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トワの祝言  作者: アンリ
本編
32/37

32. 祝言(5)

「コウヤ……」


 こんなときでもトワにとっての父であり、兄であろうとするコウヤに、トワがたまらずつぶやいた。


「これ以上コウヤに苦しんでほしくないの……。ただそれだけなの……」


 トワの本心からのつぶやきにも、コウヤはただ首を振るだけだった。


 ただ、トワにも既にわかっていた。ここで自分がコウヤを受け入るべきではないことを。トワに自分自身を放棄するような真似をさせたくないと奮起してくれている人達のためにも――決死の思いで動いてくれている彼らのためにも。


 そう、トワはこれまで何一つ自分の未来を自分で選ぼうとはしていなかったのである。そのことにトワは今更ながら気づかされていた。アキトとのことも、魚のことも。そして今、コウヤのことも。不平を唱えつつも自分で決めたように見せかけて、その実、運命の下であきらめてきただけのことだったのである。


 だが先ほどアキトは言った。トワは物ではないと。トワには自分の意思で生きてほしいと。


 トワが硬く目を閉じた。そして自分の心に問いかけた。だったら――どうすればいい? 誰も我慢しなくていい未来って何? 誰も悲しまなくていい未来って何? それはいったいどんな未来で、わたしは今、何をすればいいの? わたしにいったい何ができるの……?


 もちろん簡単に答えは出ない。だがトワはその道に至る光とごくわずかな希望をこの一瞬で見出した。


「……お魚様!」


 決断するや、トワがいまだ燃えている館に向かって叫んだ。


「お願い、コウヤを助けて! もう何も願えないことはわかってる。でも……でもお願い……!」


 すると――トワごとコウヤを抱きしめる腕が増えた。


「……アキト」


 アキトはトワにうなずいてみせると、トワと同じように燃える館に向かって叫んだ。


「魚! 俺の願いも聞いてくれ! 叔父貴を、トワを助けてやってくれ! 頼む!」


「そうか。魚ならばできるかもしれん。……まだ間に合うか?」


 はっとしたおじいが池の水をすくい、空に撒いた。お爺の力の込められた雫の一つ一つがきらめきを放ち、燃え盛る炎へと向かっていく。わずかな雫ではあるが、たったそれだけのことで黒油に込められたお爺の力が消滅し、炎の勢いが半減した。


 だが。


「……うーむ。足りんか」


 勢いは弱まった。とはいえ十分ではなかった。いや、全然足りない。このままでは室内の魚が焼き殺されてしまうのは明らかだ。いや、もう死んでいる可能性だってある。だがこの場でコウヤを救える力を有する者が魚だけであることも事実だった。


 お爺はヨンドであるウカリについ救いを求める視線を送った。


「……え? おいら?」


 お爺の視線に気づいたヤドカリが不安げな表情になった。


「おお。お前さんにもなにかできないか」


「そうじゃ。ウカリ。おぬしにもできることがあるじゃろう?」


 おばあにまですがられ、ヤドカリは一寸考えたものの殻を横に振るわせた。


「……だめ。おいらの力は弱いから」


 無数の魂を食らった魚と違い、ヤドカリは生まれてまもないウカリの魂しか食っていない。力の差は歴然だった。


 そのときだった。向こうの方から大勢の人間が駆けつけてきたのは。


「村長! 大丈夫ですか!」


 先頭にはカイジとチョウヒの姿がある。二人が近場で招集して引き連れてきたのだろう、後ろには様々な顔ぶれが並んでいた。そして誰もが桶を手にもっていた。


「まだ間に合うかもしれない。さあ、急いで消火するぞ!」


「おおおっ!」


 ここに来る道中、状況や手順は共有されていたのだろう。行方不明だったアキトと汚れたトワの花嫁姿、それに庭での常ならざる雰囲気に皆驚きはしているものの、それは最初だけで、統率のとれた面々が手際よく池と燃える部屋との間に間隔をあけて並んでいった。そこにはキナやタイラの姿もあった。そして池から汲んだ水を満たした桶を、順繰りに隣の人間に渡し出した。


「はい! 次!」


「ほいさ!」


 休む間もなく炎に水をかける様は一致団結している。これこそがこの島の人間の真骨頂だ。別室に控えていた高槻の供の者達もやってきて作業に加われば、いよいよ消火活動も活発になっていく。だがやはり限界があった。炎の勢いに水量が追いつかないのだ。


 その頃にはコウヤはとうとう地面に完全に丸まってしまっていた。


「コウヤ! しっかりして!」


「叔父貴! しっかりしてくれ!」


 今、コウヤの理性は体内に抱えた獣にかみ殺されてしまう寸前にあった。そのせいで呼吸はあり得ないほど早くなり、尋常でなく体が震えている有様だった。すがるように、トワの腰に回るコウヤの手にいよいよ力が込められていく。指先には先ほどから青白い光が生まれては消え、また生まれてを繰り返している。その間隔が少しずつ、少しずつ短くなっている。


 先ほどから繰り返されるその超常現象を間近で見ていたトワが、とうとう取り乱した声を上げた。


「どうしよう。このままだとコウヤが……! コウヤ! コウヤ……!」


「叔父貴……! 耐えてくれ……!」


 すると何を思ったのか、ヤドカリが震える声で叫んだ。


「みんな! おいらに願って! 火を消してほしいと願って!」


 聞いたことのない少年の声には不思議な響きがあった。これに消火作業をしていた全員の手が止まった。どこから声が聞こえてきたのか。誰の声なのか。わからないながらも、発せられた内容に皆の視線があちこちをさ迷いだした。ただ、キナだけは違った。お婆のすぐそば――つまりヤドカリのすぐそばにいたからだ。


「ヤドカリが……しゃべってる?」


「そうだよ。おいらはヨンドのヤドカリだ!」


 自己の存在を主張するために、お婆の肩の上でヤドカリがはさみをじょきじょきと鳴らしてみせた。


「みんな聞いて! おいらはまだ願いをかなえていない人間の願いをかなえることができる! そしてみんなが願ってくれたら、その願いの数だけおいらの力は強くなる! だから願って! 火が消えるようにみんなで願って!」


 突拍子もない話に誰もが動けずにいる。するとお婆が神妙に頭を下げた。


「頼む、皆の衆。願っておくれ。このヤドカリはわしの弟なんじゃ」


「……ヤドカリがお婆の弟だって?」


 あり得ない話の連続に誰かがたまらずといった感じでつぶやいた。


「そうじゃ。そしてわしの弟は心の清いヨンドなんじゃ。なんも悪いことはせん。早く火を消さねばお魚様が死んでしまう。コウヤが壊れてしまう。そしてトワが死ぬよりも辛い思いをすることになる」


「トワが?」


「コウヤが?」


「お魚様が? どうして?」


 今度は方々から声があがった。


「意味はわからんだろうて。だが時は一刻を争うんじゃ。頼む。皆でこのヤドカリに願ってくれんか」


 もう一度、お婆が深く頭を下げた。


「皆の力で火を消しておくれ」


 始めに動いたのはキナだった。


「お願い。ヤドカリ様。火を消してください」


 桶を置くと地面に膝をつき、祈りをささげる姿勢になる。この島には祈りの対象はいない。だがこうすることがキナにとっては自然なことだった。するとキナにならうかのように、次々と島人が膝をついた。


「お願いだ。火を消してくれ」


「あの火を消してくれ」


「この島のために消してくれ」


「コウヤを、トワを助けてください」


「あの火を消してください……!」


 全員が祈り終えた瞬間、ヤドカリの体が光を放ち始めた。


「ありがとう。みんな。ありがとう……!」


 始めは一滴の雨だった。ぽつ、ぽつ、と雨が降り始めたかと思ったら、やがてそれは豪雨となった。快晴の空、雲一つない空から大粒の雨が降り始めたのである。


「おおお……」


「天の恵みだ。いや、ヨンドの恵みだ……!」


「見ろ! 火が消えていく!」


 願いの力が込められた雨はみるみる炎を小さくしていく。それを一同はずぶ濡れになりながら見守った。


「やったあ! ありがとうヤドカリ様!」


 真正面から顔を覗き込んできたキナは満面の笑みで、これにヤドカリは光りながらも嬉しそうに殻を揺らした。


「……ねえ。トカリ姉ちゃん。おいら、ヨンドになってよかったなあ」


「おお。ウカリ。おぬしはわしの自慢の弟じゃ」


「えへへ」


 やがて炎は消滅し、くすぶりたゆたう黒煙の中から極彩色の光の泡が一つ生まれ、放たれた。一つ、また一つ。そしてまた一つ。一つ一つが美しく輝く泡は、生まれては空に放たれ、すっかり晴れ渡った青天へと浮上していった。


「あれは……もしや」


「死人の魂じゃな」


 お婆のつぶやきに、いつの間にそばにいたのだろう、お爺が続けた。


「そうか……。魂とはあんなにもきれいなものなんじゃなあ……。燃え尽きなくてよかったのう……」


 呆けたように泡に見入るお婆の目から涙がこぼれ落ちた。


「ウカリ。ありがとう。あんなにもきれいだったのにヨンドになってわしらのところに来てくれて」


 心からのお婆の言葉に、光るのをやめたヤドカリは照れくさそうに殻の中に頭を隠した。


 浮上していく泡は気づけば膨大な量となっていた。さながら魚卵のように。そして最後に、ひときわ美しく輝く赤い泡が黒煙の中から現れた。その赤い泡の存在に気づいたトワがつぶやいた。


「……お魚様?」


 すると無秩序に浮遊していた泡が一つの意思をもったかのように動き出した。無数の泡によって、最終的に形成されたものはあのヨンドの魚の姿だった。ただし、実際に皆が見てきた魚よりも何倍も大きく、長い体躯をしていた。最後に赤い泡が目のあるべき位置におさまるや、泡の集合体がトワたちのいる方へと向きを変えた。そして、お互いが抱きしめあう三人のもとへ急下降し、たどりつくや泡でできた口を大きく広げ、三人を飲み込んだ。


「きゃあああっ……」


 三人の頭の中で無数の声が響き始めた。




『死にたくなかった』

『もっと生きたかった』

『思い出の場所へ行きたい』

『酒を呑みたい』

『たらふく食べたい』

『もっと遊びたかったのに』

『もっと学びたかったのに』

『もっと愛されたかったのに』

『あいつよりも幸せになりたかったのに』

『クジラをしとめてみたかった』

『アマエイを釣り上げたかった』

『いつまでもそばにいたかった』

『覚えていてほしいのに』

『お母さん。お母さん』

『そばにいたい』

『そばにいてよ』

『あの子を抱きしめたい』

『早く生まれ変わりたい』

『幸せになりたい』

『誰か助けて』

『助けて』『助けて』『助けて』『助けて』……。




 幾百、幾千、幾万という声が、想いが頭の中でうるさいくらいに響いては消えていく。切実な声。痛い声。強欲な声。傲慢な声。哀れな声。様々な声。願い。祈り。助けて。助けて。誰かに助けてもらわなくては生まれ変われないから。永遠に海をただよわねばならないから。だからヨンドはいる。ヨンドは生まれる。根本的な願いは『救われたい』ということだけなのだ。



   『助けて』



 先ほど放った自分の声が喧騒の中で唐突に響き――トワはたまらず目をつむった。



  ◆


 

 気づけばトワは海の中にいた。


 魚とともに何度も泳いだあの美しい海に。


 夢で見た色とりどりの小魚がトワの周りをゆっくりと泳いでいる。トワは気づいた。そうだ、あの小魚は全部魂だったのだ、と。トワは魚を介してすべての魂と共に泳いでいたのである。


 だが今は静かだ。あれほどうるさかった声も聞こえない。それどころか何の音もしない。


 心細さのあまりトワは探した。


「……お魚様?」


 少しの間をおいてトワは続けた。


「……父さん?」




   『愛しい娘のためなら』



   『お前のためなら』



  ◆



 ひときわ澄んだ声が聞こえた――そう思ったと同時にトワは現実に引き戻された。泡でできた魚は三人を体内に取り込みながら通り抜けていく。そして勢いのままに天高く昇っていった。


 突如、腕の中のコウヤが脱力した気配を感じた。


「コウヤっ?」


「大丈夫。叔父貴は気を失っただけだ」


 手首で脈をとったアキトが心底ほっとしたように言った。


「顔色も戻っているし呼吸も落ち着いた。もう大丈夫そうだ」


「よかった……。ほんとうによかった……」


 トワも安堵のため息をもらし、コウヤのやつれた頬をそっとなでた。そしてアキトと見つめ合うと、二人そろって泡の集合体が飛んでいった方をあらためて見上げた。


 泡は魚の形を保ちながら海へと向かっていく。きらめく泡の集合はまるで天の川を模したようだ。その幻想的な光景をトワとアキトはいつまでも見つめた。それは他の者も同じだった。館にいる者だけでなく、島中の誰もが青天を泳ぐように駆ける魚のことを言葉もなく、飽きることなく仰ぎ続けた。やがて泡の魚は微細な光を放ちながらトワと初めて出会った浜の方へと消えていった。


「ようやく……還れるんだね……」


 魚が体内に抱えてきた数多の魂は、きっともう海に溶けることができるだろう。


「ああ……」


「だったらいつか……また会えるよね」


「ああ……」


「……ありがとう」


 トワのつぶやきが届いたかのように、赤い泡が一瞬輝きを増した。そんな気がした。


 光のすべてが彼方に消えるまで、トワはアキトとともに空を見上げ続けたのだった。



 ◇◇◇



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