第1話 絶望
「バカヤロー！ このカスが！ どう責任を取るんだ！」
やや高めの温度設定のエアコンでシャツが汗ばむオフィスに、不快さを増すような高圧的な怒声が響いた。
怒声を上げている男は、四十代後半の嫌味な表情の中年男性だ。先ほどから眉間にシワを寄せ、攻撃的な言葉を吐き続けている。
ただでさえ不快な夏の暑さが、この男の怒声で何倍にも増すかのように。
「おい、佐々木！ 分かってんだろうな、全部オマエのせいだからな！ まったく使えねえカスだ！」
下卑た薄笑いを浮かべた中年男性が、唾を飛ばしながら罵倒を続ける。まるで自分のストレスを相手にぶつけるかのように。
「ですが、課長、このデータは……」
「ですがもカカシもねぇんだよ！ 覚悟しとけよ！ おい！ テメェはクビだ！ 全責任をテメェに被せてクビにしてやるからな！」
◆ ◇ ◆
「何で俺ばかりこんな目に……」
会社の入っているビルを出た男は、ため息交じりにつぶやいた。
男の名は佐々木透矢。航空機関連の設計を手掛ける、ブラック企業に勤める社畜だ。
上司の不興を買い、理不尽なに目に遭っているところである。
良くて左遷、悪ければ免職だろうか。
このような事態になった原因の全てが、実は怒声を上げていた課長に有るのだ。
あの無能な課長……小東は、自分の受け持つプロジェクトが納期に間に合わなくなり、直前になって勝手に担当を透矢に変更したのだ。
無理やり後を引き継ぐことになった透矢だが、そもそも小東の作ったデータが間違いだらけの不備だらけだった。
というのも、小東は会社幹部のコネで入社した男であり、無能のくせにプライドばかり高い男なのだ。
仕事は雑でクレームも多い。その殆どを部下のせいにして、コネとゴマすりで課長まで昇進していた。
そんなこんなで、透矢は毎日夜遅くまで残業をして、訂正と修正を重ね、やっとのことで完成間近まで作り上げた。
ところが信じられないことに小東は、自分の手柄にしたいが為に再び勝手に担当を変更した。
未完の図面を勝手に仕様変更し、最終チェックもしないで取引先に納品してしまったのだ。
しかし、工事が始まってからデータの間違いが発覚し、大幅な工期の遅れが出て、会社の損失となってしまう。それも小東自身が変更した部分である。
小東は、部下の手柄は横取りして自分のものとし、自分の起こした不祥事は部下に責任を擦り付けるクズだった。
今あの男は、自分の失敗を隠蔽する為、三度プロジェクトの担当を変更していた。全責任を透矢に擦り付けようと。
「はあぁ……まいったな」
透矢は溜め息交じりに駅へと歩く。そもそも彼は子供の頃からツイていなかった。
父親はギャンブルで借金を作り、不倫をし散々家族に苦労を掛けた挙句、借金だけを残して家を出て行った
母が借金を返す為に朝から晩まで働き、女手一つで透矢を育てたのだ。
しかし、学校にも彼の居場所は無かった。貧乏人とバカにされ、数々のイジメを受け続けた。
それでも透矢は努力し、苦労して自分を育てた母に恩返しをしたいと思っていた。
だが、そんな細やかな願いさえも叶うことはなかった。働き詰めで無理が祟った母は、倒れてそのまま呆気なく死んでしまう。
奨学金で大学に通った透矢だが、周りがコンパやサークルで青春を謳歌している中、勉強の傍らバイトで奨学金を返済する忙しい日々を送る。
一度だけコンパに誘われたが、流行りにも疎く地味な透矢は、笑いのネタとして使われただけだった。
そう、人間の本質とは、自分より下の人間を探し、それを嘲笑い優越感を持ちたいだけなのだ。
しかも、入社した職場はブラック企業で、サービス残業は当たり前。無能上司の嫌がらせを受けつつ、一生懸命に働いて来た結果がコレである。
ここまで生きてきて俺が悟った事実は一つ。
世の中は、悪いヤツらが得をして、真面目なヤツは搾取されるだけなのだ！
悪い奴らは恐ろしい程の嗅覚を持っており、真面目な人間や弱い人間を嗅ぎ分け、徹底的に搾取してくるのだ。
透矢は、人生に絶望していた――――
「クビか……このご時世に職探しか……」
駅のホームで電車を待つ透矢だが、もう希望も失い明日への展望も開けてこない。
「ウェェェイ！」
そこに突然、透矢の背後から不快な奇声が上がった。
見るからにガラの悪そうな三人組が、周囲を威嚇しながら騒いでいるのだ。
「おっ、可愛いじゃん！ 俺らと遊びに行こうぜ！」
そのガラの悪い三人組は、大人しそうな女子高生に狙いを定めたようだ。
「や、やめて下さい……」
その女子高生は、青い顔をして首を振る。
「なんだとゴラッ！ 俺らの誘いを断んのか！」
「断ってタダで済むと思ってんの？ 俺らの先輩にその筋の人がいるんだけどさ」
「オマエの家族潰すのも簡単にできんだぞ！ ああぁん！」
嫌がる女性を無理やり脅して、何処かに連れて行こうとしている。今までもこうして脅し、何人もの女性を毒牙にかけてきたのだろう。
一部始終を聞いていた透矢は、不機嫌そうに顔をしかめた。
ゴミクズは纏めてゴミ箱に捨てたい気分だと。
普段なら絶対関わりたくない相手だが、上司に理不尽に罵倒され気が立っていた透矢は余計な一言を発してしまう。
「うるせえな……」
案の定、そのヤカラは肩を怒らせて透矢の方を向く。
「ああん？ オイ！ オマエ、今なんつった！」
「舐めてんのか！ ゴラッ！」
「やっちまうぞ、オイ！」
ゴミクズ三人組のターゲットが透矢へと移った。
このようなヤカラは、他者への共感には鈍感だが、舐められることには敏感なのだ。
「いや、その、彼女は嫌がってるから……」
「はあ？ 俺らに意見すんの？」
「やっちまおうぜ！」
「リンチ確定！ ウェェェイ！」
ヤカラが透矢を両側から掴み、そのまま持ち上げられてしまう。
「ちょっと、止めっ、うわあっ！」
「ほらよっ！ 死ねや！」
ドカッ！
透矢は三人組に放り投げられ、ホームから線路へ転落した。
「ぐわぁぁぁぁっ！」
落ちた時に後頭部を強打したのか、透矢は目が回って起き上がれない。
そこに電車の到着を知らせる音楽とアナウンスが流れ始めた。
「がっ、ああっ！ 痛てぇ！ 目が……回る。だ、ダメだ、起き上がれない」
ガタンゴトンガタンゴトンガタンガタンゴトン！
ブオォォォォォォォォォォォ！！
線路のレールや枕木を振動させる車輪の音と、激しく鳴らす警笛の音、『ビィィィィィィ！』という緊急停止警報音と人々の悲鳴が入り乱れる。
眼前に迫る電車を、透矢はスローモーションのように見つめていた。
（何だこれは。これで最後なのか？ こんなのってないだろ。何も良いことがない人生だった。クソみたいなヤツらばかりだった）
透矢の脳裏に走馬灯のような映像が流れる。
ギャンブルで負けると彼や母を殴り散らすクソ親父。イジメを繰り返す同級生。他人を嘲笑いバカにしてくる大学同期。パワハラとモラハラのクソ上司。
これがアニメなら、異世界に転生し特殊なスキルを手に入れ、女にモテてヒーローになれるんだろう。だがこれは現実だ。
（でも、もし……もし奇跡が起きて、転生することになったのなら……。そ、そうだ、俺は全てを呪ってやる！ 俺はクソみたいな人間を許さない！ 俺は……人類の敵になって、人類滅亡まで戦い続けてやる――――）
電車に轢かれる瞬間、透矢の意識はブラックアウトした。
