18. アキトの想い、打掛
その頃、浜に残っていたアキトも柏原家の帆船の存在に気がついていた。
洞窟に戻るためにのろのろと小舟を沖に出しかけたところで帆船が見え、急いで小舟を岩陰まで引き上げ直して様子見をしていたのだ。
「……そうか。祝言に立ち会うために来たのか」
言葉に出すとアキトは虚しさを覚えた。柏原家の人間がこの島にやってくることはめったにない。そして、次に来訪するのは、次期村長とみなされているアキトの祝言であるはずだった。アキトと、それからトワの。
『なんにも気にしないで他の人と幸せになってね』
去り際にトワが発した台詞。意味はわかっている。他の女と夫婦になれと、そう言っていたのだ。同じ女の乳を飲んだ女は、アキトにとってはトワしかいない。トワがいなくなればアキトは誰を嫁にすることも可能となる。
「……くそっ」
アキトは頭を抱えて座り込んだ。ぎらつく陽光を十二分に浴びた砂はやけどしそうに熱いが気にもならなかった。
アキトはトワに以前訊ねられたことがある。幸せについて。それにアキトはこう答えた。五体満足で毎日飯が食えて、家族や仲間、それにトワと毎日一緒に過ごせていれば、もうそれだけで俺は幸せだと。それに対してトワはこう言った。
『だったらそのうちのどれか一つでもなくなったら、アキトは幸せじゃなくなるの? それともその中のどれが一番大切だとか、順番が決まってたりするの?』
あの時、アキトはこの問いに答えられなかった。どれも当たり前のように有していたものだったからだ。トワはアキトと夫婦になることに常々不満をもらしていたが、それも口だけのことと思っていた。そう信じたかったのもある。アキトもトワも、他の誰もよりお互いに親しみを覚えていたし、ともに長い時間を過ごしてきた自負があった。
この島の人間は全員ひっくるめて一つの大きな家族だ。その中でも、もっともそばにいて親しい女を嫁にすることはアキトにとっては自然なことだった。他の誰に言われるでもなく。だが――この島では同じ女の乳を飲んだ男女は夫婦になるもので、それ以上でもそれ以下でもなかったはずだが、いつからだろう、ただそれだけのことではなくなっていた。
トワが大切だと――今、なぜか強くアキトは思った。
他の何よりも、誰よりも大切だと。
今日、泣きはらした顔で辛くはないと笑ってみせたトワのことが思い出される。それだけでアキトの胸がつきんと痛んだ。トワが人前で泣くことを極端に嫌うようになったのはいつからだろうか。少なくとも五歳のときには自分が怪我をしたというのに泣かなかった。そして大泣きするアキトのことを一生懸命なぐさめようとしていた。七歳でガジュマルの木から降りられなくなったときもそうだ。泣きそうになっているアキトのために、トワは助けが来るまで大きな声で歌い続けてくれたのた。それがトワという少女だった。
今も時折トワは浜でひとりで泣いている。そのことをアキトは知っていた。慰める言葉がわからずこれまでは何もしてやれなかったが――今は違った。言葉がわからなくても手を差し伸べたいと思うし、涙をぬぐってやりたいと思う。落ち着くまでそばにいてやりたいし、笑顔にしたい。そう、いつだってトワのそばにいてやりたいのだ。
だがそれはもうかなわない夢だ。トワがアキトの嫁になることはないのだから。今だってそばにいてやることすらできない。
アキトは両手で熱い砂をすくい、空に撒いた。日の光のもとでも星のように輝く砂の粒子に、アキトはトワと夜の海に浮かんで見上げた満天の星を思い出そうとした。
◇◇◇
気分転換にあちこちを無駄に歩き回り、洞窟にもっとも近い岩場でヤドカリと別れ、それからトワは館へと戻った。そんなトワのことをコウヤが首を長くして待っていた。
「こんな時間までどこに行ってたんだ。高槻様がお待ちだ」
さっそく案内された離れでは高槻が自室のようにくつろいでいた。自分で持ち込んだのだろう、かいだことのない香がたきしめられていて、トワはつい眉をしかめてしまった。煙めいた人工的な香りに抱いた生理的な嫌悪感は、トワの二の腕に鳥肌までたててしまっている。
「あらためて。こちらは柏原家の次男、高槻様だ。高槻様、こちらはトワです。トワ、あの打掛は柏原家からの贈り物だ」
入室時からトワはその打掛の存在に気づいていた。男のための部屋なのに女ものの豪奢な打掛が掛け具に飾られていれば、気づかないわけがない。重量感のある漆黒の生地には大小のアオツバキがいくつも縫い付けられていて、絢爛豪華という言葉がふさわしい一品だった。
「ありがたくいただくように。お礼を言いなさい」
贈り物というが、その実、ヨンドの花嫁にふさわしい打掛がこの島にはなくて、急ぎ柏原家に用意してもらったのだろう。こちらを見つめる高槻の含んだような表情からトワは察した。それでも素直に正座をすると、トワは畳に指をついて頭を下げた。
「ありがとうございます」
「きれいだろう? 気に入ってくれたかな」
「はい」
「祝言が楽しみだね」
「はい」
他に応答のしようがなく、トワは繰り返しうなずいた。
「そうそう。私も先ほどコウヤ殿とともにお魚様にお目通りしてきたところなんだ」
高槻がトワの襟元、ヤドカリがいたあたりに目をやりながら言った。
「話に聞いていたとおりとても神々しいお姿をしていたよ」
「ほんとにそう思ってます?」
とっさに本音が出てしまったが、トワは表情だけは崩さずに堪えた。高槻は一瞬黙ったものの、やがてははっと笑い声をあげた。
「もちろん。本心だとも」
高槻が勢いよく扇子を広げた。その音の大きさと軽快さは高槻の心を表すかのようだった。
「あれほど大きな魚はどこにもいないじゃないか。なんともすばらしいお姿だよ」
大げさな物言いに、これまたトワは言い返していた。
「クジラの方が大きくて立派です」
高槻の態度が気安いのもあり、すべてに対してトワの反発心が高くなっているのもあり。本来ならば村長よりも敬うべき柏原家の人間に、トワは無意識に軽い態度をとっていた。そしてそんなトワを高槻もコウヤもいさめることはなかった。その理由の一つはまず間違いなく、トワが魚の嫁となるからだった。
「確かにクジラは大きいよ。しかも美味だ。だがお魚様は食せまい。食する以前に触れることすらおこがましいよ。お魚様こそ神に近しい存在だと思うね」
「食べ物すべてを敬うべきだと思います。食べ物がなければわたしたちは生きていけないのだから。でもお魚様は違います。急に現れて無理難題を言うだけの迷惑な存在です」
「トワ」
辛辣な言葉の連続に、さすがにコウヤがいさめた。コウヤの焦りに感化され、トワも自然と口をつぐんだ。下手に魚の怒りを買えばこの島が沈んでしまうという。しかしそれはトワの本意ではなかった。
トワが黙りこみ、沈黙が続いた。しばらくしても何事も起こらず、コウヤが深く息を吐いた。お魚様はお怒りではない。それを確認することでようやくこの場が正常に戻った。
姿勢を崩しながら、高槻が広げていた扇子を手の内でぱちんと閉じた。
「ところで」
仕切り直すように、小気味いい音をたてて扇子を広げてみせる。
「君はお魚様とどこで出会ったのかな」
ゆるゆると扇子をあおぎ出した高槻に、トワも額の汗を自覚した。久しぶりに嫌な緊張を覚えていたようだ。昨夜も一緒に寝たせいで、あの魚は無害な存在だと勘違いし始めていたのがよくなかった。
「島の北西にある浜です」
トワは手の甲で額の汗をぬぐいつつ答えた。
「お魚様にとっては庭の池くらいの小さな浜ですよ。きっと道に迷って入りこんでしまったんでしょうね」
「ふうん」
高槻は笑みが浮かんだ口元を扇子で隠した。
「よかったらそこに私を連れていってくれないかな」
思いがけない提案にトワが目をむいた。
「どうしてですか」
「私が行ったらいけないかな。前からこの島の不思議には興味があったんだ」
正直に言えば迷惑だった。だがコウヤに視線を向けるとうなずかれてしまった。つまり、拒むなということだ。だからトワは不承不承うなずいた。
◇◇◇




