24. 高槻の過去、祝言前夜(2)
その夜も高槻の部屋にはコウヤが訪れていた。
「なんだい。今日は呑まないよ。明日は待ちに待った祝言なんだから」
横臥していた体を起こし、のんきに告げる高槻に、コウヤが眉をつりあげた。
「今日、浜へ行っていたな。トワとお魚様と長い間一緒にいたそうじゃないか」
「へえ。知ってたんだ」
表情の変わらない高槻の様子から、コウヤは知っているものと考えていた節がある。この島の不思議を高槻はすべて理解していない。していないが、そういうものだと受け止める度量と想像力があった。
「……まったく」
コウヤは不機嫌な態度を隠すことなく、高槻の前に乱暴な動作で座った。海の男であるコウヤがそうやって威圧的になれば、優男風な高槻は頼りない存在に見える。しかもコウヤは島の慣習にのっとり常に銛を手放さない。今もすぐ手に届くところに置いている。高槻の有する二本の刀よりも銛の方が丈が長い分、圧倒的に有利だ。だがコウヤに対峙する高槻の態度は変わらなかった。それどころか笑みを浮かべてみせた。
「どんな会話をしたんだ」
「それは秘密かな」
ここで話すことは誰に聞かれているかわかったものではない。だから高槻のこの返答は当然のものだった。それでも眉間の皺を深めるコウヤに、高槻の表情が自然と緩んだ。
「心配しないで。うん、ただ、私の過去と古い友との想い出話、それに私の考えを少し話しただけだから」
「十分しゃべり過ぎだ」
「ところで話は変わるけど。この島では生贄を捧げることに対してなんの罪の呵責もないのかな」
話を変えると言いつつ、実は変えていない。高槻は昼にトワと話した自分の死生観についてあれから思いを巡らせていたのだった。
「私はいつ死んでもいいって、コウヤには常々言ってきたよね」
話の流れについていけないながらもコウヤがうなずいた。
コウヤは高槻と魚の関係、そして高槻が魚に何を願ったかを知っている。やや投げやりに生きている高槻が、その実、約束された最高の死を待ち望んでいることを、正しさや理解の可否ではなく、単なる事実としてコウヤは受容していた。
「あの娘には私の考えが理解できないようだったんだ」
「それが普通だ」
「そっか。普通なんだ。でも、それならどうして生贄になることを受け入れられるのだろう」
「そういうものだからだ。ヨンドが望んでいる」
「そしてその望みを拒めば島が沈むから? 島の人間はみな死に、自分も殺されてしまうから?」
「高槻」
過激な発言の連続に、コウヤが思わず高槻をいさめた。これに高槻は懐から取り出した扇子を閉じたまま振ってみせた。
「大丈夫。コウヤはよく知らないみたいだけど、あの魚はこれくらいで怒ったりはしないから。そういえばコウヤはまだあの魚とはあまり話をしたことがないよね」
高槻が魚と初めて出会い、今では釣り場としている無人の島――そこでコウヤも魚と初対面を果たしている。高槻が大陸に滞在中のコウヤを時期を見計らって魚に紹介したのだ。それは魚のためでもあり、高槻自身のためでもあった。
◆
『ねえ。どんな願いでもかなえてくれる魚に会いたくない?』
◆
高槻のささやきをコウヤは拒まなかった。拒むわけもなかった。たった一つのかなえてほしい願いを――だが叶う見込みのない願いをずっと胸の内に抱えていたからだ。それにコウヤは高槻の気配にただの人間とはやや違う気配を常々感じていた。悪い意味ではなく。かといって島の聖なる双子のようにいい意味でもなく。
だからコウヤは高槻の話にのった。大陸に滞在し始めて以来、新しい知識を得ることにある種の快感を覚えていたことも理由の一つに挙げられるだろう。
そしてコウヤは生まれて初めてヨンドと会った。
◆
『島の男。わたしの願いをかなえてくれるか。お前の島に住むトワという娘がほしいのだ』
コウヤが自らについて述べる間もなく、魚の方から願いを告げてきた。これをコウヤはとっさに拒んだ。
『トワは……あれはまだ十三だ。それにトワにはアキトという許嫁もいる。アキトがトワを手放さない。夫婦になるというのはそういうことだ』
コウヤには二人が悲しむようなことをするつもりは毛頭なかった。だから拒んだ。だが拒んだ理由がよくなかった。
『なるほど。それではわたしがトワと夫婦になればいいのだな』
魚の発言に、常に飄々としている高槻が息を飲んだ。そして高槻の動揺によってコウヤは己の失言に気づいた。人の世界において女を自分のものにしたければ嫁にすればいいのだと、うかつにもヨンドに教えてしまったのである。
『どうだ。わたしの願いをかなえてくれるか?』
『それは……』
すると魚は口ごもるコウヤではなく高槻に対してこう言った。
『お前にはこの男を動かす責務がある。全うできないのであればここでお前の命を奪うことになるがそれでもいいか?』
『……高槻? どういうことだ』
◆
意味がわからないコウヤに、高槻はなんてことのない体を装って自らの過去を打ち明けた。それが、コウヤが高槻の半生について初めて知った瞬間だった。そしてコウヤはヨンドと人間の関係、すなわち願いに関する取引の法則について知った。村長の弟といえど知らされていなかった秘密を。
コウヤはその場で己が成すべきことを決断した。
◆
『あなたとトワが夫婦となれるようにする。約束する』
やや青白い顔になっていた高槻がはっとしてコウヤの方を向いた。だがコウヤは魚から目をそらそうとはしなかった。
『これであなたはこの男との取引を完遂できるはずだ。だがこれは俺とあなたとの取引でもある。そうだな?』
矢継ぎ早に問いかけるコウヤに、魚が尾の鋭利な部分だけで海面を勢いよく叩いてみせた。その尾をちょっと動かせば、高槻とコウヤ、二人まとめて一瞬で刺し殺すことができる。それを二人は尾の動きだけで理解させられた。それでもコウヤは魚から目をそらさなかった。
『……それでいいだろう』
ややあって魚が言った。コウヤの言い分を認めたのだ。
『では島の男。お前の望みは何だ』
これにコウヤは間髪入れずに答えた。
『俺は島の村長になりたい』
『よかろう。その願い、聞き届けた』
トワが十六歳となってから島に迎えに来てくれ。それまでにこちらでも準備をしておく。祝言を終えればトワは名実ともにお前のものになる。魚はコウヤの言い分を受け入れ、そして海へと戻っていった。
◆
「……結局、何を得て何を捨てるかってことかな」
随分長い間過去の思い出にさまよっていたらしい。独り語る高槻の声に、コウヤは現実へと引き戻された。いつの間にか高槻は持っていた扇子をひろげ、ゆるゆるとあおぎながら開け放たれた庭の方を眺めていた。池の鯉がぴちゃんと跳ね、月光に照らされた水面に波紋が生じた。その上をゆるゆると飛び交うホタルは空に輝く星々のようだ。まぶしさに高槻はそっと目を伏せた。
「生贄という存在の良し悪しはそれと引き換えに何を得るかで決まるってことかな。コウヤのようにね」
コウヤが得ようとしたもの。それは村長の地位であり、あの場での高槻の命と尊厳をまもることだった。逆にコウヤが捨てると決めたもの。それはトワの命とアカツキの幸福の一つだった。どちらかを獲れば、どちらかを捨てなくてはならない――三年前、突如目の前に出された究極の二者択一の場面で、コウヤが選んだものは前者だった。どちらも捨てたくはないが、前者により高い価値を感じたというわけだ。当時の価値観は今もゆるいでいない。村長の座――そこにコウヤはただならぬ執着をもっていた。
「……結局、悩みながらも選択しようとすればそういう決め方しかないのだと思う」
「そうだねえ。命が常にもっとも尊いものとも限らないしね。そうそう、実はこれをコウヤに渡したくてね。昨夜渡すのを忘れていたから」
高槻が漆塗りの黒箱をコウヤへと押しやった。
「これは?」
「舶来ものの赤砂糖だよ。大陸では赤はめでたい色だから」
取り出した懐紙に書きつけ、高槻はそれをコウヤの手のひらにおいた。そこにはこう書かれていた。『本懐を果たす日を祝して』と。文字に目を走らせたコウヤがはっとした顔になった。
「……まさか。そうなのか?」
これに高槻が満足そうにうなずいた。
「そうだよ。思ったとおり、ここが私が望んでいた場所だったんだ。明日の祝言が終われば次は私の番だ」
懐紙を握りつぶしたコウヤの拳が、ややあって膝の上で震え出した。
「高槻には随分世話になった。高槻がいなかったら……俺は……」
「そんなに別れがさみしい? うん。私もさみしいよ。またいつか会えるといいね」
そんな日がくることはないとわかっていても、コウヤは高槻の言葉にうなずいた。高槻の晴れやかな表情に、自分に言えることもしてやれることも何もないとわかったからだった。
◇◇◇
高槻とコウヤが別れを惜しんでいる頃、ヨウガはトヨに与えていた亡き妻の部屋を訪ねていた。
「明日はトワの祝言だが出られそうか」
ヨウガの問いかけにトヨは幸せそうに頬に手をやった。
「母親だもの。もちろん出るわ。ねえ、愛しい人。わたしたちのトワは大きくなったわねえ」
この館に連れ込んで以来、トヨは変わってしまった。もともと弱くなっていた心に魚が細工をしたのだろう、トヨはヨウガのことを『愛しい人』と呼ぶようになった。ただ、その言葉が意味する男はヨウガ自身ではなかった。亡き夫のサイラだった。トヨはヨウガにサイラの姿を見ているのだ。
「ねえ。愛しい人。今夜はそばにいてくれる? ずっとこの部屋に閉じ込められて、あなたもいなくて。さみしかったの」
伸ばされた手を、ヨウガはためらったものの手にとった。白くて、細くて、傷一つついていない手だ。ヨウガはその手に震える唇をそっとおしつけた。
「ふふ。くすぐったいわ」
身をよじるトヨの幼さを感じる動作に、ヨウガは泣きそうになるのをこらえた。ヨウガはトヨをずっと恋慕っていた。こうしてそばにいるだけで、手に触れているだけで身がすくむほどの光悦を覚えるほどに。だが以前よりもトヨとの距離を遠く感じる。これは本当に俺が愛する女なのだろうか――と。
「ねえ。『また』わたし達の子供がほしいわ。わたし、あなたとの子供がたくさんほしかったから……」
ねだるように胸元にしなだれかかってきたトヨの肩を、ヨウガは抱きしめることしかできなかった。どんなことをしてでも、どんな形であろうとも手に入れたい。そう思っていた。そしてそれは現実になった。しかし、このような形で手に入れたかったわけではなかったのだ――。
◇◇◇




