31.おやすみ、アトゥール(2)
穴蔵に帰ってくると、どっと疲れて、アトゥールは倒れ込むように眠ってしまった。
目を覚ますと頭ががんがん痛んだ。オアシスの地下水を汲んだものを一気に飲み干す。
それから部屋の片づけと掃除をし、意を決して、父が寝ていた部屋に入った。
枕元には日記があった。
アトゥールは、初めて父の生きてきた道を知った。
ここではない別の世界で生きていたこと。あるとき召喚されてやってきたこと。アトゥールが生まれた理由には悲しくなったが、ーーそれでも、父はアトゥールを愛してくれていたと思う。
日記は何十冊にも及び、その中には父が王配教育を通して学んだ膨大な知識も詰め込まれていた。アトゥールは何日も何日もかけてそれを読み込んだ。
はじめに考えたのは復讐だった。だが、それは現実的ではなかった。穴蔵にこもる逃亡者が、どうやって王家と闘えるというのか。
いや、一番の理由は怖かったからだ。アトゥールは臆病者だ。しかも、自分のことが一番かわいい。命を賭してまで復讐を遂げようとは、どうしても思えなかった。
アトゥールは自分を責めた。そして、今まで通り、穴蔵で静かに生きていくことを決めた。
朝、決まった時間に起きて、魔法で食事を出す。
父の残した日記を用いて、自分なりにまとめた論文のようなものを作る。
それからまた食事。午後はねむたくなるから、穴蔵の片づけと掃除にあてた。
そして夜は早めに布団に入ってしまう。
穴蔵にも時間の感覚はあった。ここには天窓があるのだ。地下深くのこの空間にどうして陽の光が届くのかは不明だったが、天井の窓から光が入ってくれば朝。真っ暗になれば夜だと自然とわかる。
ちなみに暇にあかせて王国の地図と照らし合わせて計算してみたところ、この穴蔵の天窓は、貧民街の地底湖の真下にあるという結果になった。
それから十ヶ月ほど経ったころ、アトゥールは街に出てみることにした。
穴蔵の中で作っておいた工芸品を魔法鞄に入れる。これは父が生きていたときからの習慣だ。親子は昼間、ちまちまと髪飾りや小物を作って過ごし、それをたまに街に出て売って金を得ていたのだった。
穴蔵には、父が王城からくすねてきた高価な品々がいろいろあったが、それらはなにかあったときのために手元に置いてあった。
父は手先が器用で、革新的なデザインの女性用の髪飾りなんかは飛ぶように売れた。アトゥールもその才能は受け継いでいたようで、幸い、父と同じような細工を作ることができた。
街の広場に即席の店を構えた。ここは、店を持たぬ者たちのための場所であった。
王都の外唯一の街から訪れた行商人や、貧民街の人間でも手先の器用な者であったり、めったにないことだが他国から来た商人が並ぶこともあった。
しばらくすると、一人の女性がやってきた。彼女が手にとったのは、細長く切った布を、折っては巻いて、折っては巻いてをくり返し作った、小ぶりの薔薇がたくさんついたバレッタであった。
「この髪飾り、ーー子どものころにほしかったものに似ているの」
その人は栗色の髪に空色の目をしたかわいらしい雰囲気の人で、年のころはアトゥールと同じくらいに見えた。
「でも、それからいくら探してもみつけられなくて。ーーおいくらかしら」
「ああ、いいですよ。差し上げます。……もしまた会えることがあったら、なにか買ってください」
どうしてその人に髪飾りをあげようと思ったのかはわからない。だが、その優しげに垂れた瞳が、無性に懐かしかった。
その晩、アトゥールは街の安宿に泊まった。行商にくるときは父がそうしていたからだ。
翌日も広場で店を出していると、またあの女性がやってきた。その人とは、昔からの知り合いのように話が合った。
結局、ほかの客は寄り付かなかったけれど、アトゥールは女性と仲良くなった。彼女は、名をカミラと言った。思っていた通り、上級商人の娘であった。
なんとなく穴蔵に帰りたくなくて、アトゥールは、安宿に連泊しては、広場での行商を続けた。
いつの間にかカミラと帰りに食事をするようになり、共に街を歩くようになり、さらに彼女ががその宿に泊まり込むようになって、ーー二人は恋人同士になっていた。
カミラは淋しい身の上だった。
父が迎えた後妻と義姉に嫌がらせを受けていたのだ。地上で暮らす者たちなら屋敷にこもって過ごす暑い時間帯に、こうして外に出されているのも同じ理由であった。しかも、結婚前の娘が外泊を続けても誰も探しに来ようともしない。ないがしろにされているのは明らかだった。
カミラと過ごすようになって、アトゥールは、自分がこれまでひどく淋しかったのだと気がついた。優しく穏やかな父がいつもそばに居てくれたものの、本当は誰かと街を歩いたり、美味しいものを分け合ってみたりしたかったのだと。
カミラの事情を知ったアトゥールは、この娘なら、穴蔵に連れ帰っても大丈夫かもしれないと思った。この街に居場所がないのならーーと。何よりも、二人の間には、ずっと前から互いを知っていたような安心感があった。
アトゥールはカミラに相談した。いっしょに逃げる気はないかと。カミラは喜び、泣きながら頷いた。
互いに準備もあるので、三日後の晩に、広場で落ち合う約束をして、二人は別れた。ーーそれが永遠の別れになるなど思いもしなかった。
三日後、アトゥールは約束の広場でカミラを待った。だが、月が高く昇っても、空が白んできても、夜が明けても、カミラがやってくることはなかった。
アトゥールは知らなかった。
カミラが二人の子を身ごもっていたことも、穴蔵と外の世界では流れる時間の速さが違うことも。カミラはもう二ヶ月近くも前に約束の場所へやってきて、義理の家族によって捕らわれ、王都の外に放り出されていたということも。
穴蔵と外の世界で流れる時間が違うことには、カミラとすれ違ってはじめて気づいた。大事なことを書き留めておいてくれなかった父を少し恨む。ーーだが、アトゥールは思ったのだ。自分が約束を破ったから、カミラに愛想をつかされてしまったのだと。
アトゥールは傷つくのが怖くて、カミラを探さなかった。
慎重に時期を選びながら、たまに街に出てきて行商を続けた。だが、カミラにも、カミラが結婚したかもしれない相手にも、カミラの子どもにも出くわしたくはなかったので、広場に行くのはやめ、店を開拓しては直接売るようにした。
アトゥールは、やはり知らなかった。
砂漠の秘密の地下洞にカミラが逃れていたことも、自分の子どもが、孫が、そこで生まれ育っていたことも知らずに、ただただ傷ついたまま年老いていった。
ただひたすらに書物を読み、穴蔵を快適に過ごせるように改造したり、絵を描いたり。
そうして穴蔵では六十年、外の世界で六百年近い月日が流れたころのこと。アトゥールの穴蔵に、一人の少女が落ちてくる。黒髪に空色の目をした、アトゥールの遠い遠い子孫が。
もちろん、アトゥールは、彼女の血筋に気がつくこともなかった。
それは、日が高く昇ったころに起きた。
テトを送り出してから、まだほんの数日しか経っていない。それなのに、鏡守のペンダントが光っていた。
これは父の篤司が王城からくすねてきた国宝で、対のペンダントを持っていれば相手の危機に一瞬にして駆けつけられるものだと、日記には書かれていた。
アトゥールは、対になるペンダントを首から下げて生活していた。
突如、胸元にちりっとした熱さを感じたかと思うと、ペンダントがまばゆい光を放ったのだ。慌てて家の中をひっくり返して武器を出してきた。
この老ぼれが役に立つかはわからない。でも、せめて最後に、自分を誇れるようなことをしたい。誰かに愛情を返してやりたい。
そんなことを思いながら、アトゥールはペンダントを握りしめた。テトのところへと、つぶやきながら。
その後、アトゥールがこの穴蔵に戻ってくることはなかった。




