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タガネは階段を上がりきって。
その場で膝を突いた。
「……まずい、な」
床に伏せた状態で苦笑する。
着衣の脇腹から血が滲んでいた。押さえた手に生温かく湿った感触を得る。
激痛で膝に力が入らなかった。
激昂による集中力で麻痺していたが、これは先刻の戦闘で受けた深傷である。鍬の猛撃を跳ね返した折、攻撃を弾きおおせず尖端がわずかに腹部を切り裂いた。
ヒバチすら気に留めなかった小さな手応え。
ただタガネにとっては深刻だった。
床にまで血が広がる。
「くそ、止血を……」
指先にも力が入らない。
倦怠感による脱力で、止血処理すら適わない。
いつもならレインの力で治癒可能である。用心のために剣鬼隊に預けたのが裏目に出た。
痛憤の忘我。
自身を強化した感情もまた仇となった。無ければ敗けていたかもしれない、勝てたとしても長丁場となっていただろう。
だが。
いつもなら負わなかった手傷である。
これでは先に進めない。
「ああ、これ………」
――死ぬな。
冷たくなっていく体温に死を悟る。
体の内側に響く心音が遠くなり、視界もまた朧げになっていた。
途切れそうな意識の中で。
砦前の荒野で話したマリアの顔が浮かんだ。
昨日まで戦場だった場所で。
剣姫マリアは可笑しそうに腹を抱える。
『食べた肉で窮地に陥るって!』
『笑い事じゃないんだが』
『それ食中りみたいなものじゃない』
『鬼仔の能力なんだよ』
タガネが命を削った修羅場。
険難な話題に面白さを見出して笑われた。
心外だと顔をしかめる半面、愉快そうに話を聞くマリアの顔を盗み見る。
紺碧の髪で隠れた首もと。
白い肌だからこそ火傷の痕が目立つ。
ふと、タガネの視線を気取ってマリアはさっと首を手で隠す。気まずさに瞳は右往左往し、唇は微かに震えていた。
ケティルノースとの戦傷か。
それを尋ねられはしなかったが、タガネもまた顔を背ける。
『これ、気になった?』
『……すまん』
『なんで謝るのよ』
タガネはちらとマリアの顔を覗く。
彼女は遺憾だと表情で訴えていた。
『体の傷は、女にとって深刻だろ』
『………』
『何だい?』
マリアが驚嘆していた。
『アンタにそんな常識あったのね』
『張り倒すぞ』
タガネは思わず睨んだ。
マリアはこれまで、あらゆる戦争に参陣しても傷つくことはなかった。防御に徹底した剣術体系の影響もあるが、これまで並みいる強敵と見えながらも無傷で勝利を獲得している。
だからこその剣姫。
王国では戦場の華として語られていた。
だから、陶器のような白い肌もあって、その傷は異様に際立って映る。
本人にとっても筆舌に尽くしがたい悔恨があるだろう。
それなのに。
『んー……私は騎士だし、誰かの代わりに傷つくのが仕事。そう弁えてるから負傷なんて覚悟の上よ』
『…………そう、かね』
マリアは朗らかに笑む。
眩しい物を見たようで、タガネはまた目を逸らす。
傲慢だが高潔。
守る国を失っても騎士で在ろうとする心。
剣姫の名に恥じない少女だった。
『でも』
『うん?』
『何だか、アンタに見られるのは嫌だったわ』
『……尚更、すまん?』
『ま、いいわ』
マリアは膝を叩いて。
ぐっと体を寄せてタガネの顔を覗く。
『ねえ、知ってる?』
『何を』
『世界では、アンタか私のどちらがケティルノースを討ち取るか、その話題になってるわ』
『……脅威の大きさを侮ってるな。戦う前から勝つ前提で話すたぁ能天気な奴らだ』
呆れを含むため息をついた。
世間がそう囃し立てるのは、ヴリトラでの戦功が大きく影響している。タガネにとっては傷心の記憶であるので、若干だが無遠慮だと糾したい一念があった。
それに。
実力があるのはいえ、ただの傭兵。
期待を受けるべきなのはマリアである。
そう考えると。
マリアがいるから対抗馬として自身の名が大々的に取り上げられているとも捉えられるので、隣で陽気に笑う少女が憎たらしく思えた。
真面目に相手をするのも嫌に感じる。
『それでね』
『おう』
『討伐で大きな活躍をした方に、領土関係なく世界に通用する新しい爵位が与えられるそうよ』
『ほー』
『その当主は、こう呼ばれるの』
『んー』
『……ちょっと、聞いてる?』
『おー』
『……………』
マリアの瞳が険しくなる。
上の空で応えていたタガネの頬を、強烈な平手が打ち払う。その威力に、地面の上をを転がった。
振り抜きた腕を引き戻し。
マリアは頬を膨らませて背を向ける。
『やっぱり、アンタって嫌なヤツね!』
『どうもお世話様』
『もう良いわ。アンタは参加しないて言うし』
マリアがふたたび振り向く。
そして、起き上がったタガネに向けて指を突きつけた。
『地位も名誉も、私が貰うわ!』
『……好きにしてくれな』
『見てなさい。私こそが――『剣聖』よ!』
『……剣聖』
タガネはその言葉に目を見開く。
一つの武器を極め、単騎で軍に匹敵する力を有すると、その武器に由来した異名がつけられる。
主な例として。
帝国の『拳聖』、『槍王』、『弓帝』。他にも様々な物があるが、剣に由来するのは大陸でも『剣鬼』と『剣姫』のみ。
マリアは昂然と胸を張る。
『いずれ私は名実ともにアンタを超える』
『………』
『覚悟してなさい!』
そう言い切って。
マリアは背を向けて不機嫌に立ち去った。
命の瀬戸際に。
その後ろ姿を想起して微笑む。
「……すまんな、マリア」
マリアの口癖だった。
決闘で打ち負かすまで死ぬな――死線を超える前に、気遣いとも自分勝手とも捉えられる言葉をよく口にする。
多くの事件を経て。
最近はようやく親しくなった……気もする。
そんな彼女に、面目が立たない。
ここで倒れたら、『剣聖』の称号を憂いなく賜る心構えにならず、破天荒なマリアならば跳ね除ける可能性だって考えられた。
タガネは力を振り絞って。
立ち上がろうと床に手をついた。
「死んで誰かの枷なんぞに……なるかよッ!」
奮起して立ち上がるも。
途端に腹部から血が噴き出した。
今度こそ視界が暗くなる。また床に突っ伏した。
「アイツの、剣を曇らせて……たまるか……」
剣を誇りに思う騎士。
絶対的脅威を前にしても、人民を護るために戦った少女は、今はもうただ嫌いな相手ではない。タガネにとって尊敬に価する人間となっていた。
なればこそ。
何の憂いもなく剣聖となる花道を歩む彼女の重荷になるわけにはいかない。
剣を突き立てて立ち上がる。
「くそ……死ねない……!」
仄暗くなる景色。
そこで母の言葉が響いていた。
『誰かを幸せにするまでは、死んじゃダメよ』
その言葉を守る為にも死ねない。
しかし、無情にも意識は闇に沈んでいく。
脱力する体と格闘を繰り広げるも。
「……無理、か……」
タガネは気を失って倒れた。
床に血の池が広がる。
そこへ、通路の奥から来た二人の兵士が歩み寄る。南軍の正規兵隊の武装をした彼らは、タガネのそばに屈み込んだ。
一人が傷口に手をかざす。
その掌中から淡い光があふれた。
「止血完了」
「標的を確保したな」
タガネを担いで。
二人は顔を見合わせて笑う。
「それでは、中央に帰るとするか」




