第16話『本番』
「……その、なんだ。いろいろとあれだったのは、俺のせいってことか?」
「あなたの責任、と言われると答えはノー、となりますね。私はある程度は理解して、あなたと契約を結びましたから」
激闘を終えて、暦は自室で緑の瞳を持つ女神と対面で話し合う。
大人びた微笑みは舌足らずな印象もあった時とは全く異なる印象を与えてくる。
暦が現実から目を逸らしていたことの影響で彼女は本来の能力を発揮出来なくなっていた。
既に諸々の情報から暦も理解している。
一概に暦にのみ責任がある訳ではないが、男の面目として苦しいものはあった。
深層心理からの影響。
神と契約者は強く繋がっているからこそ、双方からの影響を顕著に受ける。
神から一方的に使われる立場ということではないのだ。
表層面だけの覚悟では真実の覚醒には至れない。
「……アルベルトさんが俺に協力してくれて、師匠が協力してくれなかったのは……」
「彼は表だけしかわかりませんが、あの方は暦が目を逸らしていると気付いていたからでしょうね。まだ早い、とはそういうだと思います」
「うわぁ……、なるほどね。契約者が人間を軽く見る訳だよ」
イザベルが気付くということはエレインも、カールも気付いている。
直接的な接触がほとんど行われないのも道理であろう。
現実から目を逸らしているような者を重用することなどあり得ない。
逆の立場ならば、暦も似たような行動に出るのは目に見えていた。
どちらの方が優れているかはともかく表層のみで納得してしまう人間と、無意識領域すらも視野に入れた契約者では後者の方が格が高い。
「しかし、あなたは本当の意味でこの世界と向き合うことを決めてくれました。……私が言えた義理ではないですけど、ありがとうございます」
綺麗に下げられた頭に暦は狼狽える。
謝るのは暦の方だろう。
何だかんだと格好の良いことを言ってたが、本当のところでは何も決めていなかったのだ。
切っ掛けが無理矢理だったのは間違いないが、この世界に来たことを何処かで喜んでいたからこそ表面上の決断は素早く行えたのである。
「いや……その、こっちも悪かった。いろいろわかったとか言っておきながら、何も理解してなかった」
暦とセレナは文字通り同体となっていた。
心が通じ合ったのも嘘ではない。
セレナからは全ての情報が渡されていたのだ。
戦いに必要なもの、其処に至るためにやるべきことも本当はわかっていた。
暦が目を逸らしたからこそ、一部不明となっていた箇所があっただけなのだ。
わざわざカシスのところにやってくる意味など、本来はそこまでなかった。
「遠回りさせて、本当に悪かった」
「……暦がそう言ってくれるのは本当に嬉しいです。だから、私も本心で語ります」
暦が異世界召喚という異変から深い部分で目を逸らしたことをセレナは怒ってすらいない。
彼女の選択はそもそもが自助努力の放棄に等しいのだ。
暦はこの世界とは何も関係がない。
助ける義務など皆無であり、セレナに呼ばれなければ無難に人生を終えていただろう。
おまけに故郷から無理矢理引き剥がしており、釈明の余地もなく彼女の行ったことは悪であった。
最終的に本人が許している、などということは免罪符にもならない。
犯したことを罪であると断じているのは他ならぬセレナ自身なのだ。
「全ての因は私にあります。結果、生じたことの責任は私に帰するのです。あなたにしてほしいのは、ただ選択することだけ」
「それは……」
「私は……故郷のためにやれることをしたかった。使命であり、私の生まれた理由を完遂するためには、必ず契約者が必要でした」
神という存在は強大である。
だからこそ、接し方を考えないと人に悪影響を与えてしまう。
生きるための知恵として誕生したのが、契約者という1つの形態だった。
人と神がお互いを傷つけないように生み出したものなのだ。
一方的であっても、思いやりの心は存在している。
「私の目的にために、あなたを利用しようとした。この部分に言い訳はしません」
「……」
暦としても何てことをしてくれた、という想いもある。
ごく普通の生活に不満と呼べるほどの鬱屈も存在せず、かと言って将来にやりたいこともない。
どっちつかずの曖昧な人間だったのは間違いないが、日本での生活を失いたいと思ったことはなかった。
非日常、スリルへの憧れは相応にあったがそれすらも妄想で満足できる程度には器も小さい。
夢どころか欲望すらも薄味になってしまったのが、彼の世代の特徴である。
そんな夢もないつまらない生活だったが、投げ捨てるほどのものではなかった。
両親への説明なども含めて、残したもので気になる部分は多々残っている。
おまけにこっちに来ても、自己の定義に悩んだり、理不尽に見下されたりと不快な思いをした方が多いだろう。
愉快な体験など、セレナと出会えたことくらいしかなかった。
一側面として、これらのことは事実である。
しかし、同時に一つの側面でしかないのも事実であった。
「ですから……」
「おい、ちょっと待て」
「え……」
猶も言葉を続けようとするセレナを暦は強く遮る。
謝罪しようとするセレナの誠意はわかるが、暦は謝られるほどのことだとは思っていなかった。
根本の部分で怯んでいたのは間違いないが、表の決断も嘘ではないのだ。
この状況を喜ぶ部分があるのを暦は否定できない。
謝ってほしい訳ではないのだ。
セレナに申し訳なさそうな顔で謝られるのは複雑な気持ちが湧きあがってしまう。
「えーと、あれだよ。……お、お互いにいろいろあるんだ。過去は過去でいこう。今はやりたいことをやろう。それからでも、そのいいじゃないか」
「それは……」
暦はアホではない。
真理の瞳、などと大層な名前が付いた能力が覚醒したのは、彼がそういった方面への興味と適性を保持していたからだった。
ここでどれほど言葉を尽くそうが、善人だからこそセレナは悩んでしまう。
彼女が必要としているのは許しの言葉ではなく、罰を言い渡す怒声である。
許されるよりも怒られた方が心理的には楽になれる――そういう思考をしていると暦の瞳が見抜いていた。
安易な救済、というと大袈裟であるが自分で自分を許せない以上は仕方がないだろう。
そのために今は前を向かせるしかなかった。
罰など与える必要はないのだ。
暦には感謝も怒りと同じだけ存在しているのだから。
「だから、俺からの罰は期待するな。いや、むしろこれが罰だよ」
「……そう、ですか。薄々思っていましたが、中々厳しい方ですね」
「そうか?」
「そうですよ。はぁ……私も、難儀な人に惹かれたものです」
どうして、俺を選んだのか。
溜息を吐くセレナに一瞬、その言葉を発してしまいそうになる。
答えなどないとわかっているのに、問うのは愚行であろう。
彼女に聞いてもきっと、なんとなく、と答えるのが目に見えていた。
カシスと神の関係がそうであったように、暦とセレナの間にも理屈、というのもは必要ないのだ。
理由もなく、両者は惹かれ合って此処に至った。
2人の本当の歩みがここから始まる。
他人事だった世界が暦の生きる世界に変わった。
観測者では、他人を動かすことは出来ない。
先頭を走る者に、人は付いていきたがるものなのだ。
「ま、過去にはいろいろあったけど、これからもよろしくな。セレナ」
「はい。……鋭意、努力するようにしますよ。暦」
張りつめた空気は消えて、2人は穏やかに微笑み合う。
激動の時代。
傷つくこともあるだろうが、1人でなければ耐えられるだろう。
パートナーとして、2人はようやく自分と相手を見つめることが出来ていた。
小さな1歩だが、ここから世界は動き出す。
この日、この時、この場所で反撃の狼煙が上がる。
歴史に刻まれるのか、それとも儚く消え去るのかは駆け抜けた後に残る結果を見るしかないだろう。
暦もこの世界のプレイヤーとして立つ覚悟を決めた。
魔獣たちに――その裏にいるかもしれない者たちに立ち向かう最大の過激派。
逆襲を誓う一派がここに誕生したのであった。
水晶を用いた通信は音声だけを飛ばす術であり、迅速な情報交換には適しているが、詳細な情報を交換するのには向いていない。
そのため、姿すらも含めて交信の出来る特別な部屋が各地の砦には備え付けられている。
日が沈み、彼女の時間となった世界で王都から緊急の連絡がわざわざそちらを用いて届いていた。
「あなたがわざわざこちらを使うとは、余程の用件なのかしら――エレイン」
水を張った円形の祭壇の四方から水晶が光を灯す。
代わりに現れた美しい緑の髪を持つ女性。
見る者が見れば、覚醒したセレナとよく似た印象を受けるだろう。
柔らかな雰囲気を感じさせる微笑が絶えない秩序の英雄。
世界を守護する最強の一角は彼女にしては厳しい表情でカシスを見つめていた。
『急に呼び出したのは申し訳なく思っています。しかし、こちらとしても座して待つ訳にもいかないですから』
「穏やかではない表情ね。まあ、いいわ。用件は大凡把握しているわよ。セレナ様はこちらにいます」
『っ……やはり、そうですか。……経緯を聞いても?』
エレインが取り乱すなど、1つの事例しか存在していない。
暦がエレインを誤魔化してセレナの精神体をこちらに連れてきていたのは知っていた。
カシスが引きずり出して、同調性を引き上げたことで肉体が消えたのだろう。
精神体を連れていたことはわからずとも、暦の方で何かがあったくらいはエレインならば容易く理解出来る。
カシスは予想通りの動きに内心で安堵しつつ、努めて平静な様子で事実を語った。
「それほど特別なことでもないわ。契約者として、真実の覚醒に至っただけよ。おそらく、それに引き摺られたのでしょうね。直ぐにセレナ様がこちらにやって来てしまったの。ごめんなさい、そちらでは大騒ぎだったでしょう?」
『覚醒……まさか、初日に戦闘教導でも?』
「ええ、私の過去とも同調させたわ。戦力は1人でも多い方がいい。ましてや、彼は神が残っている契約者。逃げるだけとはいえ、未覚醒の状態で東側を突破出来たのよ。戦力としては十分でしょう?」
ありのままに事実を語る。
カシスは何も嘘を吐いてはいなかった。
ただ、暦がエレインに隠れてしていた動きを伝えなかっただけである。
彼女の中で、エレインよりも暦の方が仲間としての比重が大きい。
ここで彼が隠し事をしていたと暴露するのは、メリットが少ないと判断していた。
『……なるほど、理解はしました。矛盾もない』
「納得出来ない?」
『そのような事例、過去においては1つもありません。あなたが嘘を吐くとは思いませんが、同時に真実を言う保証もないです』
「あら、手厳しいわね。長年の付き合いなのに」
『長年の付き合い、だからこそですよ。しかし、状況は理解しました。彼が覚醒した、というのならばあの方の様子も変わるでしょうね』
疑念は持っているが、エレインはそれを封じて別の方向に思考を向けた。
カシスから見ても聖王国を守る最後の砦は優秀な女性である。
今はまだ雑魚に過ぎない暦を殺すために能力の全てを駆使するようなことはない。
根本が善良であるのは、カシスも認めるところなのだ。
陰湿さとは無縁なのが救いと言えるだろう。
「ええ、理知的になっていたわよ。多分、あなたの構想は上手くいかないぐらいにはね」
『覚醒してしまえば、こうなるのは目に見えていました。最悪は契約を上書きすることも考えてしましたが、真っ当な手段でやるしかないようですね』
「優しい顔をして、相変わらずやる時はやる人ね。結果として、何が起こるのかもわからないのに、計画はしていたんだ」
『常にあらゆる手段を模索するのはこちらがやるべき義務です。為政者とは、民のためにいる者でしょう?』
高潔にして、清廉かつ正しい。
エレインという女性は秩序を背負うに相応しい完璧な精神を持っている。
時に苛烈に決断し、時に優しく抱擁する。
飴と鞭を使いこなし、彼女は老いることも同時に狂うこともない。
神との契約は主が死した後も決して変わることがないのだ。
常に全盛期の力で、世を導く。
かつての主の代わりに、その役割を忠実に実行していた。
「そうね。あなたは、それでいいと思うわ」
『同意を得られてよかったです。……契約者の方が目覚めたのならば、私も対応の仕方を変える必要がありますね』
「あのままなら市民として埋没して貰うつもりだったのかしら?」
『覚悟のないまま、流されるのは幸福とは言えないでしょう? 人は自己の選択による失敗もまともに受け止められない事の方が多いのです。……無理矢理選ばされた選択肢の果てにある運命を受け入れるのは困難ですよ』
エレインの不器用な優しさにカシスは苦笑を浮かべる。
カシスとは方針が異なるがそれが優しさであることは、彼女にも理解できる。
過保護、と言う類のものであるのは間違いないが優しくないよりは良いだろう。
「経過は報告するわ。それで今は許してもらえるかしら?」
『構いませんよ。今はまだ、急ぎではないですから』
含みのある言葉。
カシスは裏にある意図を察して頷いた。
最前線にいるからこそ、わかることもある。
急激に崩れることはないだろうが、限界が近いのも事実ではあった。
「新しいラインの策定は終わってるわよ。建設は開始してる」
『ご苦労様です。南と北は下げる訳にはいかないので、苦労を掛けます』
「その分、優遇はして貰ってるわ。しばらくは借りといていいのでしょう?」
『女神のご不興を買わない範囲で好きにしてください』
事実上のフリーパス。
黙認を前にして、カシスは薄く笑みを作る。
「――そう。じゃあ、好きにやらせて貰うわ」
『ご武運を。次に会う時は、いろいろと動いているのでしょうね』
「そうね。年寄りには優しくない時代になりそうだわ」
『違いありません。……それでも――いえ、今日はここまでで』
「わかったわ。また、定時連絡で」
カシスが言い切るよりも先に通信は切られて、エレインの姿は消える。
「そう、世界が動くわよ。私たちで、動かすの」
湧き上がる興奮を抑えて、カシスは冷静に思考を働かせる。
暦が明日から何を見せてくれるのか。
期待感で待ち遠しい。
夜という自分の領域が彼女の興奮を後押ししていた。
「ふふっ、こんなに楽しいのは――あなたと居た時以来ですよ」
遠い日に消えた神に語りかける。
もういない存在を想って、カシスは少しだけ後ろを振り返った。
寂しそうな彼女の横顔を夜の闇だけが知っている。
各々の事情を重ねつつ、世界は今日も回っていた。
こうして、変化は静かに歴史に刻まれたのだ。
目には見えず、感じる事も出来ないが確かに何かが変わったのである。
人も、神も、契約者も――魔獣ですらも、それが意味することを理解出来ない。
黄昏は終わり、無明へと加速する。
今はただ、人々は前に進んでいると、信じるしかないのであった――。




