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南軍の古城の一室で。
頬を張る乾いた音が鳴り響いた。
ナハトが卓上に転倒する。机に並べられた料理たちを盛大に薙ぎ払いながら、その場に倒れ付す。
赤く腫れた頬を手で押さえた。
それを冷然と赤い詰襟服の男が見下ろす。
ナハトを強か打擲した手を引き戻し、手拭で掌の血をぬぐって微笑む。
ゆっくりと卓上のナハトの足を掴んだ。
自身へと引き寄せ、今度は逆側の頬に強烈な平手を見舞う。破裂に似た音とともにナハトの顔が横へ弾けた。
男の頬に高揚の赤みが兆す。
それから左右の頬を交互に張る。
ナハトは避けず、防がずに受け止めた。その激しい暴行に、長髪の鬘が取れる。
どれほど経ったか。
いつしか男は手を止めていた。
興奮に息巻いて、赤くなったてのひらを広げてナハトの侍女服の襟元をつかむ。握力を込めて、釦も取らず強引に引き裂いた。
服の裂けた部分から白い肌が覗く。
露わになった鎖骨を舌で舐め上げた。
ナハトは不快感に顔を歪める。
「っ…………!」
「ようやく帰ったのに、つれないなぁ」
「申し訳……」
「お前は私の物だ。忘れるな」
「…………はい」
「お前の人形のような部分を気に入っているんだからねぇ」
ナハトのおとがいを指でなぞる。
肌の上を愛撫する男に身動ぎした。
以前ならば心を殺して堪えられた行為だったのに、今では全身の毛が逆立つような拒否感が湧き上がる。
どうして…………。
ナハトの脳裏に人の顔が浮かぶ。
変わった人柄の剣鬼、怖い物知らずか彼に馴れ馴れしい大男、戦とは無縁そうな臆病者、彼らを筆頭に立つ傭兵たち。
なぜか。
今のナハトには何よりも鮮やかに思えた。いつの間にか、任務の都合上で関わっていただけの面子が、心の深部にまで踏み込むほどに繋がっている。
もう、ただの標的とは形容できなくなっていた。
彼らに想いを馳せていると。
男の唇によって、口が塞がれた。
「…………!」
「ぷはっ。ふふふひぃ」
男は満悦の相で唇を舐めた。
ナハトは反射的に睨め上げる。
「何だ、その顔はぁ?」
「あ………」
「生意気になったなぁ」
髪をつかんで。
ナハトの顔を持ち上げる。
「私に逆らえば、お前の家も、シスターも……わかるな?」
「……………はい」
「ふふ、流石は私の見込んだ優秀な道具だぁ」
髪から手を離す。
男は満足感に浸りながら椅子に座る。
ナハトからの情報で、剣鬼隊が第一要塞への侵入を画策していることを知り、即座に罠を設置させた。魔剣を所有するタガネだけが回避し、他を排除できる。
その先にも。
剣鬼を捕らえる為の罠を幾重も備えてある。
盤石の態勢だった。
これで、ようやく。
「あの美しい宝が手に入るのさぁ」
「…………」
「傭兵なんて勿体ない、すぐに私の愛玩物にしてくれるぅ」
迸る狂気に目を爛々と光らせ。
男は思い描いた理想と、その実現への確信に酔いしれて哄笑した。
その背後で。
ナハトは皿の破片の一つを手にする。
破損したそれは、鋭利な凶器になっていた。
尖端を男の背にかざす。
今ならば、声も上げさせずに息の根を止められる。この男の道具として高めた暗殺の技術なら、たやすく葬れる。
なのに。
手の震えが止まらなかった。
自身を優しく育ててくれた恩人の顔が思い浮かんで、その凶行を止めさせる。
そっと、破片を卓上に戻す。
腫れた頬の疼痛に堪え、口内にあふれる血を飲みながら、部屋の掃除を始めた。
男は一顧だにせず。
悦楽と歓喜に浸って部屋を辞した。
扉が閉まる音。
ナハトの皿の破片を拾う手が止まる。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
謝っても届かない。
虚しいと判りながら、ひたすら口にする。
シスターに、剣鬼とその仲間に謝罪した。
「ごめん、なさい……!」
その目に、涙を浮かべて。




