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トワの祝言  作者: アンリ
本編
15/37

15. トワの決意

 食事を終えたトワは館を出ると日参していた浜へと足を運んだ。お気に入りの岩に座ると、肩の力が自分でもわかりやすいくらいにすとんと抜けた。随分気が張っていたようだ。眼前にはどこまでも広がる海面がある。揺らめく波が照り返す陽光のまぶしさにトワは目を細めた。


 あの日、あの朝。ここであの魚を見つけて、アキトが捕えて。それがこんなことになるなんて誰が想像できただろうか。この浜はトワにとって第二の家のような大切な場所だったのに、今はもうそんな単純な憩いの場所ではなくなってしまった。それに……ここに来るまでに幾人かにすれ違ったが、誰も以前のようにトワに親し気に声をかけてはこなかった。彼らはトワが魚の嫁になることを知っているのだ。嫁という名の生贄に。


 しばらく日の光に当たりながらぼんやりとしていると、昨晩の決意がトワの胸中であらためて首をもたげてきた。やはり母を連れてこの島から出た方がいいのではないか、と。この窮地を救ってくれる人は誰もいないし、島の命運がかかることに当事者である島人の助けを求めるわけにもいかない。ならば、魚の嫁にならないためには自らここを出ていくほかないのだ。


 ただ、実際に行動に移すとなると気になることはいろいろあった。どうやって母を館から連れ出す? それに逃亡先ではどうやって暮らせばいい? 住まいは? 仕事は? 知らない土地で自分に何ができる? いや、それ以前に自分で船をこいで本当に大陸にたどり着けるのかも不安だった。この島の女のほとんどがそうだが、トワもまた自分で船をこいだ経験があまりなかったのである。つまり一度船で沖に出てしまえば、それは生きるか死ぬかの壮絶な話になってしまうのだ。


 トワは頭を軽く振った。そして少しでも明るい未来に思いを馳せることにした。無事に大陸に着いてから、その先のことを。


 間違っても魚が訪れることのない、亡くなった父を思い出すことのない場所に住むことは決定だ。つまりは海のない場所である。そこでなら母の調子は今よりもよくなるだろう。トワ自身も不本意な相手に嫁ぐ必要がなくなる。考えれば考えるほど新天地での未来は明るくて、ここに来てようやくトワの顔がほころんだ。だがそれも次の瞬間には消えた。


「……ああ」


 トワは頭を抱えて小さくうめいた。


「……やっぱりだめ。ここを出るなんてできない」


 大勢の命と島を引き換えに幸せを得ても、その幸せには価値がないのだ。母と自分――どちらもトワにとっては大切だが、それと同じくらい島や島の人間も大切だから。


 それでもトワは悩み続けた。結論を出すのが怖くていつまでも悩み続けた。すると、これまでアキトとの結婚に悩んでいた自分がふいにちっぽけに思えて笑えてきた。


「あははは。あは……は……」


 笑い声は涙と引き換えに次第に小さくなっていった。


「はは……は……ふ……ふうっ……ううう」


 今も昔も、トワが自分ひとりのために密かに泣ける場所はここだけだった。誰かの前で涙を見せることが嫌いだから。


 仕方ないことは、仕方ない。今朝チョウヒに言った言葉はトワにとっての真実だった。けれど、それでも納得できないときや泣きたくなるときはあるわけで。だから今日もトワはたっぷり時間をかけてひとりで泣いた。


 散々泣いて潮騒の音に包まれていると、トワのとがった神経は次第に丸くなっていった。嗅ぎなれた潮の香りにもトワの心を穏やかにする効果があった。こんなに泣いたのはいつ以来だろうか。トワは岩から降りると大胆に砂浜に寝転んだ。そして気づけばトワは眠っていた。陽光の熱さに耐えかねて目を覚ましたころにはずいぶん気分がすっきりしていた。


 眠っていた時間が短かったことを太陽の位置から逆算しながら起き上がると、向こうからヤドカリがとことこと歩いてくるのがトワの視界に入った。殻を左右に揺らしながら歩く姿は、当のヤドカリは必死なのかもしれないがどこかのんきにも見える。島の見慣れた光景にトワは自然と笑みを浮かべていた。


 それにしてもあのヤドカリ、ヤドカリにしては歩くのが速くないか。それにあの殻のうずまき具合や柄には見覚えがあるような。そんなどうでもいいことをトワが寝起きの頭で考えていたら、ヤドカリが聞き覚えのある少年の声で話しかけてきた。


「トワ。おはよう!」


「もしかして……ヤドカリ様ですか?」


 夢から現実に、いや、悪夢のような現実にトワは引き戻された気分だった。


「どうしてここに?」


「どうしてって、そりゃあここにトワが向かっているのが視えたからさ。これでも急いで来たんだよ。あ、もちろんここに来たのはおいらだけじゃないからね」


「それって」


 トワはとっさに辺りを見回した。探し人はもちろん――。


「……アキトっ!」


 砂を蹴って、たまらずトワは立ち上がっていた。


「……アキトっ!」


 アキトがトワの声にはっと顔をあげた。トワに背を向けて小舟を浜に引き上げている最中だったアキトは、トワが抱きついてくるのにされるがままになった。


「アキト! アキト……!」


「トワ!」


 アキトは勢いをつけて小舟を浜に引き上げ終えるや、空いた両手でトワを抱きしめ返した。


「トワ! 無事でよかった……!」


「アキト……! 会いたかった……!」


 先に我に返ったのはトワだった。


「ごめん。子供みたいなことをして」


 トワはあわててアキトから離れた。アキトに抱きつくなんて、もう何年もしていなかったのにと。離れていくトワをアキトは少し残念に思った。だが、あらためてトワの全身を眺めて無事を確認し、そして安堵した。


「本当に良かった。なんともないんだよな?」


 視える範囲のことはおじいやヤドカリにしつこく訊ねて知っている。だがあの二人にだってすべてが視えているわけでもなさそうだし、第一、トワの心情はトワが一番知っているはずだから、アキトは思わず訊ねたのであった。


「……ん?」


 泣きはらしたことが丸わかりのトワの顔に気づくと、途端にアキトの顔がくもった。


「泣いていたのか」


「少しだけ、ね」


「……辛いのか? いや、悪い。辛いに決まってるよな。ごめん」


「そんなに謝らないで。わたしは平気。辛いことなんてなにもないから」


 自分以上に自分のことを心配してもらえている。その事実にトワの心が温かくなった。そして、これが幸せってことなんだな、と思った。ずっといろいろと考えてきたけれど、今の自分の気持ちを言葉にするならば――それは幸せのひと言に尽きる。


 ヨンドが現れようとも、現れなくても。本質的には何も変わっていないのだ。自分にとって何が大切で、何に幸せを感じるのか。それは何も変わっていないのである。


 するとトワは強く思えた。守りたい、と。変わらないものも、変わってしまったものも、大切なものすべてを守りたい――と。


 素直な願いが生まれると、まだ不安で揺らめいていたトワの気持ちがすとんと定まった。


「あのね。アキトは知ってるかもしれないけど。わたし、お魚様と夫婦になる」


「……それはあの魚が勝手に言ってることだろう」


 不機嫌そうな声を発したアキトに、トワはゆるく首を振った。


「そうだけど、そうじゃないの。わたしはこの島も、この島に生きる人たちも守りたいの。だからお魚様と夫婦になる。そう決めたの」


 覚悟を決めたトワの表情にアキトは察した。


「……トワも知ってしまったんだな。断れば島が沈むかもしれないと」


 アキトにはっきりと言われたことで、トワの覚悟はさらに確固たるものになった。壮大なペテンに巻き込まれていないかぎり、やはりお婆が言っていたことは起こり得ることなのだ。


「三日後に祝言をあげるって言われてる」


「トワ……」


 アキトがぎゅっと拳を握った。


 トワが望むならば……アキトはトワを連れてこの島を出ようと思っていた。今日だってそのために危険をおかしてここまで来たのである。


 ヨウガに渡された銭とお爺の小舟があれば、大陸に渡り隠れ住むことは可能だろう。たとえ大陸に拒まれても隣国に行けばいい。行けばなんとかなる。そして、トワを救うために島が沈もうとも仕方ないと、そこまでアキトは思い詰めていた。トワと島、それに島の人間。何を優先するか、決める権利はトワにあると思ったから。だが。


「……わかった」


 わかった、としかアキトには言いようがなかった。


「ありがとう」


「だけど……逃げ出したくなったら、そのときは俺を呼んでくれ」


「そうだね。その時は言うね」


 言う気なんてさらさらないといった表情でトワが笑った。



 ◇◇◇



 その夜もトワは魚にくるまれて眠った。


「こうしているとひどく心地よい」


 とろけるような口調で語る魚に添われながら、トワもまた溶けるように眠りについた。こうしてすばらしい眠りを授けてくれる、ただそれだけで、トワの中にあった魚に対する恐れは幾分薄れていた。そこには魚の嫁となることを受け入れた自らの決意も影響していた。


 そしてこの夜もトワは夢を見た。たくさんの魚たちと海で泳ぐ夢を。小さな魚。大きな魚。赤い魚。黄色い魚。たなびく海草の群れ。見たことのない生き物もいっぱいいる。何もかもがすばらしい、極楽めいた世界――。


 ふと見れば、そばにはあのヨンドの魚もいた。どこまでも長い体躯を揺らめかせ、魚はトワに寄り添うように泳いでいた。魚がそばにいることをトワは嬉しく思った。これが魚に嫁ぐということならば、いつまでもこうして泳いでいたいとすら思った。


 ここには悲しみもさみしさもない。悩みもない。ただ心地いいだけだ。それがどんなにすばらしいことなのか、トワは知っていた。



 ◇◇◇


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