第37話 社会勉強④ (Side:シャロン)
あれは確か、カルロと婚約をして二年ほどが過ぎたころ――冬になり、学園が長期休暇に入ったということで、お兄様とカルロがフロスト領に滞在していた時。
私は広間で、軽やかで優美な音楽に合わせ、足を踏み出す。
「きゃっ……」
「っ、悪い」
相手の脚に躓いてバランスを崩した身体を、がっしりと抱きしめられ、心臓が跳ねた。
「すまなかった。今のは俺が遅れたな。怪我はないか?」
「は、はい……」
至近距離から気遣う低い声に、走り出す心臓を宥めながら小さく頷く。予期せず飛び込んでしまった胸板は、思いの外固く分厚くて、カルロが男性であることを嫌でも印象付けた。
「あ~~~、くそっ。本当に、貴族のダンスってのはなんでこうもややこしいんだ」
ガシガシ、と後ろ頭を掻きながらカルロがぼやくのも無理はない。
貴族の家に生まれれば誰もがダンスを叩きこまれるが、平民のカルロには馴染みのない風習だろう。耳馴染みのない特殊な音階とリズム、作法でガチガチに定められたステップ。それもこの年齢になって基礎から始めるのは、難しさもひとしおに違いない。
「少し、休憩しましょうか」
「いや、だが――」
「申し訳ありません。私が少し疲れてしまったのです。……ね?」
練習を続けようとするカルロを見上げ、微笑みを浮かべてねだる。誰かに甘えることが苦手な私がしたところで、ぎこちなさはぬぐえなかっただろうが、カルロはぐっと言葉に詰まり、受け入れてくれた。
そっと手を引いて椅子にエスコートしてくれる仕草は、初めて出逢った頃と比べれば、だいぶ様になっている。この二年、馴染みのない貴族社会の風習を必死になって覚えてくれたのだろう。
きっと、私と縁談を結ばなければ、しなくてよかった努力のはずだ。どうしても申し訳なさが先に立ってしまう。
「どうか、無理をしないでください。社交デビューの最初の一曲だけを踊れればいいのですから――」
「そういうわけにもいかないだろ」
私を座らせながら、カルロは唇を尖らせぼやく。彼の気持ちはありがたいが、その答えには、私も困ってしまった。
カルロは、まぎれもなくこの国で一番の魔法使いのはずだ。
本来、彼の頭脳も運動能力も、魔法の研究や鍛錬に注がれるべきなのに、こんな些事に費やさせてしまっていることが申し訳ない。
「夜会じゃ、何曲も踊るのが普通なんだろ?」
「それは……そう、ですが」
「それに、女は家格が上の男から誘われたら断れないんじゃなかったか?」
「は、はい。でも複数の男性からダンスを申し込まれたときは、家格を度外視して女性側に選ぶ権利があります。ただ――誰かは絶対に選ばなければいけませんが」
「じゃあ、全部踊れるようにしとかないといけないだろ」
不機嫌そうに眉根を寄せるカルロに、オロオロとしながら正しい知識を授ける。
「だ、男性はこの限りではありません。ダンスは踊らず、男性同士でお仕事の話をしている方も多いです。カルロが夜会に現れたら、話をしたい貴族は多いはず……最初の一曲だけ踊ったら、私のことは気になさらず――」
「で?利権と欲に塗れたオッサン貴族に俺が囲まれてる間、これ幸いとお前の周りには、女に飢えた結婚適齢期の男どもが群がるわけだ」
「そ……そんな、ことは――」
「賭けてもいい。絶対にその場にいる未婚の男は皆お前の周りに集まる。ダンスなんか受けたら、公然と身体を触って至近距離で口説く口実を与えるようなもんだ」
「そ、そんな言い方――」
「お前は本当に、もう少し自分の危なっかしさを自覚してくれ。俺がオッサン貴族に囲まれてお前から目を離した隙にどっかに連れ去られたとしても、何もおかしくないと思ってるぞ」
「ぅ……」
さらに眉間に皺を寄せたカルロに、何も言えず俯く。
私だって、少しは自覚している。見知らぬ男性は、怖い。
ダンスの練習だってそうだ。昔から、相手役になる男性が変な勘違いをしてトラブルを招くことがよくあった。あまりに多いので、私の練習相手はいつのころからか、お兄様だけになった。
「家格が上の男から求められても、二人目が同時に求めれば、お前の意思で相手を選べるんだろ。じゃあ、断れない相手から誘われるたびに、俺かアルヴィンがお前を誘えばいい。お前は俺と家族以外と踊らなくていい」
「た、確かにそれなら私は安全ですが――でも、カルロにとっても、初めての社交の場なのに――」
「そもそも、俺がフロスト家と縁を結ぶと言い出した理由を忘れたか?貴族社会ってヤツがうっとうしくて堪らないからだ。夜会で声をかけてくる奴なんか、俺の魔道具の利権が欲しいとか、面倒な話を持ち掛けようとするだけだろ。煩わしい。無視するに限る」
嫌そうに吐き捨てる顔は、嘘を言っているようには見えない。本気で、心からそう思っているようだ。
ふと、思い出したようにカルロが顔を上げた。
「そういえば、だいぶ馴染んできたな」
「え……?」
「名前。……ずっと、呼びにくそうにしてただろう」
指摘されて、ドキンと胸が鳴る。
カルロに呼び捨てを強要されたのは、出逢って間もない頃だった。
貴族は、たとえ家族であっても男性を呼び捨てにしたりしない。母も、父のことは様付けで呼んでいる。
私も当たり前のように「カルロ様」と呼んでいたら、早々に「落ち着かない」と言われて呼び捨てにするように言われた。
酷く戸惑い、貴族の慣習を説明して納得してもらおうとしたが、カルロは絶対に頷かなかった。お兄様にも説得してもらったけれど、駄目だったようだ。
敬称を付けるたびに呼び直すよう言われて、困りながら最近やっと、なんとか慣れてきたところなのだ。
改めて指摘されるのは、少し恥ずかしい。
「す、すみませ――」
「なんで謝る。俺はそっちのほうがいいって言っただろう」
「で、でも……やっぱり、男性を呼び捨てにするなんて――」
「いいんだ。結婚したら、一生ずっと、毎日一緒にいるんだぞ。なんで他人行儀に呼ばれ続けなきゃならないんだ。敬語だっていらないって言ってるのに――」
「そ、それだけは譲れませんっ……!」
ぎゅうっと両手を胸の前で握り締めて懇願すると、呆れたような嘆息が返って来た。まずは、呼び名だけで許してくれるらしい。
ほっと安堵していると、カルロは話題を変えてくれた。
「そういえば、この前アルヴィンに聞いたんだが――お前、王都に行ったことないんだってな」
「ぁ……はい。王都は人が多くて、特別危ないから――と。社交シーズンも、いつも私はお留守番なのです」
少し笑って冗談めかす。寂しさが滲みそうになったのを、うまく誤魔化せただろうか。
社交シーズンは家族でタウンハウスに移り住むのが普通だが、私の場合は特殊だ。幼い頃に何度か試みたものの、命を狙われるような危険にも遭ったせいで、私自身、王都は怖い場所だと無意識に強く刷り込まれてしまっている。
「行ってみたいとは思わないのか?」
「え……」
「この前、領内の湖に行っただけで目を輝かせてただろう。王都は、もっと色々な場所がある。見てみたい場所はないのか?」
ドクン……と心臓が一つ、大きな音を立てた。
少し前にカルロに連れられて初めて見た広大な湖は、本当に素敵だった。
書物で読む何倍も――絵画で見る何倍も、美しくて、壮大で、感動に胸が打ち震えた。
また、あんな感動を――味わうことが出来るのだろうか。
私みたいな人間が、そんな我儘を、願っても良いのだろうか。
「人が多い分、危険が多いのは確かにそうだが、その指輪を着けて、俺が隣にいれば、大体の危険からは守れる。お前にとっちゃそのための婚約なんだし、俺にも周囲にも、気兼ねする必要はないだろ」
確かに、カルロは初めて出逢ったときに言った。今後はカルロを用心棒と思えばいい、と。
「わ、私……本当に、世間知らずなのです……!王都で貴方に、迷惑をかけてしまうかも……」
「なんだそりゃ。俺が王都に何年住んでると思ってる。街を歩くのに迷惑もクソもあるか。貴族御用達の店とかは流石に知らんが、アルヴィンを巻き込めばいいだろ。喜んでついてくるぞ、アイツは」
あっけらかんと、まるで大したことなどないように言ってのけるカルロの言葉に、心臓が走り出す。
「お前の大好きな『お兄様』が普段通ってる学び舎や、最近建て替わったばかりの国立劇場――時期さえ合わせれば、祭りにだって行ける。どこでも、行きたいところに行けばいい。お前が興味を持つかどうかは知らないが、庶民の暮らしが知りたいなら、いくらでも案内するぞ」
揶揄するように言われた言葉に、期待に胸が躍った。
この狭い世界から飛び出して、初めて知るキラキラした世界は、どれほど煌めくだろう。
「知りたい、です……!」
「本気か?庶民の、だぞ」
こくこく、と頷くと、カルロは意外そうに目を瞬いたあと、何かを考える。
「そうだな。……例えば、音楽なんかは、わかりやすく違うな。貴族の音楽は、夜会でダンスをしながら会話をするのが目的なんだろう?落ち着いたテンポで控えめな曲調が多い」
「カルロたちが嗜む音楽は違う……の、ですか?」
音楽は、書物では知ることが出来ない知識だ。恐る恐る聞くと、カルロは軽く笑った。
「庶民の音楽はもっと気楽な娯楽だ。祭りや酒場で奏でられる音楽に合わせて、歌って踊る。陽気でテンポも速いのが多い。決まったステップもお作法もない。曲に合わせて適当に身体を揺らすだけでいいモンだ」
私は目を輝かせて聞き入る。想像もつかない世界の話だった。
興味津々な私を見て、予想外だったのだろう。可笑しそうに軽く笑って、カルロは言った。
「気になるんなら、いつか、聞かせてやるよ。――いいだろ。社会勉強だ」
悪戯を思いついた子供のように人懐こい笑顔が、新しい世界の扉を開け放つ。
走り出す胸の音が、動き出した初恋の兆しということに、その時の私はまだ気づいていなかった。




