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タガネは橋の前に立った。
あの交渉の後刻。
火猿たちが戦力を集中するべく小屋から去った後、残されたマダリは山を駆け巡った疲労で寝込んでしまった。
ベルソートもあのまま熟睡している。
山暮らしが老体に堪えたか。
深く考えると、また苛立ちが募る。
その後、眠ることはできず。
タガネは一人夜風に当たっていた。
「……面倒なこって」
魔剣の柄頭を撫でて嘆息する。
そして、今晩も。
『ごぉおおおん!!』
鐘の音と嘯く声がする。
タガネは目を瞑る。
橋の向こうの山頂に巨影がうごめき、その膝下で僧衣の集団が跪く。
その光景を克明にまぶたの裏に描けた。
そして。
彼らの影に隠れて、石と化したマリアがいる。
身体は戦野の空を見上げた時間のまま。
魂だけが失われている。
「平生気に食わん女だ」
犬猿の仲。
互いに蛇蠍のごとく嫌う。
反目は当然だった。
剣を矜持とする彼女と、剣を生きる手段としてきた自分では辿ってきた道が違う。
リクルには、大切な人間ではないかと問われたが、タガネにとって微塵も重要では無く、人生に必要ですらない。
だが。
剣姫マリア。
いつも剣に全て懸ける。
善くも悪くも――大抵が悪いが――自身の正義を信じて疑わない。
厭わしい人間。
けれど不思議にも尊敬すらす直向きさ。
その在り方は血に濡れる剣ではなく。
心は磨かれた剣で在ろうとする。
だからこそ。
「あんな連中に辱められる筋合いは無い」
デナテノルズ。
その剣のような魂を魔獣の糧にされるなど陵辱も同然。
さしものタガネでも看過しがたい。
それに。
マダリはデュークに裏切られたと考え、いまひた隠しにしているが、目の奥に烈火のごとき激情が渦巻いている。
危うい色の光だった。
しかし、タガネはマダリに対して既視感があった。間違いなく、それは以前の自分に重なるからだろう。
レイン――ヴリトラは本能だった。
魔神教団は信仰心。
どちらも、おしなべて私情と一括にできない。
ただ、勝手にこちらが期待しただけ。
勝手に裏切られたと絶望し、怒っている。
タガネは自身の責任に決着をつけた。
ただ、マダリの場合は……。
「ん、何だ?」
顔の前に一本の糸。
蜘蛛がゆっくりと降りてきた。
最近になって大量発生した毒虫である。ここへ来る数日前の道中でも、面前に悠々と降りてきた個体がいた。
もしかして、同じ蜘蛛か。
くすりと小さく笑いをこぼして、タガネは一歩身を退く。
すると、蜘蛛が糸を伝って上昇した。
ゆっくり上に戻るそれを視線で辿る。
蜘蛛を追った末に、タガネは視界に真上の光景を収めて。
心底愕然とした。
「う、そだろ……!?」
頭上で豊かな青葉を繁らせる梢。
重たくしなるそこに糸が張られていた。
ただ、網の目を作る蜘蛛の巣ではない。
糸で文字が描かれていた。
一文字ずつ。
「……マリア」
大きく、剣姫の名の形。
不格好だが文字だと判別できる形の明確さ。偶然による産物ではない。
そのかたわらに、あの蜘蛛がいる。
タガネは手を差し出す。
てのひらに、蜘蛛が降りてきた。
噛み付かず、刺さず、ただじっと掌中でタガネを凝然と見上げている。
この蜘蛛は、もしや。
そのとき、木々を騒がせる夥しい気配。
風ではない、枝を揺らして動く毒虫たちの足音がする。
タガネは後ろに振り返った。
糸で描かれたマリアの名、妙に大人しい掌の蜘蛛、大量発生……。
一つずつ、ピースが頭の中で組み立てられる。
不完全ではあるが。
おぼろに一つの解答の輪郭ができあがった。
信じがたいが。
妙に納得してしまう。
タガネは騒ぐ心臓を押さえて思考を巡らせる。
これは。
「いや、でも、まさか……」
「一人で何を呟いとるんじゃ?」
「げっ」
考えを突き詰めようとして。
爆睡していたベルソートが現れた。
寝ぼけ眼をこすり、杖にすがって歩く。今にもくずおれてしまいそうなほど覚束ない足取りだった。
この大魔法使い。
いつも神出鬼没で、その瞬間は魔が差したかのような場面ばかりだ。
今回も、重要な事実に手を伸ばしかけていたのに、それを阻止するような時に起きて来た。
もう悪意があるとしか思えない。
タガネは頭を抱える。
「ベル爺よ」
「む?」
「おまえさん、人の邪魔しかしないのかい?」
「……何かすまんの」
ベルソートが小首を傾げながら謝罪する。
タガネは肩を落として。
とりあえず蜘蛛を肩の上に乗せた。
それを見て、ベルソートの目が見開かれる。
「む、その蜘蛛」
「やっぱりか?」
「うむ、そうじゃな」
タガネは肩上の蜘蛛を斜視する。
概ね読みは当たりか。
「ヌシは寝ないのかのぅ?」
「まあ、考え事が一段落したからな」
「ほほ、若者の長所は悩むところじゃ」
「おまえさんは悩みなんざ無さそうだしね」
タガネは小さくあくびする。
少し眠気がしてきた。
これならば、ゆっくり眠れるかもしれない。
小屋に向かって歩み出す。
その途中、対岸の山を見上げた。
「待ってろよ」
――ごぉおおん。
応えるように。
夜空に鐘の音が鳴り響いた。




