第13話『質疑応答』
一夜明けて、暦は微笑む女性に砦を案内されていた。
案内と言っても、それほど大層なことはなく、直ぐに終わってしまう程度のもの。
雑務としか言いようのないことに、いくら暦がそれなりの立場の人間とはいえ、カシスが出張るのは可笑しいのは間違いないだろう。
微笑みながら簡潔かつ的確に説明をしてくれることは有り難かったが、突発的に湧いた好機に対応に困っているのも事実であった。
何より、暦は目の前の女性から生理的な恐怖、というべきものを強く感じている。
見てはいけない、もしくは見てもよいことのない光景を直視させられている感覚。
自分が何故こんな感覚を覚えるのか。
理由は大体わかっているが、わかっていても避けられないことこそが彼我の差を如実に示している。
カシス・エード。
彼女が象徴する属性は『闇』。
かつての主から受け継いだ世界を構成する属性の中でも極めて強力な代物の1つである。
単純な実力もそうだが、排除が難しいという意味で厄介さでも際立っていた。
そして、もう1つ。
彼女が忌諱される最大の理由がある。
「……物騒な2つ名がある人には見えないわな。少なくとも、ここまではさ」
闇夜の死神。
かつての主が権能を広げる過程で吸収した『死』という属性。
生者であり、神ではないカシスでは相当に劣化したものでもまともに扱えないが、効力に関しては群を抜いていた。
元が強大に過ぎる故に劣化しても持ち得る力の脅威は大して変わらない。
闇と死。
この2つを持つが故に強大なる影響力を持ち、エレインでもカールでもない派閥を盛り立てられるのだ。
中立派、などと言っても彼女以外で名乗れそうなものはほとんどいない。
実行力を持っている数少ない1人だと言えるだろう。
「力があるからこそ、何かが出来て、あるからこそ縛られる」
同時に強大な力は畏れと距離を生み出してしまう。
彼女が単独での勢力に近いのは、契約者にとってですら属性が致命傷となってしまうからである。
エレインやカールといった最上位のものたちですら、運が悪ければあっさりと旅立ちかねない。
個人戦力としては破格の強さなのだ。
「暦さん、どうかしましたか?」
「いえ……ちょっと考え事をしてました。こう、なんというかあまりにも普通だったので」
「ふふっ、砦としては簡素に見えますかね?」
不遜な思考を断ち切り、暦はカシスの声に応じる。
メリットだの、デメリットなどを考えて誰かと接触するのはあまりよくないだろう。
暦もいろいろと考えてここに来たが、そのような損得だけを考えるのが悪手であることくらいはわかっていた。
下心はあるが、表に出してはいけないのだ。
関係の始まり方にはいろいろなものがあるが、情の深そうな女性にやってよいことではないだろう。
「……ええ、本当に普通の建物に見えますよ」
感慨深く、暦は言葉を並べた。
生活感に溢れた空間。
砦であるのは確かだがディオンがいた東とは違い、ここにいるのは軍というよりも自警団といったような空気を感じる。
暴力よりも守りに主眼を置かれた空気は悪いものではないだろう。
しかし、ある1点でその空気は微妙なものとなる。
案内が始まってから既に1時間程経っていた。
なのに、ただの1度も暦は兵士たちと会っていない。
カシスの話も終始、建物の話ばかりであり、そこには人間がいるという反応がなかった。
「さあ、こちらへ。次は食堂でもご案内します」
「ありがとうございます」
嬉しそうに暦を連れ回すカシスの様子を見れば、この場所で何があったのかは簡単にわかった。
それが誰が悪いという話でもないこともまた同時に察することが出来る。
ただの人間に人の形をした『死』と向き合えというのは無理だろう。
原初から来る本能が彼女を避けてしまうのだ。
おそらく彼女はまともに他者と対峙することが少ないはずである。
暦との『会話』をこれほど楽しんでくれる理由も察しはついていた。
「ふふっ! こんなにおしゃべりしたのは、久しぶりです。政治的な話は疲れますからね」
「お疲れ様です。貴重な時間を割いていただいている恩返しになっているのなら、いいのですが……」
「あら、殊勝な心掛けですね。安心してください。私も結構、楽しいですから」
気分が上がっているのは間違いなく良い事なのだろう。
そのように自分を納得させて、暦はカシスに付いていく。
背伸びをした姉が弟を連れ回すかのように、彼女はいろいろな場所へ暦を連れて行くのであった。
この世界を語る上で忘れてはいけない存在がいる。
『神』――全てはこの言葉がキーワードとなっているからだ。
魔獣という全てが謎に包まれた特異な存在を除けば、この世界における最大の異常とは神と言う名の超越者になる。
彼、あるいは彼女たちの特徴はそれほど多くない。
まず、強大な力を持っていること、そしてもう1つが何かしらの司るモノを持っていることだ。
女神『セレスティア』のように最終的には限りなく万能になることもあるのだが、基本的には1つの力からその存在は始まる。
これはイザベルにも確認した絶対の事実だった。
よって、暦はここから見えてくるものがあると思っている。
つまりは、神とは自然現象などが人格を持ったものではないのか、ということだ。
如何なる理屈なのか、そもそも人の分類で考えてよいのかはともかくとして、彼らがそういう存在だと仮定すればいくつかわかったことがあった。
「……カシスさん、少し質問はいいですか?」
「はい? 疑問点などがありましたか? 施設はそれほど複雑ではないのですが」
「ええ、そちらに疑問はありません。契約者として、聞いておきたいことがありまして」
「契約者として、ですか? 私でわかることならばお答えしますが……」
唐突な問いかけにカシスが少し困惑しているが、暦も手段を選ぶような余裕はないのだ。
この女性しか、答えてくれそうな有力者がいない以上、博打をするのは今しかなかった。
暦がわかったこと、それは神を神として存在させている力は、もしかして人間でも継承が可能なのではないかということだ。
神々が自分の分身、あるいは子どもを生み出そうとしたのが契約者ならば必然として元となった人間という種族には何かある。
この世界の創世に関わる部分。
昔過ぎてわからない上に資料が散逸しているのが痛い部分は生き証人になんとかしてもらうしかないだろう。
なんともアンバランスなこの世界で生きていくには、暦にとって放置できない疑問なのだ。
「神とは、一体どんな存在だったのでしょうか?」
「……なるほど、あなたは未熟な神しか知らない。だから、そのような質問を?」
「ええ、多くの方にとって彼女が重要だと考えるのは、それが理由なのでしょう? 失礼でなければ教えていただきたいです」
カシスについて知ることが出来て、かつての神についても情報が集まる。
暦にとっての値千金の情報を一気に集めることが出来る提案だった。
無論、断られるのならば素直に引くつもりはある。
真剣な瞳で暦はカシスを見つめた。
先ほど感じた、悪寒のようなものは既に消え去っている。
物事に集中してしまえば、いつか来るかもしれない恐怖など忘れることは簡単だった。
「……あなたが何かを考えているのはわかっていますが、そんなことだとは思いませんでした。もう少し、大きなことを言ってもいいのですよ?」
「これでも言っていますよ。超えるべき存在について、もしかしたら敵になるかもしれない人に問いかけているのですから――ねえ、もう1人の『カシス・エード』さん」
暦が『敵』と表現した瞬間、明らかに部屋の温度が下がった。
目の前の女性のスイッチ、とでも言うのだろうか。
それに類するものがオンとなったのだ。
日常を楽しんでいた少女は消えて、妖艶は敵を叩き潰す魔女が顔を表す。
「ふふふっ、『私』も中から見ていましたけど、真っ直ぐに来るとは思いませんでした。よく気付きましたね。ほとんどの契約者から、この身は隠せていますのに」
姿は同じ、発する空気も退廃的なものと闇の気配が強くなったが、原則的には同じものだ。
違うのは力の大きさだけであり、暦の前にいるのは目の前の女性1人だけのはずである。
しかし、会話から窺えるのはこの場に3人目がいることだった。
カシスの姿をしたカシスでは誰かが本人に代わって、暦の問いに答えているのだ。
「何、詐欺みたいなものですよ。基本は勘です」
この砦にやって来て暦が最初に感じたのはカシスとの雰囲気の差である。
組織の長、というべき存在がいる場所ではどうしてもその人物の空気と言うべきものが感じられるものだ。
特に契約者という強大な存在ならば避けられるようなことではない。
闇の神であろうが長閑な場所を作るのは構わない。
それならば、ここまで畏れられるのは可笑しいであろう。
兵士や民たちが表面上の安寧では耐えられないような奇怪なことを想像した時に、ヒットしたのが、もしカシスが2人いたら、という仮定だった。
「いいわ。面白いあなたに免じて、1つ昔話をしましょうか。エレインたちがあなたに隠していること、そしておそらくあなたにとっては重要な事実よ」
「対価は何が必要ですか? こういうのは、そういうものが付き物だ」
「あら、殊勝な人ね。では、1つだけ――」
カシスとよく似たカシスではない『ナニカ』は最高の笑顔で、
「――あなたの唇、くださいな」
と一瞬で接近して、キスをする。
触れる唇と唇。
両者の間に距離はなく、これ以上ないほどに触れ合う。
同時に流れ込むのは、死と闇の気配。
想定とは少し異なる現実に一瞬だが、フリーズしてしまう。
遠のいていく意識にこれから起こることに顔を歪めながら、暦は生死の境へと旅立つのであった。
まず、第1に押さえておくべきことがある。
契約者というものは神に気に入られた人間であり、彼らの契約者になる前の出身などは本当にバラバラだということだった。
王族は神に気に入られた者たちではなく、巫女の子孫と言うべきものであり少々ベクトルが異なっている。
そこからさらに血縁が広がったのが貴族なのだが、現在ではほとんど意味のないものとなっているため割愛してもよいだろう。
重要なのは、神と1番近い人間である彼らが何処にでもいる人間だということだった。
『だから、『私』の出身は大したことのない場所だった。貧民、と言えばわかるかしら? まだ神様の勢力が安定していなかった時代だから、私が『人間』だったときにはそういう場所もあったのよ』
謎の空間に響き渡る声と同時に景色が切り替わる。
確かに一瞬は断絶した意識だったが、今はしっかりとしていた。
しかし、目が覚めたという訳ではない。
暦よりも遥かに上位の力。
妙な空間がカシスの生み出したものであるのは間違いなかった。
『幸せだったか、と言われるとそれなり、と答えるわ。そもそも、幸せだのなんだについて考えるような余裕がなかった』
日々を精いっぱいに生きて、いつの日にか死ぬ。
命の当たり前のサイクルに極めて従順な閉じた世界。
神という存在がいたこの世界でも始まりはそんなものだった。
そう、神の有無を除けばここは暦の世界とそこまでの差はないのだ。
何もない状態から知恵と努力、時には血を流して人は進歩していく。
カシス・エードという存在は本来ならばその歴史の中に消える一粒の欠片だった。
『そう、あの日……あれと出会って『私』の人生は変わってしまったのよ』
偶々、少し遠出をして、闇に目を付けられた。
これ以上の表現方法はない。
彼女、カシス・エードが気が付いた時には、既に人間を辞めていたのだ。
少しだけ意識を失って、次の瞬間にはそれまでの自分と何かが変わっていた。
なんとも言えない違和感があったが、それを飲み込み、とても人には見えないそれと会話をしたのだ。
「……なるほどね。やっぱり、そういうことか」
『ええ、神との契約は個の存在を高みに導く。彼らは何かしらの事象が意思を持った存在。時に拡大はしていくけど、成長はないわ。例外が人間との契約による変化かしら』
人とコミュニケーションを取るために、力を流し込み無理矢理にでも同じ領域に引き上げる。
やっていることはそういうことだった。
「同格、もしくは媒体となった契約者と介す形で、神はコミュニケ―ション方法を身に付ける。……元の器が優れていれば、精神にそこまでの影響はないが」
『逆に言えば、貧農のような無教養では高がしている、ということよね』
カシス・エードはその時、1度死んで蘇ったのだ。
強力な存在へ、高次の存在へと変わった。
これを幸せと取るのかは人それぞれだろう。
1つだけ確かなことは、何処にでもいる1人の少女は歴史という大河すらも喰らう怪物の一員となった。
『さあ、ここからが本題。私の半生、存分に語りましょう。その果てに、あなたが何をしようとしているのかを楽しみにしておくとしましょうか』
色っぽく、同時に懇願するような口調でカシスは暦へと語りかける。
話は次のステップへ移り変わっていく。
暦が正確には理解出来ていない、神の暴虐、理不尽さをカシスから学び取るのだった。




