19. 高槻と浜へ
今日島にやってきたばかりだというのに体力には相当自信があるのだろう。善は急げとばかりに、高槻は早速トワを浜へと案内させた。そして今、夕日に染まるオオキビに囲まれた小道を、高槻は供もつけずにいたって軽快に歩いている。
「高槻様はお代官様ではないのですか?」
「代官は父だよ。私はしがない放蕩息子さ。おっと。猫を蹴ってしまいそうになった」
ねずみと、それを追いかける猫とが高槻の足元を通り過ぎていくのを、高槻はよろめきながらも愉快そうに見送った。
「放蕩って……。柏原家の方なのに?」
「君がどう思っているかは知らないけど、我が国での柏原家の扱いは微妙なものなんだよ。隣国との貿易の仲介を任されてはいるけれどそれだけのことだ。まあ、僻地ゆえにけっこう自由にさせてもらってはいるけどね」
「……そういうものなんですね」
島の人間以外ときちんと話をするのは初めてのことで、トワは新鮮な思いで耳を傾けている。頭頂部でニワトリの尾のように揺れる高槻の斬新な髪型も、後ろを歩いているのをいいことについちらちらと見てしまっている。この島の男は濡れてもすぐに乾くように基本的に髪を短くしているが、大陸の男には常日頃泳ぐことは求められていないのだろう。この島の女のように。そんなことを考えながら。
「おお。ヤギもいる」
「大陸では珍しいんですか?」
「そうだね。島と大陸ではちょっと違うかな」
「へえ。そうなんですね。あ。あそこです」
自宅に客人を招くときのように若干緊張しつつ、トワは高槻に浜を示した。ちなみに示す前に遠目でアキトが浜にとどまっていないことは確認済だ。さすがにこの時間まで残っていることはないだろうと思ってはいたが念のために。
「へえ。あそこか」
高槻の足が自然と速くなりトワを追い抜いた。よっぽど浜へ行くのを楽しみにしていたのだろう。ずいぶん少年じみた人だ。
「ふふ」
つい笑ってしまったトワを高槻が怪訝そうな顔で振り返った。
「あ。すみません。アキトに似ているなって思って」
「アキト?」
「わたしの乳兄弟です」
「ああ。君の元許嫁だね」
嫌な言い方にトワは高槻をきつく睨んだ。いろいろと自分のことを知っているのもいい気がしない。それはお爺やヤドカリに視られているのとは違う感覚だった。
「そういえば、あの浜は君とその元許嫁の逢引きのための場所だったそうだね」
「……は?」
「だから島の人間は君たちがいそうな時間帯には誰も絶対に近寄らないって聞いてるよ」
それはトワにとっては初耳だった。
「でも君はその少年に嫁ぐのが嫌だったそうだね。おっと。喋り過ぎたかな」
飄々と語る高槻をトワはぎろりとにらんだ。そして、無言、かつ早足で高槻を追い抜いた。そんなことまで無関係の高槻に知られていたことに恥ずかしさと悔しさを覚えながら。
「あ、待ってよ」
「待ちません」
「待って!」
「待ちません!」
むかむかして、最後の方ではトワは全速力で駆けていた。
「……君、足が速いね」
高槻がトワに追いついた頃には、トワは浜の浅瀬で草履をぬいで足を浸して涼んでいた。
「私も足を入れていい?」
「……ご自由にどうぞ」
「ありがとう」
誰のものでもない海に足を入れることに対して許可を得てきた高槻に、トワはむずかゆい想いを抱いた。そして、偉い大人のくせに全力で海を楽しみだした高槻の姿に、トワはとうとう吹き出してしまった。長い裾をまくり上げて、海に足を入れて。蹴って、水しぶきをあげて。濡れて、笑って。こんなことでこんなふうに無邪気に喜べる人間はこの島にはいない。海とは、この島の人間にとって当たり前にあるものだからだ。
「ああ。気持ちよかったなあ」
海を十二分に堪能した高槻は、岩場に座って見守っていたトワの隣に腰をおろした。そしてさりげなくこう言った。
「ね。君のこと、もっと教えて?」
高槻のその切り出し方には警戒すべき色は見当たらなかった。なんの思惑もなさそうで、単純に知りたくて訊いているようだった。だからトワは自然と口をひらいていた。そして気づけばたくさんの話をしていた。自分とアキトの関係。生まれたときから今までの十六年間について。信愛と夫婦になることを結びつけられない戸惑い。そして――魚との出会い。最後に、なぜ魚に嫁ぐことを受け入れたのかを。
誰かに聞いてほしかったのかもしれない。島の人間以外の誰かに。
自分の話が終わったら、次は島について訊ねられたので続けて話していった。どれほどすばらしい島なのか、こちらは語ろうとすればいくらでも語れた。身振り手振りを加えながらせわしなく語るトワに、高槻は楽し気につきあってくれた。
やがて、話し疲れたトワがようやく口をつぐんだ。もう太陽が半分ほど沈んでいる。
「……この島のこと、好きだなあ」
海を眺めながら高槻がぽつりと言った。それはトワにとって最大級の賛辞だった。
「気に入ってもらえてよかったです」
「うん。気に入った。ずっとここに住みたいくらいだ。前から聞いていたんだよね。この島は美しいと。実際、来てみたら本当だった。うん、こんなに美しい島はほかにはないよ」
「誰に聞いたんですか?」
「古い友から、ね」
島の人間は用がないかぎりめったに大陸に渡らない。ただ、村長であるヨウガは年に一回少数の供をつけて柏原家の城に赴いている。だからその中の誰かが高槻にとっての友なのだろうとトワは結論づけた。古い友人ということだし、その人は高槻よりも年上なのだろう。それよりも若い者はまだ大陸に渡ったことがないからだ。
「友人というのはカイランのことですか? それともソウヒのことですか?」
トワは思いついた名前を挙げてみた。
「さあね。どちらだろうね」
ふっと、高槻が笑った。
「さて。もう帰ろうか。暗くならない前に私たちが帰らないとみんなが心配する」
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