第41話 襲撃 (Side:カルロ)
教会は、森を抜けた先、半日ほど走った先にあるらしい。
馬車の中に乗り込んだのは、俺と、シャロンと、レイアの三人。王都じゃ辻馬車くらいにしか乗らない俺は、最初こそ用意された馬車の豪華さに驚いたものだったが、森に入るころには、貴族御用達の馬車とはいえ悪路を走れば揺れるものなんだな、と暢気に考えていた。
その日は温暖なフロスト領でも珍しく雪がちらつく日で、鬱蒼とした冬の森は寒さもひとしおだ。
しかし、目の前のシャロンが蒼い顔をしているのは、寒さで血色が悪いわけではないようだった。
「まぁ、そう緊張しなくても大丈夫だ。玄関横づけで送迎がついてるんだぞ。到着した後はずっと傍に俺がついてる。お前に手を出せる奴なんていないさ」
「は……はい……」
わざとあっけらかんと言ってやるが、シャロンはぎゅっと胸の前で手を握り締めて、不安そうに頷くだけだった。
シャロンと婚約をしてから、彼女の不幸体質には慣れていた。
少しでも屋敷の外に出ると、この可憐な美しさに惑わされた不埒な男が、どこからともなく現れて危害を加えようとしてくる。何度、実力行使で黙らせたかわからない。
とはいえ、そんな輩など少し魔法で脅せばあっさりと身を引くものだ。腕が立つといってもせいぜいが街のごろつき程度で、より強く信頼のおける護衛を求めて取っ替え引っ替えして悩んでいたなんて、信じられない。
当時の俺は、正直なところ、アルヴィンもシャロンも大袈裟だと思っていた。
そんな慢心もあり、俺が一人いたら十分だろうと、その日は他に護衛を一切雇わなかった。
シャロンは、そんな薄い警備で外に出ることは初めてらしく、ずっと蒼い顔で心配そうにしている。
「お嬢様。そう俯いてばかりでは、馬車に酔ってしまいます。久しぶりの外出なのです。外を見てはいかがですか?」
レイアが、気分転換を促すと、シャロンはやっと顔を上げて窓の外を見た。
冬にも落葉しない針葉樹が広がる森は、人気もなく静かなものだった。
「帰りにはドロテア湖に寄っても良いかもしれませんね。ここから少し行ったところにあるのですよ」
「まぁ……!」
レイアの言葉に、シャロンは少し顔を輝かせた。
「ドロテア湖?」
「はい。フロスト領内で一番大きな湖です。当家で初めての女当主が心から愛した湖と言われていて、彼女の名前が冠されているのです」
シャロンの説明に、ふぅんと相槌を打つ。
「お嬢様は昔から、屋敷にあるドロテア湖の絵画をよく眺めていらっしゃるので……機会があればお嬢様をぜひお連れしたいと思っていたのです」
それは、幼少期から供にいるレイアの心遣いだったのだろう。
シャロンは一瞬、嬉しそうに瞳を輝かせ――その光は、すぐに掻き消えた。
「お嬢様……?」
「いえ……いけないわ。帰りも、まっすぐ帰りましょう」
そのまま、窓の外から視線を外し、目を伏せる。
「今は家族も皆不在にしていますし……護衛もカルロ様しかいません。もしも何かあったら――御者もレイアも巻き込んでしまいます。寄り道などせず、無事に屋敷まで早く帰りましょう」
俺はシャロンの思考回路が理解できずに呆れ返る。
過去の経験上、もしも誰かが何かを仕掛けてくるとしたら、金目当てのごろつきか、シャロンの美しさに惑わされた不届き者か――いずれにせよ、俺の敵ではない。
そもそも走行中の馬車に、何が出来るのか。湖に着いてからは警戒が必要かもしれないが、目の届く範囲にさえいれば、攻撃も防御も出来る。御者もレイアも、まとめて俺が守ればいい。
そう反論しようと口を開きかけた、その時だった。
――甲高い馬の嘶きと共に、馬車が大きく波打ち揺れた。
「なっ――!?」
轟音と、甲高い馬の嘶き。腹の底に響いた衝撃とともに、馬車の上下左右が滅茶苦茶になる。
何が起きたかわからないまま、座席から放り出される瞬間、咄嗟に腕を伸ばした。
「シャロン!」
「!」
叫んで小柄な体を引き寄せ、守るべき対象を胸の中に深く抱え込む。
閃光と轟音が立て続けに襲い掛かる狭い車内で、毬のように跳ねる身体。魔法を冷静に展開できる状況ではなく、ただシャロンが怪我をしないように身体で庇う以外の選択肢がなかった。
最後に後頭部を強烈にどこかにぶつけた音がして、目の前が赤く染まり、俺の意識は途絶えた――
◆◆◆
ぼんやりと靄がかかった意識を覚醒させたのは、額に降りかかったひんやりとした何かだった。
酷く重たい瞼を押し上げると、最初に映ったのは切り取られた灰色の空。馬車は横転し、扉が空に向かって開け放たれているようだ。額に触れたのは、チラチラと舞い落ちる雪だった。
再び暗転しようとする意識を何とかつなぎ止め、ゆっくりと身を起こす。身体のあちこちが打撲で痛みを発した。
意識が途切れる前、何が起きたのか――脳が覚醒するよりも先に、目の前に飛び込んできた光景に冷や水をぶっかけられた。
「レイア……!」
「ぅ……」
馬車の壁だった床にぐったりと倒れている少女は、周囲に血の海を広げていた。
咄嗟に頭を抱えて傷を確かめるが、幸いめぼしい傷跡は見当たらない。
ホッとしたのもつかの間、視界がくらりと揺れる。
「一体何が――」
額に手を当てると、ぬるり、と嫌な感触があった。
背筋が寒くなるのを感じながら掌をゆっくりと見下ろす。予想通り、べっとりと真っ赤な液体が付着していた。
驚きに息を詰め、慌てて頭部をまさぐるが、レイアと同様、傷は見当たらない。
混乱を極める脳裏に、冷静な自分が囁く。
足元に広がる血の海も、俺の額を濡らした血液も、まだ乾いていない。流血事件が起きてからまださほど時間が経っていないということだ。
それなのに、馬車の中で倒れていた俺にもレイアにも、傷がない。
ということは、傷を負った後に治癒をされたか――傷を負った者だけ、ここから連れ去られたのか。
「っ――シャロン!」
そこで初めて、思考が繋がる。ここに居るべき人間が、いない。
焦って狭い車内で立ち上がる。くらりと眩暈がしてふらつくが、気合で踏ん張った。
血で濡れた頭を押さえて記憶を辿る。
「何が、起きて――馬車が横転――閃光、轟音――黒、魔法――!?」
キッと開け放たれた頭上の扉を睨み、脱出を試みる。
身体を乗り出し、外を窺うと、雪が舞う森の中――少し遠くに、黒ずくめの男たちに囲まれ拘束されているシャロンが見えた。
「っ、シャロ――」
「約束です。私以外の者には手を出さないでください」
叫ぼうとした声は、静寂の森に凛と響いた言葉に押しとどめられた。
馬車の中で、蒼い顔をして震えていた少女と同一人物とは思えない。
しっかりと両の脚を踏ん張り、武装した男たちを相手に、一歩も怯まず堂々と声を上げる。
「貴方たちの狙いは私一人でしょう。御者も、侍女も、護衛も、無駄に殺す必要はないはずです」
「それを決めるのは俺たちだ」
「そうでしょうか。ここから更に三名も殺害すれば、必ず痕跡が残る――フロスト家は、威信をかけて犯人を突き止めます。自分たちにつながる手がかりを残すことは、貴方たちの雇い主の本意ではないのでは?」
ぐっと言葉に詰まったのを悟られたくないのだろう。男の一人が、脅すように刃を向けた。
しかし、シャロンは全く怯まない。
胸を張って、朗々と声を張り上げる。
「彼らは誰も、貴方たちの顔も姿も見ていません。馬車の中を見たでしょう。あれほどの出血――放っておいても、生存確率は僅かです。リスクを犯す必要はないはずです」
「確かにそうだ。だが、それならばなぜそこまで固執する?」
男の問答は、ほとんど聞いていなかった。
一刻の猶予もない。
シャロンは、腹をくくっている。拘束されている彼女に、身を守る術はないだろう。
シャロンのドレスに付着した血液は僅かだ。車中の血液は、ほとんどが俺が流したものだったのだろう。身体がだるく目の前がくらくらしているのは、貧血のせいだと察した。
馬車が横転して俺が気を失っている間に、意識があったシャロンは咄嗟に魔法で治癒を施したはずだ。黒ずくめの連中は、治癒が終わったタイミングで踏み込んできて、シャロンだけを攫った。
シャロンは、己のはったりを見抜かれないうちに、ことを終わらせようとしているのだ。
――冗談ではない。
「なぜ……ですか。命を身勝手に奪うことを生業としている貴方たちには、わからないでしょうね」
シャロンのどこか寂しそうな声を遠くで聞きながら、俺は馬車の中――広がった血だまりを踏みしめ、血のめぐりが悪い頭で計算し、魔力を放つ。
「私はもう、二度と――私のせいで散らさなくてよい命を散らす人を、見たくはないのです」
凝固。
圧縮。
形成。
魔力を放った瞬間、カッ――と車中から光が放たれ、血だまりが形状を変える。
バキバキバキバキ――と耳障りな音が響いた。
「な、なんだっ――!?」
やっとこちらの異変に気付いたようだが、もう遅い。
凝固し足場となった血の塊は、勢いよく俺の身体を真上に開け放たれた扉から外へと放り出していた。
「護衛――!?生きていたのか!」
宙に放り出された俺を見上げ、ザッと男たちが一斉に得物を手に取り構える。
シャロンの目の前にいた一人を残して、周囲の黒ずくめは散開し、俺を敵と見做して地を蹴った。
「カルロ様――!?」
驚いてこちらを振り返ったシャロンの背後で、残った男が刃を振り上げる。
目的はシャロンの誘拐ではなく、殺害だったのだろう。即座に目的だけでも達成せんとする思考はさすがプロだ。
今にも振り下ろされんとする白刃を睨めば、足りない血が沸騰するように頭に集まる。
「ふっざけんな!」
距離、角度、速度、温度――
叫ぶと同時に計算が完成する。
魔力を放つと、バキィ!と勢いよく破滅的な音を立てて、男の右腕が肩から刃の先まで氷の彫像へと姿を変えた。
「なにぃ!?」
驚愕する男は黒魔法に詳しくないのか。
今日は雪。――空気中に、今にも凍りそうな水分は唸るほどある。
「この護衛――魔法使いか!」「同時にかかれ!範囲魔法は威力が低い!」
波状攻撃を仕掛けようとしていた黒ずくめたちの間で言葉が交わされる。
こちらを魔法使いと見抜いた瞬間の言葉で、この男たちが黒魔法遣いの対処法も専門的に学んだ熟練の戦闘員だとわかった。馬車を襲撃したのが黒魔法と考えれば、襲撃者の中に攻撃に長けた黒魔法使いがいるのだろう。
そんな物騒な奴らが、か弱いシャロンの命を複数で狙ったという事実に、こめかみに血管が浮き出る。
「だっ――れが、”護衛”だ、クソッたれ!!!」
着地と同時に地を蹴って、俺は襲撃者全員を視界に収める。
視界に入れば、こちらのものだ。
黒魔法に必要なのは、状況把握。正確な情報があれば、あとは計算をするだけだ。
何せ今日は、氷の魔法が使い放題なのだから。
「俺は”婚約者”だ!二度と間違えんな!ボケが!」
怒りに任せて叫びながら、魔法を放つ。
カッ――と眩い光が放たれた瞬間、俺の視界に入っていた黒ずくめが全員、氷の彫像へと姿を変える。
黒魔法は、範囲が広がるほど計算が複雑になるせいで、一発が致命傷になる可能性が低くなるのは常識だ。
氷を使った範囲魔法は、複数の氷の矢や槍を放つ者が一般的だが、いずれも余程当たり所が悪くなければ致命傷を負うことはない。生み出した武器の一本一本の速度や角度を正確に計算し切ることが難しいからだ。
――あくまで、一般的な魔法使いの常識で考えるなら、だが。
本来であれば、単体攻撃――それも身体の一部位しか対象にできないと言われている上級魔法の完全氷結を、広範囲かつ身体全体を対象に構築できる魔法遣いなど、俺も、未だに俺以外には見たことがない。
いかに魔法使い対策を学んだ手練れの暗殺者と言えど、未然に防ぐのは難しかっただろう。
「シャロン!」
氷漬けになった男たちには目もくれずに走り出す。
先ほどは咄嗟に魔法を展開したから、シャロンの元にとどまった男の腕と武器を封じることしかできなかった。
本格的な訓練を受けた暗殺者なら、片腕しか使えなくても、目的を果たすために再びシャロンを害すことは十分に考えられた。
「カルロ様!」
案の定、俺の方を振り返ったシャロンの後ろで、血走った瞳で殺気を振り撒く男が見えた。
凍り付いた右腕は諦めたのか、男はシャロンの背後から、自由な左手を伸ばす――
「伏せろ!」
「!」
パリッ――
俺の叫び声に反応して、シャロンがすぐに身体を地面に投げ出すようにして伏せると同時、魔法を放つ。
魔法で周辺の水分を使い切って乾いた空気中には、電気を発生させやすい。
音よりも早く走った電撃が、男の左手を容赦なく吹き飛ばす。
「ぐあっ!」
俺は駆け出し、黒焦げになった左腕を抱えて苦しむ男から庇うように、拘束されて起き上がれないシャロンの前に躍り出る。
「ぐ……ぅっ……」
「てめぇ、どこの誰の差し金だ!?こんな洒落にならねぇ襲撃を――」
いつでも魔法を放てる体勢で構え、蹲る男に尋問しようとしたところで、異変に気付く。
ビクン、ビクン、と大きく痙攣したのは痛みのせいだと思っていたが、男が蹲ったまま倒れ込んだ地面に、じわりと血が滲み出していた。
「……」
「カルロ、様……?」
背に庇ったシャロンが、震える声で問いかけるのを聞きながら、俺はゆっくりと男に近づき、足で伏せった男を仰向けに転がした。
ごろり、と力無く転がった男は、口元から泡と血を噴き出して、既に瞳から光を失っていた。
「ひっ――」
「……自決、か。本物のプロじゃねぇか」
フロスト家の一人娘を狙った暗殺未遂だ。雇い主は、高確率でフロスト家を陥れたい貴族だろう。
勝ち目がないと悟った時点で、雇い主につながる痕跡は全て消す――たとえそれが自分自身の命だとしても。
腹の決まり方が、尋常ではない。まさに命を懸けて、任務を遂行しようとする連中だ。
俺は、アルヴィンに期待されたシャロンの安全を守るという役割を、初めて正しく理解した。




