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街の南は港湾部。
潮の香りが強くなり、そこかしこに高く積荷が積まれている。往来する人々も、荷揚げをする船乗りが多い。
港に近づくだけで、また一風変わって見える。
フィリアは胸の高揚を抑えつつ。
その港湾部にある教会へと足先を運んだ。
地図では港湾部の片隅。
荒れ狂うような人波をかわし。
潮で錆びついた家々の間を巡って目的の教会に辿り着く。
聖バリノー教の印が門に彫られている。
しかし。
「これが、教会……」
その風体がひどかった。
ところどころに目立つ錆はともかく。
観音開きの扉は、片側の蝶番が壊れて、なかば垂れ下がった状態だった。少しでも押せば崩れるだろう。
壁面に這うツタからも。
これは人の管理から離れて久しいような外見だった。
聖バリノー教徒としては絶句。
この惨憺たるさまに、祈りを捧げること自体が不安になった。
カバンから教本を手に取り。
恐るおそる前に足を踏み出した。
まだ蝶番の機能している方の扉を押す。
ぎぃい。
ひどい軋音にしぜんと顔がこわばる。
ゆっくりと開けて。
「うわぁ……」
次は落胆の感嘆詞が口から漏れる。
教会の中までツタがはびこり、腐食した椅子たちからも相当の年月が経つことが窺い知れる。
信仰心はおろか。
人の気配すらしない。
辛うじて、教会の象徴たるヘルベナ像が健在なこと。
埃を被っているが、欠損はない。
崩れた壁の隙間から指す陽光で、像の前の床の一点が照らされていた。
あの場所が良い。
像の前でひざまずく。
「ヘルベナの慈愛の下に――」
祈りの言葉を紡いだ。
西方島嶼連合国では国教である。
物心のつく頃から幾千と唱えた。
一語一句も違えず、滔々とヘルベナ像に向かって祈りをささげる。
やがて。
数分間に亘る祈祷。
その終わりが見えてきた。
「――導きたまえ」
最後の一節を唱えきる。
集中力が解けて、ふっと顔を上げた。
ひたいに汗が滲んでいる。
それを手の甲でぬぐった。
教本をカバンにしまい、膝の土埃を払い落とす。
巡礼者として最後の祈りは終わった。
あとは、無人の教会を去るだけ。
「それが聖バリノー教の祈り?」
「えっ?」
フィリアは踵を返そうとして。
とつぜん耳に届いた声に硬直する。
無人だと思っていた教会内に誰かがいる。
こんな人気の無い場所では、不穏な予想が頭をよぎった。
こういう空間は、与太者の集会や密会に好都合な場所だ。教会のあり様を見れば、ここがいかに人の心に無いかはわかる。
フィリアはとっさに身構えた。
教会のたたえていた静謐が、険難な修羅場の不気味さへと一変する。
緊張で足が萎縮した。
「そんなに身構えないで下さい」
後ろから石を蹴る足音。
フィリアはそちらに身を翻す。
陽光の差す壁の隙間。
そこから小柄な人影が中へと滑り込んだ。
存外小さい。
港で働く屈強な男たちを見た後なので、想像していた脅威よりも迫力に劣るそれに、いささか和む。
それでも警戒は解かず。
「なぜ、ここに?」
「私は、ここを少し寝床にさせて貰っています」
「寝床?」
「恥ずかしながら、経済が逼迫していまして」
透き通るような声。
フィリアは陽光を背にした影に目を凝らす。
裾がすり切れて襤褸じみた紫のローブで足首まで隠している。下から覗くのは硬いブーツの爪先。
フードの下では、長い鳶色の前髪の奥で、青い瞳が光っていた。
そして。
片手に、その背丈を超える杖。
「り、立派な杖ですね」
「ありがとうございます」
丁寧な受け答えだった。
その身なりや、慇懃な口調から、危険人物と見定めたのが杞憂だったと悟る。
胸を撫でおろし。
フィリアはフードの人物を見据える。
「その、お名前を訊いても……?」
「そう、ですね」
少し戸惑いつつも。
「ミスト、と申します」
彼女はそう名乗った。
そして、また違和感――もとい既視感がする。
フィリアはうん、と小首を傾げる。
「つかぬことをお訊きしますが」
今日は何度目か。
あの言葉で問いただすことにした。
「どこかでお会いしませんでした?」
「いいえ」
やはり、初対面。
フィリアは自分に呆れてため息をつく。
タガネといい、小男といい。
この感覚にはうんざりだった。
そしてフードの人物ミストへと歩み寄る。
「私はフィリアです」
「ええ、フィリア」
「あの、これから宿に泊まるのですが」
「はい」
フィリアは一度だけ教会の扉を見て。
「良ければ一緒に泊まりませんか?」
「……良いのですか?」
「はい。実は、道すがらで善き人から路銀にと物を恵んでくださったので、換金すれば今は幾分か余裕があります」
フィリアはカバンから。
あのタガネのくれた鉱物を差し出す。
それを見たミストが、一瞬だけ目を見開く。
「……誰に貰いましたか?」
「傭兵の方です」
「……銀髪の?」
「はい。……知り合い、ですか?」
そう訊くと。
フードの下のミストの顔が赤くなる。
「そ、そうですね」
「そうなんですか。何だかミストさんとの縁を感じますね」
「は、はい」
フィリアは教会の扉を指し示す。
「では、宿に向かいましょう」
「本当に良いのですか?」
「はい。タガネさんのお話、聞かせて下さい」
ミストは小さくうなずいた。
陽光に照らされた場所を退いて、二人で教会の扉を開けて外に出る。
二人の足音が遠ざかるのを見計らったように、ついに片方の扉が落ちた。




