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32.砂の王国の最後(1)

 アトゥールは困惑していた。自分が立っているのは、ーー勘違いでなければ、ここは父の描いた絵で見た王城の広間ではないだろうか。

 父はものを覚えることと絵を描くことに秀でた人だった。共に暮らした穴蔵には写真のように精緻な筆致の絵がいくつも残されている。





「アトゥール!」


 勢いよく抱きつかれて、アトゥールはよろよろと後ろに倒れ込みそうになる。そっと背中に添えられた手は、誰のものだったのか。


 胸の中にいるのはテトだった。テトは、アトゥールの顔を見るなりへにゃりと笑った。その目には涙の痕があった。


 広間はしん、と静まり返っている。

 王侯貴族と思われるたくさんの人間たちがそこには居て、誰もがアトゥールのほうを凝視していた。


「ーー早く、奴らを捕らえろ!」


 長い黒髪を高い位置で結わえた、褐色の肌の青年が真っ青な顔で喚いた。髪色からして王族の者であろう。アトゥールは、ぴたりと動きをとめた。その青年の面立ちは、あまりにも父の篤司に似ていたのだ。


 青年の一声で、近衛兵たちが一斉に手をかざし、攻撃の体勢に入る。

 アトゥールは、長い生の終わりを悟り、テトをしっかりと胸に抱き込んでかばい、きつく目をつむった。

 ところが、ーーなにも起こらなかった。






 恐る恐る目を開けると、世界は停止していた。アトゥールたちの周りには、淡い緑色に発光する膜のようなものが張られている。そして、まるで影を縫い留められたかのように、広間にいるすべての者がぴしりと硬直していた。近衛兵も王族も、貴族たちも皆。


 ふと周りを見渡して、アトゥールはひっと息を呑む。アトゥールのすぐ後ろには、父の日記に残されていた銀髪の悪鬼が立っていたのだ。残されていた絵と寸分違わず同じ容貌である。--あれは異界に居たものではなかったのか。

 アトゥールはテトを抱えて、ずるずると後ずさりした。


「アトゥール?」

「テト、おまえだけでも早く逃げるのだ。あれは恐ろしい悪鬼だ」


 アトゥールが言うと、悪鬼の周りに居た者たちがじろりとこちらを睨めつけた。

 当の悪鬼は、片腕に美しい少女を抱き、もう片方の手を不思議そうに開いたり閉じたりしていて、アトゥールたちの話を聞いている様子がない。




「貴様、翡翠さまを知っているのか」


 毛むくじゃらの耳が生えた少女が、威嚇するような顔をこちらに向ける。蝶の羽を持つ女に、鳥の翼を持つ男……。人に擬態しているが、これらはまさか、悪鬼の家来ではないか。


「葉留、どいて。僕が視たほうが早いよ」

「でも朱貴。ナカミの魔術を使えるほどの力なんかもう残ってないでしょ?」

「いいや、それがこちらに来てから、力が漲っているんだ。たぶん久しぶりにかなりの精度で調べられると思うよ」


 そう言うと、左頬に白い鱗を持つ端正な顔をした男が近づいてきて、アトゥールの頭を鷲掴みにした。抵抗して暴れてみるものの、自分が耄碌したのか、この者のこの華奢な体のどこにそんな力があるのか、ーー男はびくともしない。


「ご老人、動かないほうがいいですよ。僕の力は記憶に干渉するものです。膨大な記憶をほんの一瞬で理解できるんですけどね、動かれると変にいじってしまうかもしれない」


 男は不敵に笑う。それを聞いたテトがアトゥールを押さえにかかった。







 ーーややあって、男は頷いた。


「翡翠さま、わかりましたよ。いやあ、本当に面白い。どうしてこんなことが起こりうるのか……」

「朱貴、もったいぶってないで、さっさと話せ」


 悪鬼がぴしゃりと言う。朱貴と呼ばれた男は、こほんと咳払いをすると、話しはじめた。


「では、結論から言います。この老人は、あの男の息子です。璃珠さまを利用していた、茶色の髪の……」

「ーーなんだと?」


 悪鬼がじろりとこちらを見て、アトゥールはびくりと体を硬くした。


「ひと通りわかったんですけど、まあ、今はいいでしょう。ーーこの国、壊しますか?」


 男はごく軽い調子で言った。それは、まるで子どもが組み上げた積み木を前にしたかのような感じだった。


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