淑女のための会話術入門』。
(こんなの読んでる時点で、私……駄目ね)
「……アランのためにも、婚約破棄した方がいいのかしら」
その時、学園の鐘が鳴り響いた。
“年に一度の婚約破棄儀式”の合図――。
光翼の丘。
かつて聖女が愛を誓った場所。
今では、恋を終わらせる場所になっていた。
「……タイミング、よすぎるわね」
そう思った瞬間、足が勝手に丘へ向かっていた。
◆
「ええ……何これ……」
丘にたどり着いた私は、思わず足を止めた。
見渡すかぎり、人、人、人。
「皆……婚約破棄するの?」
丘の端には神殿の立会人がいて、顔はどこか暗い。
それなのに、耳に届くのは妙に楽しげな声だった。
「今年、賭博はなしかー」
「仕方がないだろ。学園がセレキーノ警備ギルドに監視を頼んだからな」
(婚約破棄が賭け事の対象?)
婚約破棄の場なのに、厳かさの欠片もない……
視線の先では、ララ・ミルディア令嬢とブルーノ・デイル子爵が向かい合っていた。
「ララ、おまえとの婚約は……終わりだ」
「……どうして、急にそんなことを」
「見たんだ。男と二人きりで談笑していただろう。笑っていた。俺には見せない笑顔で」
「それは――仕事の相談をしていただけで」
「言い訳はいい。もううんざ――」
「話聞いてやれよー!」
「ちゃんと証拠見せなさいよー!」
……野次が優しい。
そんな中、クラスメイトのロイ・ベルハルトに見つかってしまった。
「クララ様も婚約破棄ですか!?」
一斉に注目が集まる。
「クララ様も?」「あの噂はなんだったの?」
注目を浴び、思わず
「ち、違うわよ!」
あっ。言っちゃった。
「……なんだ、意外と野次馬根性あるんですね」
ロイが笑う。
(え、なにそれ、恥ずかしい!)
「か、からかわないでよ……」
顔を赤らめた瞬間、別の場所で叫び声が上がった。
「ひどい……私が何したっていうの!?」
生徒たちの視線が一斉にそちらへ逸れる。
シド・フェルナー伯爵とマリ・カリスタ令嬢が言い争っていた。
「お前のせいでアメリアと別れてしまったんだぞ!?」
「あなたが自分でそうしたんじゃない!」
「騙しやがって!」
「なんですって!!」
「あー、アイツ去年アメリア嬢振ってたな」
「二年連続参加かよ」
「アメリア様、公爵家のご子息との婚約決まったらしいぞ」
「ざまぁじゃん(笑)」
丘の端で、神殿の立会人が失笑している。
情報局の生徒たちは忙しそうに記録を取っていた。
「情報通りだな。あの二人、別れるかー」
「だろ?事業立ち上げなんて無理だったんだ」
「デイル家の染織ギルド株、暴落するんじゃ!? お父様に連絡しないと! 誰か通信機貸して!」
(この丘は……株式市場なの?)
「相手はCパターンですから婚約破棄は楽勝ですよ」
「心強いわ!」
「……あれは?」
「政治経済学部の“婚約破棄研究チーム”だよ。情報提供を始めたらしい」
「なんでも、破棄介入時のデータを集計して論文にするんだと」
(そういえば、学園誌に論文が載っていたような……)
「助けてください!!」
シドにマリが飛びかかり、警備員に助けを求める。
「逃げるな!」「落ち着いて!」
警備員が必死で令嬢を取り押さえる。
「今年は凶暴だぞ!」
その時だった。
マリ令嬢が靴を脱ぎ捨て、警備員めがけて投げつけた。
靴は綺麗な弧を描き――警備員が軽やかに避ける。
……その後ろにいた神殿の立会人に命中。
「ぎゃっ!」
神殿の立会人が倒れた。
「神官様ぁぁ!」「誰か治癒師を!」
周囲がざわめき、駆け寄る人々。
「まるで地獄絵図だわ……」
(さすがに……こんな場所で婚約破棄したくないわね……)
トラウマになりそう。
「ララ、ごめんな。疑ってしまって」
「いいのよ」
(あの二人は誤解だったのね)
ホッとした矢先――。
「二人、別れなくてよかったわ」
「いやほんと。別れてたら市場暴落だったよな」
「アーデル家の鉱山株、前回の破棄騒動で一度沈んだんだぞ」
(……市場のためにフォローしたの?)
そんな中、ふと視線を逸らしたとき――。
丘の入口に、見覚えのある二人の姿が見えた。
リシア、そして、アランだった。
(アラン……どうしてここに……)
「――あら? クララ様じゃありませんか」
鈴のような声が響く。
淡いピンクのドレスを翻し、リシアが微笑んでいた。
腕を組むのは、アラン。
「アラン、まさかクララ様と……?」
不安気な眼差しを向け彼の腕にすり寄る。
(……そうよね、私なんて)
俯いた私の前で、アランが静かにリシアの腕を外した。
「リシア。もう、俺に付きまとうのはやめてくれ」
「……え?」
「幼馴染として、妹のように思って放っておけなかったが――もう限界だ」
ざわめきが止まり、丘が静まる。
「“クララに睨まれた”“クララに冷たい態度を取られた”って言いふらしただろう……そんな事実はないくせに」
リシアの笑顔が引きつった。
その瞬間、丘の空気が一変する。
「私……リシア様からそう聞いていたわ」
「嘘だったの?」
ざわめきが、波のように広がった。
「な、何を言ってるの?そんなわけ……」
「情報局に協力してもらった」
丘の上で、情報局の学生たちが軽く手を振る。
リシアの顔から血の気が引いた。
「……なんで?あんな無愛想な子より、私の方が、ずっと……」
アランはゆっくりと首を振る。
「――彼女は誰よりも努力していた」
「それに……人を陥れるような人間を、好きになるわけないだろう」
静かな声に、風の音すら消えた。
「初めは……君を知らない連中が勝手に言ってるだけだと思って、放ってしまった。……気づくのが遅くなって、すまなかった」
胸が詰まり、言葉が出ない。
それでも――聞きたかった言葉が、ようやく届いた。
「……どうして、私を信じてくれたの?」
「俺のために頑張ってくれる婚約者を、信じない理由なんてあるか?」
頬が熱くなる。
視界が滲み、世界が光に満ちていく。
「クララ。こんな俺でも――一緒にいてくれるか?」
「……はい」
その瞬間、丘の上に柔らかな風が吹き、鐘の音が空を渡った。
担架に運ばれながら、神殿の立会人が安堵の息を漏らす。
リシアは涙をこぼし、ドレスの裾を掴んで丘を駆け下りていった。
「……Eパターンだったな」
それを合図に、再びざわめきが戻った。
「やっぱり噂通りじゃない」
「クララ様がいい方だって」
誰かの囁きが、風に乗って届く。
アランの手が、そっと私の手を包む。
温かく、優しく――それだけで胸がいっぱいになる。
「今から、紅茶のお店に行こうか」
「ええ……ぜひ」
後ろで鐘の音がもう一度響いていた。
光翼の丘――。
本来の“愛を告げる場所”に戻った瞬間だった。
神官「お読みくださりありがとうございます。
本日の婚約破棄儀式は無事平和に終わりました。
皆様の“いいね”や“ブクマ”が、
我らの治癒力と祈りの糧となります。
どうぞお恵みを──」




