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また雨が降り出した。
リンフィアが頭巾を深く被る。
山道を外れ、麓の渓流の脇に広がる河原を進んだ。
屋根のように張り出した枝が、雨水を乗せて重たくしなり、タガネ一行の姿を覆い隠している。
休憩を済ませてから。
リクルが頻りに入れる注進に折れて、鉱山を避けて国境から少しずつ離れるように進行することになった。
あれから刺客との会敵も無い。
これでは、戦闘の勘を取り戻す仕事にならない。
そんな屈託を抱えてタガネは進む。
その背後で。
「あっ」
「危ない」
リンフィアが石につまずいた。
隣に付き添うリクルが転ばないように抱き留める。礼を言ったリンフィアと彼は、互いの体温に頬を染めてはにかむ。
この進路を取ってから、これが何度もあった。
そして、その都度甘い空気を展開する。
――この険難な事態に。
タガネとしては真面目に護衛に務める身としては、もう少し敵の影に気を配って欲しかった。
護衛としての腕を見込まれたのは喜ばしくも、それに胡座を掻いて安穏と過ごして流れ矢のごとき万が一の危殆に命を落とされても業腹である。
最後尾を歩く眼鏡の男も、そんな様子だった。
タガネが彼に振り返る。
「そういえば」
「何だ」
「あんたの名前は?」
眼鏡の男が呆れるように顔を顰める。
まるで小馬鹿にしているようで。
タガネは苛立ちながら返答を待つ。
「シュバルツだ」
「そうかい。後ろは頼むぞ」
「無論だ」
眼鏡の男シュバルツが応える。
唯一この緊張感を共有しているとあって、シュバルツへの認識を改めた。包囲にも気づけないほど素人ではあるが、存外間抜けではない。
河原の中を倦まず弛まず進んでいく。
ふと。
リンフィアが足を止めた。
訝って三人が彼女を見る。
「どうした」
「何か、聞こえません?」
「……何を」
「これは、遠吠え?」
リンフィアが頭巾を取った。
そのまま、頭の上の耳に手を添えて耳を澄ます。川の音で、ほとんどの音が掻き消されている。
こちらの足音が消せるからと選んだが、同時にあちらの音も聞き取り難い。
しかし、深く流れの急な川に遮られて対岸から攻められないし、撓った梢に隠れているので弓の射撃にも狙われないのである。
だから、来るとすれば山の上からか。
はたまた、前後からしか無い。
その方向ならば、如何なる角度でも対応できる。
ところが。
刺客を予想していたタガネは、「遠吠え」と聞いて憮然とする。
「野犬か」
「いえ、何というか」
リンフィアが対岸を見た。
タガネも従って、そちらを確かめる。
梢の隙間から窺えるのは、対岸に聳える切り立った崖だった。先端には、幹の湾曲した木が佇んでいる。
不意に。
『――――――!』
耳をつんざく高い音がした。
タガネは剣の柄に手をかけて身構える。
リンフィアが目を見開いた。
「違う、野犬じゃありません」
「ああ、判る」
そのとき、崖上の木が揺れた。
地面が、揺れている。
犀の足音のような地響きが遠くから近づいて来た。もう耳を澄まさずとも、川の音すら淘汰する勢いで聞こえる。
そして。
崖の上から巨大な影が躍り出た。
ためらわずに、河へと飛び降りる。
影の足が河床を叩いて着地した衝撃が、地面のみならず空気にまで伝播した。
その音か殷々と麓で雷鳴のごとく轟く。
飛び散った水が、雨のように辺りへと降り注いで河原の石を打った。
タガネは三人を背に庇って立つ。
魔剣を引き抜いて、河へと近づいた。
「帝国、の刺客か」
河に降り立った巨大な影が身を起こす。
背丈は、タガネより二つ回りもあった。
上げられた面は、鋭い牙と前面に尖った鼻面の形状が特徴的で、顔から体まで体毛で覆われている。
それは。
人間ではない。
「亜人種の刺客か」
『ガァァァアアアッ!!』
刺客の巨体が震える。
熊の亜人種だった。
片手には丸太も同然の太さをした、凶悪な棍棒を携えている。腰に布を巻き付けただけの一張羅で、鎧などは見えない。
熊の亜人が河原を目指して歩く。
タガネは目を凝らして観察した。相手の目に、光がなく焦点が合っていない。
背後ではリンフィアが息を呑んでいる。
思わず舌打ちをした。
「亜人種の奴隷だ」
「えっ」
「帝国が薬で催眠をかけたんだろう」
タガネは剣をひと振りして。
自らも前に出た。
「リンフィア」
「は、はい」
「あんたの同胞とはいえ敵だ」
熊の亜人が陸地に着いて足を止める。タガネも立ち止まった。
互いに、およそ数歩分の距離で睨み合う。
熊の亜人は棍棒を後ろに引き絞る。狙いをタガネ一点に定めている。
対して。
タガネもまた剣を腰元で水平にして。
「悪いが斬り伏せていく」
殺意を手に地面を蹴って飛び出した。




