第185話 紅眼の戦鬼
マリスは血の湖と化した路地へ、一歩踏み込むやいなや跳びかかった。
「うぉおぉおおおお!」
握り締めた拳が棘だらけの肌を打つ。刹那、皮を裂く感触と同時に自身の拳もズタズタに裂け、鮮血が飛沫になった。
「なんだァ? てめえも死に急ぎか」
嘲るシャークの返しの拳──鈍い衝撃が頬骨を揺らし、マリスの身体は石壁に弾かれた。
だが、その紅い瞳は消えない。
怒りが閾値を超え、戦鬼族特有の暴走が発動する。吐息は白く湯気を上げ、全身の血管が脈動した。
「────ッ!」
言葉にならぬ咆哮とともにマリスが襲い掛かる。瞳が紅く染まり、拳、蹴り、肘、膝と嵐のような連打が棘の装甲にめり込み、削り、粉砕してゆく。
「効かねぇって言ってるだろうがッ!」
シャークは腕で顔を庇いながら殴り返し、互いの拳が火花を散らした。鮫肌は確かに硬い。だが削れた鱗の下から滲む血が、徐々に男の表情を険しく変えていく。
◆◇◆
「キィキィ!」
戦いを遠巻きにしていた子猿が、ネイラの袖を引きながら焼け落ちた店の一角を指さした。
「……あの中に何か?」
ネイラは蛇腹剣の柄を握り直すと、瓦礫を蹴散らして薄暗い店内へ滑り込む。倒れた棚の陰──怯えて泣くアルを見つけ、抱え上げた。
「生きてたのね」
「ウキィ!」
ネイラが呟くと子猿がアルの下へ跳ねていく。
「もう大丈夫。目を閉じて休んでていいわよ」
「ありがとう、お姉ちゃん……」
よっぽど疲れていたのだろう、すぐに寝息を立てるアルを優しい目で見届けるネイラ。
その瞬間、背後の血溜まりに波紋が走る。何者かの足跡──。
「ウキィ!」
子猿も気配を察したのか警告の声を上げる。
「出てきなさい。隠密は趣味じゃない」
ネイラは蛇腹剣を弾き伸ばし、波紋の中心へ突き込んだ。空気が裂け、色彩が剥がれ落ちると、カメレオンのような擬態を纏った男レオが悲鳴をあげて倒れた。
◆◇◆
路地では、マリスが流血をものともせず腕を振り抜いていた。拳の一撃ごとに鮫肌が砕け、肉が潰れる音が響く。
「チッ、だったら──喰ってやるッ!」
シャークの顎が異様なまでに開き、並んだ歯が獲物を求める。
咄嗟にマリスは両掌で顎を掴み、懸命に押し返した。
「うおおおおおッ!」
骨がきしむ音。牙が砕け散り、顎関節が粉砕音とともに崩れる。
悲鳴を上げ、ぐらりと膝を折ったシャークへ、マリスは打ち下ろしの拳を叩き込む。
肉が潰れ、棘が散り、男の巨躯が地面に沈黙した。
「シャークがやられるなんてマジかよ!」
残された最後の盗賊ラットは鼠の群れを操り、闇へ紛れようとする。
「逃がさない!」
建物から出てきたネイラが伸縮する刃を振るい、ラットの脚を撥ね飛ばした。
「ぎゃぁああ! 脚がぁああ!」
悲鳴を上げ地面を転げ回るラット。操り手が集中力を欠いたからか、鼠たちは四散し、黒い波となって溝へと消えた。
戦いが終わった。
マリスは膝をつき、動かないゴングとパルコの亡骸をそっと抱き寄せた。震える指先が血に濡れ、地面に赤い滴を描く。
「……ごめん……守れなかった……」
すすり泣く声は、遠くで鳴り続ける鐘の音に掻き消される。
街を覆う炎の赤と、マリスの瞳の赤──二つの紅が夜を染め上げていた。




