14. 不思議な夢、朝餉
朝、目を覚ましたトワは己の状況を確認すると小さくため息をついた。まだ全身を魚にくるまれている。ただ、ほんのりと冷たい魚の体躯は、夏の暑い時分、閉め切った部屋の中では非常に心地よかった。そのせいだろうか、今朝のトワは不思議な夢を見た。色とりどりの魚とともに海で泳ぐ夢だ。澄んだ水に太陽の光が差し込む様は幻想的で、踊るように泳ぐ魚たちはどれも美しかった。体にまとう水の感触も夢のように心地よくて……。
「起きたか」
魚はトワが何か言う前にトワの体を解放した。そして、しゅるしゅると拘束を解きながら意外なことを言った。
「日中は好きに過ごすがよい」
トワは思わず魚をじっと見つめた。真意を探らんとするトワの心理はわかりやすくて、魚がたまらず笑い声をあげた。これにトワは目を見開いた。魚でも笑うことはあるのか、と。
魚は自ら深紅の布の上に這い戻ると、そこに置き物のように鎮座した。
「わたしはここにいる。三日後には祝言をあげるからそのつもりでるように」
「……そんなに早く?」
魚はトワの問いには答えなかった。やがて、トワに見守られながら魚の体が縮んでいった。みずみずしい透明な体躯は縮むたびに乳の色をまとっていき、艶やかさを失っていった。そして最後には浜に打ち上げられた枯れた木材のような姿になった。飯屋の壁に飾ってあったときのように。
トワは縮んだ魚を前にしばらく考えたものの、結局はこの部屋を出ることにした。厠に行って、水を飲みたい。それが今一番したいことだった。こんな時でも人間であることをやめられないのだな、と、我が事ながら呆れつつ。
きっちりと閉められていた棚戸は何の抵抗もなく横に動いた。朝日がまぶしい。空が明るい。そして、暑い。今までいた空間と外との違いは顕著で、トワはまるで悪い夢でも見ていたような心持ちになった。だが振り返れば部屋の奥には魚がいる。これが現実なのだ。
「お魚様は何と言っていたんじゃ」
突然話しかけられ、トワは肝が縮む思いをした。
「……お婆!」
この部屋からトワが出てくるのをずっと待っていたのだろう。お婆はちらと奥の方に鎮座する魚を見やり、それからトワに厳粛な面持ちで再度問いかけてきた。
「きちんと話は伺ったかえ」
トワは小さくうなずいた。
「それならええわ」
満足げにうなずくお婆のそばにはチョウヒが控えている。チョウヒの目は充血していた。この場で徹夜で魚の護衛、兼、トワの監視をしていたのであろう。チョウヒはトワと目が合うと気まずそうに視線をそらした。
「三日後には祝言をあげるからそのつもりでな。ああ、逃げようなどと考えるでないぞ」
「でも……お魚様はわたしに好きにしていいって言ってた」
「だめじゃ」
お婆がにべもなく言い切った。
「おぬしが本当に好きなように行動したら、村の者がみな死ぬことになろうて」
「ええっ?」
驚愕するトワにお婆は低い声で忠告した。
「信じる信じないはおぬしの勝手じゃ。だがその勝手でこの島が沈み、村の者が死ぬ。そうなってもいいのかえ」
トワには何も言えない。視界の片隅ではチョウヒも驚いている。
「トヨも無関係ではないぞえ」
「……母さんも?」
「んだ。たとえヨウガがトヨを気に入っていようとな、そんなもんヨンドの怒りの前では意味はねえ。なにかあったら島の人間全員やられちまうよ」
と、室内から魚の声がした。
「トカリ。それ以上わたしの娘を困らせないでくれ」
「かしこまりましてごぜえます」
別人のごとく、お婆が厳粛な面持ちになった。
「お魚様。祝言のことでいろいろお話ししておきたいことがあるんですがのう」
腰を低くしたお婆は短い方の足を引きずりながら室内へと入り、トワの目の前で棚戸をきっちりと閉めた。
「そうだ。チョウヒ」
遮断された部屋の前でしばらく茫然としていたトワだったが、気持ちを立て直すといつまでも緊張しているチョウヒに声をかけた。今度チョウヒに会ったら伝えなくてはいけないと思っていたことがあったのだ。
「昨日のことだけど、もう気にしなくていいからね」
これにチョウヒがはじかれたように顔を上げた。ようやくきちんと目が合ったことで、トワは嬉しくなってにこりと笑った。
「命令されて仕方のないことだったんでしょ? そういうことってあるものね。うん、仕方ないよ」
チョウヒの見せた強い動揺や複雑な表情の変化から、トワは自分の推測が当たっていることを確信してさらに嬉しくなった。魚が自分を嫁にと望んでいることからも、カイジとチョウヒは本気で自分を殺そうとしてはいなかったと思っていたのだ。……おそらくアキトのことも、そう。
「でも昨日のことがあっても、わたし、カイジのこともチョウヒのことも嫌いにならないから」
「どう、して」
「どうしてって……村のみんなは家族同然。そうでしょ?」
質問の意図がわからないながらも、トワは自分が思っているとおりに答えた。
「それに仕方ないことは仕方ないのよ。どうしようもないことでこれからもぎくしゃくしたくないし。だからもう忘れて。自分をゆるして。お願いよ? カイジにもそう伝えておいてくれる? そうだ。アヤサとロウヒは元気にしてるかな。また今度いっしょに遊ぼうって伝えておいてね」
何を話しても言葉が出ないチョウヒに、トワは仕上げとばかりにとびきりの笑顔を作ってみせた。
「はい。この話はこれで終わりね。もう二度としないからね。だからチョウヒもそういう顔をしないこと! あー、いっぱい話したらお腹すいてきちゃったなあ。もうご飯食べられるかな?」
これにチョウヒがなんとかうなずいた。
「ああよかった。チョウヒはまだここにいなくちゃいけないんだよね?」
こくり。
「だよね。じゃあごめんね。お先に」
わざとらしすぎるかなと思いつつ、いつになく明るい声を張り上げたトワは言葉通りに厨房へと向かったのだった。
◇◇◇
出入りする不特定多数の人間のために、館内の厨房には握り飯や漬物、汁物、干物などが常時用意してある。今日のような早朝にトワは利用したことはなかったが、行ってみれば、料理はどれも大量に、かつできたてが取り揃えてあった。
食事を摂るための大机にはカイジとコウヤの姿だけがあった。それぞれ自分の銛を脇におき、離れた場所で黙々と食事を摂っている。カイジはトワに気づいても箸を休めることはなく、ただ眉をひそめただけだった。そこにはチョウヒのようなわかりやすい感情は見えなかったから、トワもカイジには敢えて声を掛けなかった。
「コウヤ。おはよう。一緒に食べていい?」
「おお。こっちに来い」
にこやかなコウヤの笑顔は太陽そのもののように明るくて、ほっとした途端、油断したトワの腹が空腹を訴えて鳴った。気恥ずかしい思いを隠しつつ、トワは食べたいものを食べたいだけ皿や椀に盛り付けるとコウヤの隣に素直に座った。
「ん。寝起きか? 少し髪が乱れているな」
トワの頭にコウヤの手が触れかけた。だが触れる寸前でコウヤはその手をおろした。
「危ない、危ない。また子供扱いするところだった」
「コウヤならいいのに」
「よくないさ。もうトワは大きいんだから」
「ふふ。実はまだ起きてから鏡を見ていないくらいには子供なんだけどね」
「昨夜は大変だったから仕方ないさ」
コウヤの方からその話題に触れてくれたので、トワは髪を気にしながらも遠慮なく訊ねることにした。
「コウヤはこうなるって知ってたの?」
「いいや。俺もすべては知らないんだ」
たとえ村長の弟とはいえ知っていることには限りがあるようだった。ということは、コウヤは実の兄であるヨウガがアキトとトワを殺そうと画策したことを知らないのかもしれない。知っても気持ちのいい話ではないから黙っていようと思いつつ、トワはふっくらと焼きあがった干しアジに箸を入れた。カイジはいつの間にか姿を消していた。
トワがしばらく無心で食事を摂っていると、急にコウヤが居住まいをただした。胡坐をかいて座っていた状態のまま、くるりとトワの方に向き直る。
「いろいろすまない」
深々と頭を下げたコウヤに、トワは箸をもったままの手を顔の前で振ってみせた。
「全然大丈夫だから。それにこれはコウヤのせいじゃないもの」
「だが」
「いいの。ほんとに大丈夫だから」
ヨウガの弟だからといって、ここでコウヤを責めるのは筋違いだとトワは思っていた。実はさっきから気づいていたのだ。コウヤの顔色がよくないことに。それに少しやせたかもしれない。昨日は気がつかなかったが、あの魚が現れてから、コウヤもコウヤなりに気苦労が絶えなかったのだろう。
「コウヤはわたしの母さんがここに来たことは知ってる?」
「もちろん」
「あのね。母さんが嫌な思いをしないように、コウヤの方で気にしてもらうことってできるかな。その……無理のない範囲で」
「トワはトヨさんに会いたくはないのか?」
「会いたいに決まってる。でもそれは無理でしょ?」
自分で訊ねておいて辛そうな顔になったコウヤに、トワは悲しみを押し殺し、無理して笑ってみせた。
「わかってる。だからせめて、村長が母さんに嫌な思いをさせないようにできるだけ気にしていてくれたら嬉しいの。わたしが嫁いだあとも。それだけで救われるから」
「わかった。任せてくれ」
それからコウヤが感極まったようにほっと息をついた。
「それにしても……。こういうときでもトワは自分よりも他人なんだな」
「母さんは他人じゃないよ」
「自分以外の人間はみな他人だ」
納得がいかない顔をしているトワに、コウヤがしみじみとつぶやいた。
「そういうところをお魚様が気に入るのかもしれないな」
「……コウヤはなぜお魚様がわたしを嫁にしたいのか知ってるの?」
「いいや。でもなんとなくわかる。トワはこの島で一番澄んだ魂を有しているから」
思いもよらないことを言われ、トヨの目が見開かれた。ただ、遅れてお爺とヤドカリとの会話を思い出した。村長の血筋には聖者の血が含まれていると、そう言っていたではないか。
「コウヤもお婆みたいになにか不思議な力をもっているの?」
「俺はなんとなく感じる程度だ。全然大したことない。……あ、これはみんなには内緒だからな」
「うん。わかった」
茶目っ気のある仕草で口元に人差し指を立ててみせたコウヤには幼き日のような気安さがあり、トワはつい膝を寄せて近づいていた。
「……ちなみに村長やアキトはどうなの? やっぱり何かすごい力を持ってたりする?」
だがコウヤの方はこれ以上会話を続けるつもりはないようで、さりげなくトワとの距離をもとに戻した。
「さ。飯を食おう。食い終わったらまずは髪を直せ。そして散歩でもしてこい。今日も天気がいい」
だが逃げるんじゃないぞ。
そう言わないだけ、コウヤは優しかった。
◇◇◇




