第3話
どれほど乞い願おうと朝は変わらずやってくる。
神を名乗る存在と契約したにも関わらず、時間には勝てないのか、と暦は新鮮な驚きを胸にその時を待っていた。
未だに守るべき女神は中に宿っており、姿を見せるのは彼ただ1人。
「……そろそろだな」
悩み、想い、宿る全てを彼方に投げ捨て暦は生まれて初めての修羅場にその身を投じる。
生存競争という、至極シンプルな戦いを敢行するために彼は今、この場に立っていた。
日が昇り始めて、闇に包まれた世界を照らす。
ただでさえ黒雲が空を覆っており、光が地上に降りることは稀な場所で、隙間から僅かに差し込む光を頼りに行動しようとしていた。
女神という、紛いなりにも神を名乗る存在が傍にいるのに、暦がやろうとすることの全てが結局は運任せ、奇跡など微塵も存在していない。
その事が何故か愉快で、暦の心はとても弾んでいた。
「神様にも出来ないことはある、か。なるほど、それは素敵だな。だったら、俺がやろうとしていることにも意味はあるんだろうさ」
気が付けば異世界。
言葉にすれば一言で終わるがそれまでの人生を全て捨てて強制的に転職させられたのだ。
日常の急激な変転――端的に言って、心地良い状況ではない。
それでも、暦は協力を受諾し笑ってこの状況を受け入れた。
諸々の不満など祭りを前にした高揚感の前には大した意味はない。
誰かに本当に必要とされて、その結果として此処に居る。
まるで物語の勇者のような自分に酔ってはいない、と言えば嘘になるだろう。
しかし、酔っていてはいけない、などという法は世には存在しないのだ。
酔いに酔い切って、祭りを盛り上げるのは悪いことではないはずだった。
「――さあ、1つ、大きな花火を上げようか。開幕はド派手に、皆様を飽きさせないようにしないとな」
いろいろと理屈を付けてこの場に臨んだ理由が、8割方女のためだと言ったらどうなるのか。
内心で想像して、暦はさらに口元を緩める。
世界を救うためにやって来た男は、色香に迷うごく普通の学生だったのだ。
いつか伝説になるかもしれない物語を彩る役者としては、不適格もいいところだろう。
「ま、ある意味で男らしいよな。色香に迷うのもさ。まさか、こんなことになるとは思わなかったが――どうせ、人生は1回しかないんだ。楽しまないと損だ」
『――暦、どうかした? なんだか、心が弾んでるよ』
「ああ、起こしたのか? 悪い、出来ればもう少し眠っててくれ。自分のことに集中しないと負けるような気がする」
『ん、わかった。……頑張って、ね?』
女神の素朴なお礼に、暦は笑みを零す。
ここから先、何が待っているのか。
そもそも、物語をしっかりと始められるのか。
それすらもわからないが、1つだけハッキリとしていることがあった。
「ああ、任せろ。何、寝てる間に終わるさ。次は、もっと話をしようか」
『そう。うん、楽しみにしてるね』
ミシリ、と何かに罅が入るような音が響く。
結界の中心点、神殿の屋根の上に陣取りながら暦は揺り籠が破壊される様子を静かな瞳で見つめ続ける。
破断点を超えて、賽は投げられた。
後は未来へ向かって駆け抜けるしかない。
暦の意思と力が、魔獣に劣った時、弱肉強食の理に従い彼は命を落とすことになる。
「――じゃあ、おやすみセレナ」
『うん。おやすみなさい、暦。また、後でね』
言葉は短く、開演の合図は静かに告げられた。
合わせて少しずつ音は大きくなり、周囲の光景は歪み始める。
後ほどの再会を誓って、2人は真実、一心同体の境地に至った。
「ああ、また後でな」
彼に宿った女神と同じように、暦は瞳を緑に染める。
普通の挨拶を宣戦布告の代わりとして、暦は行くべき先に挑戦状を叩き付けた。
同時に罅割れは最高潮に達して、大音量と共に砕け散る。
結界が消えると、清浄なる空気が急速に濁り始めた。
地獄の窯が蓋を開ける。
ここから先は疑いようもなく死地が待ち受けている。
「――来い、俺がお前たちの敵だ」
震えは心に沈めて、努めて飄々と物事に挑む。
強く揺るぎない信念ではなく、ふらふらと揺れ動く柔軟性のある想いを柱に暦は世界を侵す獣との最初の戦いにその身を捧げるのだった。
走る、奔る、疾走る。
泥のような不定形に見えて、核たる形もあるようなその奇妙な『獣』たちが一心不乱にある場所目掛けて走り出す。
彼らにとってその場所は急に奪われた己の住処であった。
生物が持ち得る本能なのか、それとも何かを意思を受けただったのか。
誰にも応えられない衝動を胸に、獣たちは駆け抜ける。
その先に、彼らにとっての『死』が待っていようともそこには恐怖など微塵もなかった。
己の役割を完遂する。
神にも通じる在り方を胸に、狼に似た何かは必死に大地を駆けていた。
「――やっぱりな。お前ら、おかしいわ」
何かを囀る獲物に意識を向けることもなく、獣は咢を以って相手を絶命させるために大地を強く蹴り上げる。
多少の高低さなど、彼らには意味がない。
既に意味を失った荘厳なる神殿。
その残骸すらも許さないとばかりに100超える数の獣たちがたった1人に向けて、暴力を叩き付ける。
鋭い爪の伸びた前足が、あるいは体当たりが、全てを噛み切る咢が、無謬の連携を以って暦に襲い掛かる。
ハンターとしての本能、というにはあまりにも完璧すぎるタイミング。
普通に考えて、人間を超えた速度域で綺麗にタイミングを完璧に合わせるには、それなりの知性が必要なはずである。
本能のみの連携にしてはそれは洗練されており、同時に脅威としか言いようのない能力だった。
「おお、凄い凄い。褒めてやるよ。――意味はないがな」
魔獣たちの武器が変哲のない学生服で止められる。
あまつさえ、剥き出しの生身の部分にもダメージは一切存在していなかった。
知性があれば驚愕を隠せないであろう状況。
しかし、獣にとって獲物の状態など関係なかった。
諦めなど知らないとばかりに、再度攻撃が放たれる。
「はははは、どうしたどうした? 俺はここにいるぞ!」
周囲から集まる数はドンドンと増えていく。
合わせて攻撃の回数も天井知らずに増えている。
加速度的に跳ね上がる危険性、にも関わらず暦は笑った。
予想通りに行き過ぎて、怖いくらいだったからだ。
「次は俺の番だよな?」
答えなど求めていない問いかけ。
返事を待つまでもなく、朴訥に、何の変哲もない彼の拳は真っ直ぐと突き出されて、
「死ね」
魔獣の身体を捉える。
たった1発の拳。
たとえ魔獣最弱としてもこの世界に存在したあらゆる動物たちを上回り、神と契約した者や神自身さえも討ち取った軍勢の一角なのだ。
容易い相手ではない。
それを暦はただの拳1発で仕留めるのだった。
弾け飛ぶ泥、姿を保てず魔獣の一体は暦の前から姿を消す。
「まだまだ、ほら、いくぞ」
隙間を埋めようと前に来た魔獣を矢継ぎ早に繰り出した攻撃で蹴散らしていく。
正面だけでなく後ろ、左右、果ては上から迫るもの。
包囲を問わず、暦の五体が全てを打ち払う。
結果、生まれるのは一瞬であろうとも安全な場所。
駆け抜けるべき小さな細い線が見える。
「はああああああッ!」
渾身の回し蹴りが周囲の全てを薙ぎ払い、そのまま勢いを利用して暦は飛び出すように走り出した。
わざわざ周囲の敵を引きつけたのはこの一瞬を生み出すため、敵の過半を一定の方向に集めるためである。
最初から目的の方向に走り出してしまえば、場所によっては先回りされる危険性があった。
そこで泥縄的に対策するくらいならば、最初から囲まれることを選んだのである。
覚悟している凶事よりも不意打ちの些細な躓きの方が暦には怖かった。
そして、何より、
「よし、上手くいった!」
自分の力を試してみたかったというのも大きい。
穴もあるセレナから授かった知識だが、役に立つものもたくさん含まれている。
その中で最たるものは、暦も含めた神やその眷属の戦い方であろう。
知識を捻り出し、一晩中唸りながら思いついたのは単純なことである。
暦は確かにセレナから多様な力を授かった。
しかし、そのほとんどは授かっただけであり、使いこなすからは程遠い。
常人の感性で超人の能力を使いこなすのは些かに無理があった。
そもそも『法則』などと言われてもどうやって扱うのか、という根本的な問題があったのだ。
よって、暦はこの世界の戦い方を放棄した。
独自路線、我流、言い方はなんでもいいが先人の積み重ねを放棄するというアホな所業に走ったのである。
その結果が先ほどの光景だった。
「さて、このまま逃げ切れる、訳はないわな」
風のように、という表現がぴったりと合う速度で暦は大地を駆ける。
暦がやったことは早い話が身体強化の類だった。
自己の身体を法則と見立てて、数値を――パラメーターを弄るイメージを思い浮かべる。
そうすることで、鋼のような、いや、真実鋼の肉体を手に入れたのだ。
後はそれで殴った、ただそれだけの話である。
最大の武器は己の肉体、自己に対する干渉ゆえに向こう側も何も出来ない。
相手の基礎能力は大体わかっているのだ。
想像というあやふやなものでも、結果がわかりやすければどうにかなる。
「よし、次だ。――アクセス、ライブラリを閲覧」
そして、暦の攻撃はまだ終わりではない。
あくまでも敵を一旦は置き去りにしただけの話。
肉体は最大にして最後の武器ではあるが、切り札だからこそ気軽に出す訳にはいかない。
数を捌くのにも向いていなかった。
この危地を脱出するのに必要なのは、範囲攻撃であり火力である。
暦の世界において、武器の王者は常に遠距離武器だった。
敵には最大のダメージ、逆に自分は無傷。
兵器の理想の形とはそういうものであり、武人ではない暦に戦い方に関する拘りなどあるはずもない。
「クリエイション――」
世界に対しての宣誓。
言葉で定義することで何をしようとしているのかを敵にも味方にも、自分にもわかりやすくするのだ。
今川暦が17年間過ごした世界から、彼は最良の兵器を取り出す。
少なくともこの世界の武器よりはわかりやすく、効率的なものである。
「ガトリング、セレクト!」
実物ではなく、暦が『そういうもの』だと認識して、『そういうもの』として生み出された怪物が同じように命を喰らう怪物に牙を剥く。
それが何かはわからずとも、脅威は感じたのだろう。
魔獣たちが息を荒げながら猛追し始めた。
敵の焦りのようなものを感じて暦は微笑んだ。
「もう遅い。喜べ、お前たちはこの世界で初めての異文化交流の相手だ。――存分に味わってくれ」
砲身が雄叫びを上げて、この世界に誕生した異文化は同じ異文化に牙を剥く。
弾が尽きることなどない無限の弾幕が後方から迫る魔獣の群れを残らず残骸に変えてしまう。
しかし、敵もこの世界の覇者として君臨する生き物である。
全てが暦の予想通りに運ぶはずもなかった。
「っ!」
暦の下にまだ集まっていなかった大型の群れが左右、そして正面から彼に向かって殺到する。
どれほど現代兵器を生み出そうと、あくまでも暦の想像上のものでしかない。
確かに彼らは超常の力も与えられて魔獣にも効果的なものではある。
同時に数の差、というわかりやすい脅威を打ち破るほどのものでもないのだ。
簡単に想像出来るために、逆にイメージによる枷も強い。
「邪魔だ!」
あくまでも2本の腕しか振るえない暦ではどうやっても対応できる数に限界がある。
それがわかっていたからこそ、彼は最初に迎え撃ち、その後に逃亡することで相手のいる方向を限定したのだ。
小細工にしか過ぎないが、その小細工すらも失われてしまえば待っているのはジリ貧である。
無敵の身体、鋼の身体を想像したとしても休みなく攻撃を受け続けば限界はやって来てしまう。
実際に無敵になっている訳ではなく、あくまでもそういう状態に体を変化させているだけでしかない。
「ピンチだな! おいおい、どうするよ、俺!」
ここで詰まるだろう。
無駄に賢くなった頭脳は正確に大結界に辿り着く前にデスマラソンは終わりを告げると予測していた。
暦がわかりやすくシンプルな力しか持っていない故に、計算もまた容易である。
数という脅威を捌くにはそのままでは力が足りない。
「セレナ、いけるなッ!」
『うん、大丈夫だよ。私の全てが、この時のために』
ならば、足りない分を他で補えばいい。
ここには彼以外にももう1人存在している。
神との合一。
この世界の人間からすれば狂気の所業を以って、暦は最強域の存在へと己を作り変えていく。
生命としての格が違う存在との融合など本来は片方が食いつぶされて終わってしまう。
しかし、物事には何事も例外が存在しており、彼らは例外尽くしの存在だった。
『未完成』――それ故に何にでも成れる可能性を備えた女神様。
『異邦人』――この世界とは異なる世界の出身であり、『未完成』の神様が選んだ彼女の魂と共鳴する運命の人。
この条件が奇跡を可能とする。
「エンゲージ――『セレナ』!」
『ドライブ――シンパシー!』
髪が長く伸びて、セレナと同じ草原の色へ染まる。
1人では未来に届かなくても2人ならば届く。
二心同体、人と神の共同作業。
初めての試みが世界に産声を上げる。
未熟者同士でも、2人揃えば一端の神様だった。
「さあ、反撃開始だ!」
『少し、痛いからね!』
緑の波動が魔獣たちを消し飛ばし、暦は只管に前進する。
目的地は、人類最後の砦『女神の大結界』。
そこに何が待ち受けているのか、2人はまだ何も知らないのであった。




