第43話 罪の記憶 (Side:シャロン)
思い返せば、昔から、大概の危険を経験してきた。
小さなものから大きなものまで、様々だったが、記憶の中で一番古く未だに忘れることが出来ないのは、五歳の頃――独りカントリーハウスに置いて行かれるのは怖くて寂しいと我儘を言って、冬の王都に連れて行ってもらったときのことだ。
雇われたのは、アベルと名乗る護衛の男。
中年の大柄な傭兵だった。元は黒魔法騎士として王都で活躍していた優秀な人物だったが、最近騎士団を辞めて故郷のフロスト領に戻ってきたらしい。
「二人目の娘が生まれてから、どうにも妻や子供たちとすれ違いが多くて――いや、お恥ずかしい話、国を守る前に家族の絆を守らねばと」
面接に来たときにそう恥ずかしそうに打ち明けていたと、兄から聞いた。
元魔法騎士で腕前は信頼が出来る。王都暮らしも長かったため、土地勘もある。騎士団時代には貴族と関わることもあったのか、最低限の礼儀も問題ない。さらに二人目の娘というのは、私と同じくらいの歳らしく、私に変な気を起こす心配もなさそうだと判断され、領地から王都への移動中もずっと、護衛の任についてくれた。
幼い私にとって、最近発明されたばかりという汽車に乗るのは最初こそ心躍ったものの、すぐに飽きてしまった。長い旅路でつまらなそうな顔をしているのを見ると、アベルはすぐに気づいて話しかけてくれた。
「お嬢様を見ていると、下の娘を思い出します。エマというんですよ」
そう言って家族の肖像を見せてくれた。家族の話をするときのアベルの目尻は溶けてしまいそうなほどに緩んでいて、本当に大切に想っていることはよくわかった。
肖像の中で仲睦まじそうに肩を寄せ合う四人は、かつてすれ違いがあったなんて思えないほどに幸せそうな顔をしていた。アベルは王都での出世を蹴ってこの道を選んだことを、微塵も後悔などしていないのだろう。
王都に着いて、人の多さに驚いた。
汽車の中で穏やかだったアベルは嘘のようにピリピリした空気を発して、私をタウンハウスまで護衛してくれた。
馬車の窓から見える王都の街並みは、どこもかしこも目新しいものばかりだった。
「私……あそこに明かりが灯っているところを見たいわ」
「街灯、ですか。確かに、あれはフロスト領では見ませんね」
「えぇ。夜はあの中に灯りが点るのでしょう? 本で読んだことがあるわ。きっと、言葉に出来ないほど美しいと思うの」
その日の私は、目を輝かせて、子供っぽいおねだりをした。きっと、初めて危険らしい危険を感じることなく外出が出来て、浮かれていたのだと思う。
アベルは少し困った顔をした。
「ですが、王都の夜は危険が増えます。今日も駅に着いたときから、不審な視線をいくつか感じました。もちろん、お嬢様に、夜の街並の美しさを見せて差し上げたい気持ちはあるのですが――」
「駄目なの? どうして? アベルが守ってくれれば良いのではなくて?」
思えば、なんて傲慢で、愚かな要求をしたのだろう。今更悔やんでも仕方ないが、当時の私は、それを口にすることに何の躊躇いもなかった。
アベルはなおも少し渋ったが、やがて両親に許可を取りに行ってくれた。娘に甘い家族は、タウンハウスからすぐの通りに並ぶ街灯をわずかな時間眺めるだけなら、と許可を出してくれた。
叫べばすぐに屋敷の中からも人が駆けつける距離で、門番からも見える位置だ。私は昼間の安全な外出に高を括っていた。
それよりも、昼間見た芸術的な造形の街灯が、夜の闇の中にぼうっと仄かな灯りを灯す幻想的な風景を想像して、浮かれるばかりだった。
とっぷりと日が暮れた後、私はアベルと屋敷の門を開けた。挨拶をする門番への返事もそこそこに、私は寒さに白い息を吐きながらはしゃいでいた。
「お嬢様。失礼ですが、お手を取っていただけますか?」
「まぁ。私、もう子供じゃなくてよ」
そんな発言をするくらいには、幼い子供だった。
生意気な貴族令嬢の発言にも、アベルは嫌な顔一つせず、優しい眼差しでもう一度手を差しだす。同年代の娘がいるから、子供の扱いには慣れていたのかもしれない。
「高貴な美しい令嬢をエスコートする栄誉を、この騎士めにいただきたいのです」
「まぁ……ふふ。そういうことなら、仕方ないわね」
大人のように扱ってもらえたことがうれしくて、まだ本格的な貴族としての教養を習っていないながらも、母が父にしているのを思い出しながら見様見真似で手を差しだす。
アベルは、幼子の歩調に合わせてゆっくりと歩き出した。少し先の曲がり角から通りを覗き込めば、街灯が見える――はずだった。
あと少しで目的の曲がり角――というところで、いきなりドンッと身体を乱暴に突き飛ばされる。
「ぇ――」
突き飛ばしたのは、間違いない。――アベルだった。
無様に尻もちをついて、何が起きたかわからないまま、茫然と信頼していた護衛を見上げ――
「ひっ――!」
視界いっぱいに、真っ赤な雨が降りそそいだ。
生ぬるい。
鉄臭い。
吐き気を催す紅い液体が、べったりと頬に、髪に、全身に纏わりついていく。
私を突き飛ばしたアベルは、いつの間にか腰の剣を引き抜いていて、その大きな背中で私を庇うように仁王立ちになったまま――襲い掛かった誰かと、相打ちになっていた。
「ぐ――ガッ――!」
アベルが苦悶の声を漏らすのと、すぐ後ろにいた門番が呼び笛を吹きながら走ってくるのは同時だった。
「くそッ――しくじったか――!」
襲撃者は一撃で私だけを狙うつもりだったのだろう。しかしアベルの身を挺した防御で作戦は未遂に終わり、自分も負傷したとあれば、それ以上現場に残るわけにはいかない。
アベルの身体から短剣を引き抜き、即座に撤退していった。
どしゃっ……と逞しく大柄な元騎士の身体が血だまりの中に崩れ落ちる。
「あ、アベ――アベル――!」
腰が抜けて、ざぁっと血の気が引く。
ついさっきまで優しく緩んでいた瞳から、急速に光が失われていく。
血だまりの中、藻掻くように最期の力を振り絞って、もう焦点の合わない瞳で――アベルが私へと手を伸ばす。
「――エ、マ――……」
「――っ!」
男が最期に残した掠れた声は、私を見ては思い出すと言っていた、末娘の名前だった。
「お嬢様!」「無事ですか!」「おい! すぐに追跡隊を! 敵は負傷している!」「血の跡を追え!」
一瞬でたくさんの人間が駆けつけ、私を保護してくれる。
幼い子供に見せるべきではないと判断したのか、腰が抜けている私はすぐに抱え上げられ、その場から離された。
「ぁ……ぁああ……」
屋敷へ向かうまでの間、アベルと過ごしたわずかな時間が脳裏に過る。
穏やかで優しかった護衛の、完全に光が消えた瞳と、掠れた最期の言葉が、呪いのように纏わりついて離れない。
「シャロン!」「無事だったか!」
騒ぎを聞きつけた家族が、焦った顔で私を出迎え、安堵の表情を見せた。
その時初めて私は――己の傲慢と償えない罪を、思い知った。
「ぁあああああああああああああああああっ!!!!」
きっと――きっと、フロスト領には、こうしてアベルを迎えるために待っている家族がいる。
私を守るために雇われる護衛にも、家族がいる。守るべき生活がある。
――私のせいだ。
私が、街灯を見たいだなんて、つまらない我儘を言ったから。アベルは最初、反対していたのに。
私の身勝手が、一人の罪もない人間の命を、散らせてしまった。
私の愚かさが、幸せな家族の日常を粉々にして――私は、私と同じ歳の小さな少女から永遠に、唯一無二の父親を奪ったのだ――




