23. 高槻の過去、祝言前夜(1)
トワが魚とともに浜に戻ると、そこにはなぜか高槻の姿があった。
「やあ。海は気持ちよかった?」
軽い調子で手をあげた高槻のそばには今日も供の姿はない。膝の上に丸まって眠る猫がいるだけだ。どうやら昨日見かけた猫に懐かれたようだった。
「高槻様。どうしてここに?」
トワは濡れた着物の裾を太ももの高さで絞りながら高槻に近づいていった。魚はまだ浅瀬でゆらゆらと泳いでいる。泳いでいるうちにずいぶん日が高くなっていた。
「君たちに会いたかったんだ」
「わたしとお魚様に?」
「うん。ここに来ているだろうと思っていたんだ。そうそう。昨日言っていた私の古い友というのはね、あの魚のことなんだ」
水を絞るトワの手が止まった。
「……本当ですか?」
「本当だとも。七つのときに知り合ったんだ」
「……そう、だったんですね」
泳いでいる魚からは何の反応もない。怒ってもいないし、喜んでもいないようだ。ただ、高槻が嘘を言えば何かしら反応するだろうから、高槻の言うことは正しいのかもしれないとトワは思った。
「あれれ。疑ってるねえ」
「疑わない方がおかしいと思いますけど」
「それもそうか。ま、こっちにおいでよ」
高槻に隣を勧められ、トワは素直に腰をおろした。猫がゴロゴロと喉を鳴らす音を聞きながら、頭頂部で団子状に結わえていた髪をいったんほどき、かき上げつつ軽く水を絞っていく。至近距離でさらされたうなじに、高槻が少しばかり目を細めた。
「私のこと、疑いはするけど警戒はしないんだね」
相変わらずの失礼な物言いに、トワは手を止めて高槻を軽く睨んだ。
「ごめん、ごめん。面白いからついからかってしまうんだ」
「大陸の人ってみんな高槻様みたいなんですか?」
「まさか。人それぞれだよ。それはこの島の人もそうだよね」
「まあ……確かに」
納得はできるが、話をそらされたような気もする。物思う表情になったトワの目の前に、不意に握り飯が差し出された。
「これ、食べる?」
途端にトワは空腹を思い出した。そういえば朝ごはんも食べずにここに来たのだった。
「ありがとうございます。いただきます」
「水もあるよ。あと漬物も」
「ところで。さっき言っていたことですけど」
「ああ。私と魚の関係だね」
高槻は思いのほか素直にトワに打ち明けた。
「実は私は母に捨てられたことがあるんだけどね」
今度こそトワの手が完全に止まった。
「捨てられた……?」
「うん。今日みたいな暑い日に無人の島に捨て置かれたんだよね。でもその時はさみしさとか悔しさよりも、喉の渇きで死ぬかもしれない恐怖の方が強かった。ああ、水はたくさんあったよ。四方を海に囲まれていたからね。でも飲むことはできないでしょ?」
言葉を失ったトワを気にすることもなく、膝の上の猫をなでながら高槻は語っていく。
「私は泣いたよ。このまま水を飲めずに苦しみ続けるくらいなら、いっそのこと海に飛び込んで水に包まれて死にたい。その方が気持ちよく死ねるってね。気づけば私は甘い蜜に惹かれるように海に近づいていた。そこにあの魚が現れたんだ」
夜の海にひたりと現れた未知なる魚は、月の光を浴びて、自らが月であるかのように銀色に光り輝いていた。
「魚が言ったんだ。私が死んだら食ってやると。私はそれを言葉そのままに受け入れた。これでも領主の息子だ、近海にヨンドという死人の魂を食らう存在がいることは知っていたし、このまま無駄死にするよりもよっぽどいいと思ったからね」
◆
『食べていいよ。でも一つお願いがあるんだ』
強烈なのどの渇きに苦しみながらも、高槻は魚に願っていた。
『私を天国に連れていって』
『天国? そのような場所をわたしは知らない』
『だったら天国のようなところでいいから』
『とは?』
『すばらしい場所。一番すばらしい場所で死にたいんだ。こんなところで死にたくない』
『そうか。わかった』
◆
「すると不思議なことに私ののどの渇きは消えていた。その場で死なせては約束を守れないから魚は私を生かした。そういうことだったんだ」
また会おう。そう告げて魚は去っていった。翌日、高槻は通りかかった漁船に助けられ、無事に城へと戻ることができた。
「魚と私が再会したのは、それから二年後のことだった。ああ、私が母に疎まれたていたのは兄上が跡目を継ぐのに私が邪魔だと考えたからだったんだよね。私は兄上と違って勤勉で真面目だったから」
それはトワの知る高槻とは別人のようで、もの言いたげなトワの視線を受け、高槻が一つうなずいた。
「うん。だから私は頑張ることをやめたんだ。それからの私は自分が捨てられた島に自ら通って、日がな釣りをして過ごしてたんだけど、そこにまた魚がやってきたんだよね」
◆
『わたしはお前の願いをかなえると約束した。それゆえお前が死ぬにふさわしい場所を見つけてある。美しい島だ。だからお前にもわたしの願いをかなえてもらう』
開口一番、再会の喜びを分かち合うでもなく、思いもよらないことを言い出した魚のことを、高槻は自然と受け止めていた。なるほど、願いとは双方でかなえあうものなのだと。一方が一方を満たすだけではつり合わないのだと。たとえば高槻と高槻の母のように。
『いいよ。君は私に何をしてほしいの?』
◆
「そこで魚が言ったんだ。君がほしいと」
「それって……」
まさか話がそこに行きつくとは思っておらず、トワの目が大きく見開かれた。
「まだわたしが小さい頃の話、ですよね……?」
「そうだね。ええと、十五年前の話だから」
「わたしが一歳の頃だと思います」
「そうか。一歳か。それは面白いね」
高槻は扇子を取り出すと、音をたてて広げ、口元を隠して笑い声をあげた。
「ははは。どうしてあの魚が君を望んだのか、やっぱりよくわからないや」
高槻は扇子を閉じると膝の上から猫をおろして立ち上がった。そして浅瀬でたゆたう魚へと近づいていった。
「ねえ。魚。魚はどうしてあの娘がほしいの?」
答えない魚に高槻は肩をすくめ、またトワの隣へと戻ってきた。
「やっぱり答えない。いつもこうなんだ」
「……高槻様ってすごい方ですね」
「え? どこが?」
「お魚様にそんなふうに気楽に接することができる人、この島にはいませんよ?」
「そうだね。そうかもね。でもそれは私がいつ死んでもいいと思っているからだろうね。私が死ぬときは魚がすばらしい場所に連れていってくれたときだから。ある意味、死ぬことができる日を心待ちにしているよ」
高槻の死に対する解釈はトワには斬新すぎた。
「ちょっとしゃべり過ぎたね。ほら、食べて」
無口になったトワに、高槻もそれだけ言うと口をつぐんだ。二人の視線は自然と浅瀬で泳ぐ魚へと向き、トワが食事を終えるまで、二人そろって魚を見つめ続けていた。
館に戻る道すがら、トワは思い切って高槻に訊ねた。
「高槻様はお魚様の願いをどのようにしてかなえてあげたんですか?」
これに高槻は少し考えて言った。
「私自身は何もしていないよ。ただ、流れは作ったけれど。だよね?」
高槻が誰よりも背の高い人型の魚を見上げた。だが魚は何の反応も見せなかった。
「ほんと、相変わらず無愛想だねえ」
高槻が苦笑した。
◇◇◇
「どうした。何を考えている」
夜、ひんやりとした魚の体躯に包まれているもののなかなか寝付けずにいるトワに魚が訊ねた。トワは少しためらったものの、思いきって言った。
「お魚様は死ぬことはあるんでしょうか」
「ほう。どうした急に。あの男の話に感化されたか」
「聞こえていたんですか?」
魚は返答をしなかった。
「……聞こえていたんですね」
そのままこの会話は終わるかとトワは思ったのだが、違った。
「死ぬという意味がこの現世から消えることを意味するのならば、わたしも死ぬ」
魚が美しいひれでトワの背をなでながら言った。
「だがそれはわたしにとっての喜びだ」
「どうして……ですか? 死ぬことが怖くないのですか?」
「愛しい娘。お前にはわたしやあの男のような考えは理解できないか」
戸惑いつつもうなずいたトワを、魚は赤い目で真正面から見つめた。
「わたしにとっての死とは、わたしの体を死人の魂が必要としなくなるということだ。わたしはこれまで数えきれないほどの魂を食してきた。もうこれ以上は一口も食せないほどに。その魂たちがわたしに願うのだ。たった一つの願いを。この身に渦巻くすべての願いの中で選ばれしもっとも強い願いを。この願いをかなえれば、わが身にとどまっていた魂はすべてが満たされて消えるだろう。そしてわたしはおそらくただの魚へと戻る。そして自然の摂理でいつか死ねるだろう。次の命となるために」
「……お魚様はわたしと夫婦になったらヨンドではなくなってしまうのですか?」
身を起こそうとしたトワに、魚は心得たように力を抜いた。トワに巻き付いていた体躯はするすると短くなり、やがて人の姿となった。
姿勢を正したトワの正面に胡坐をかいた魚が、赤い目を細めてトワに微笑んだ。
「おそらくな。それが今のわたしの中に渦巻くもっとも強い願いだから」
この部屋ではいつも海の香りがする。蜜をたっぷりとかけた揚げ団子に、アオツバキ。不思議な組み合わせだが、この二つは常時部屋にあり、するとトワはここが海の中のようだと錯覚してしまうのだった。そして海の中で人の姿となった魚と対峙することは得も言われぬ感覚をトワにもたらすのだった。まるでたった一人で広大な海に取り残されてしまったかのような、そんなある種のさみしさを。そして不思議となつかしさを。
「では……こうしてお話をすることもできなくなるのですか」
「おそらく」
「……お魚様はわたしの前からいなくなってしまうということですか」
心細げな声を出したトワに、魚の目がやや見開かれた。そして、そんな声を出してしまった自分にトワ自身が驚いていた。
「安心するといい。わたしはどこにも消えない」
「でも……」
「わたしはただの魚になるだろう。だがわたしはいつでもお前のそばにいる。夫婦とはそういうものだろう?」
魚の白く細長い手が、トワの頬にそっと触れた。
「さあ、眠ろう。明日は祝言だ」
◇◇◇
その夜もトワは夢の中で魚に包まれて海を泳いだ。今夜の夢もすばらしく美しく、そして楽しかった。まさに夢ならではの世界だった。幸せだ――そう思ったら涙があふれた。トワの涙は海に溶け、それを魚がおいしそうに口に含んだ。
◇◇◇




