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30.おやすみ、アトゥール(1)

「おやすみ、アトゥール」


 それは、父の最期の言葉だった。




 父が死んだのは、もうすぐ四十の誕生日だという晩のことだった。


 少し前から頭が痛いと言っては、よく横になっていたが、その日は朝から布団に潜り込み、出てこなかった。

 顔色も悪いので、街に出て医者に見せるか悩んでいると、奥の部屋で寝ていた父に呼ばれた。父は苦しそうに身体を起こすと、アトゥールの頭をわしゃわしゃと撫で、そして手を握った。

 幼子のときは当たり前だったぬくもりを、もう大人に近い年齢のアトゥールが感じるのはとても久しぶりで驚いた。

 父はいつのまにその手はこんなにもやせ細ってしまったのだろう。

 はくはくと苦しそうにしていた父は、自らにてのひらを向ける。それは眠れないときに父がよくするまじないだった。父の闇の魔力で静かに眠りにつけるのだという。父は、だんだんとろりと重たくなっていく目を優しげに細め、アトゥールにおやすみと告げると眠ってしまい、ーーもう目覚めることはなかった。

 たぶん、それは父の望んでいたことではなかったのだと思う。






 アトゥールは、生まれた時からこの穴蔵で暮らしていた。彼は、父親以外の人間と関わったことがなかった。たまに行商で街に行くことがあったが、最低限のやりとりだけで、アトゥールには友と呼べる人間は居なかった。



 アトゥールがはじめて穴蔵を出たのは、六歳のころだった。

 どうやって出るのかと思っていたら、奥の部屋に隠し扉があったのだ。扉を開けると、虹色の光の膜が張っており、その向こうにうっすらと街の喧騒が見える。


「用心して行かなければならない。ーー私もこの扉をくぐったことはないのだ。何が起こるかわからないからね。君がいっしょに出かけられるようになるのを待っていた」


 父は、アトゥールの髪の毛を大判のターバンで隠し、自分のもまた、同じようにした。


「アトゥール。この国では、絶対に髪の色を見られてはならないよ。それは君の破滅につながる」


 そうして父とアトゥールは、恐る恐る扉をくぐり抜けた。それからふと街を見渡して「ずいぶん様子が変わっているな」とつぶやく。




 移動は影の中を進んだ。父の魔法を使うと、他人の影から影へと移動することができるのだ。影の中は夕闇のように薄暗く、そしてひんやりとしている。

 たどり着いたのは貴族たちが集う古書店であった。父は、てのひらに闇の球を作り出すと、それを引っ張りこねて、アトゥールと自分の顔にかぶせた。


「これはね、顔を覚えづらくする魔法だよ。といっても、今思いついたから効果は保証できないが」


 父は、いたずらっぽく笑った。



 父は大量の書物や紙束を買い込むと、ほくほくした顔で魔法鞄にしまった。

 彼はかねてよりアトゥールの教育について心配していたのだ。穴蔵には書物の類いがなかったからだ。それまでは、木の板を加工して、闇の魔力で黒く塗りつぶし、何度もくり返し書きこめる、父手製の文字板でひらがなや漢字を覚え、勉強をしてきたのだった。


「これはこの国では必要のないものかもしれないが、よかったら君が覚えていてくれると、僕が居たって証のようでうれしい」


 父はそう言ってさまざまなことをアトゥールに教えた。後に父が買ってきた書物には、ひらがなも漢字も載っておらず、教えて貰った知識も書物のものとは異なり、しかも、もっと先進的であった。

 アトゥールは父が何者で、なぜ自分たちが穴蔵にこもって暮らしているのか不思議ではあったが、なぜだか聞くのがはばかられて、結局、父が死ぬまでそれを知ることは無かった。





 はじめての買いものの続きは、日用品であった。貧民街では、薬や生活に必要なものをを買い求めていた。最下層から繋がる階段を進むと、そこには闇市がある。少々値は張るが、父はそこでさまざまな薬を買い込み、同じく魔法鞄に入れた。



 一方、アトゥールは決めていたことがあった。なるべく多くの食べものを目にすることだ。見ることができれば、生み出せる。アトゥールには生まれつき命の魔力があった。目にした食べものをそのまま現実に生み出せる、稀有な力であった。



 この力は、赤子のころから無意識に使っていたらしく、父には何度も「君のおかげで生き延びられたんだよ」と感謝された。

 それは、アトゥールの誇りだった。


「君のためにくすねてきたミルクが底をついた時、どうしたものかと悩んでいたが、君は自分の手のひらから哺乳瓶を出して、そのままごくごくと飲みはじめたんだ。あれには開いた口が塞がらなかったよ」


 父は、話しながらく、く、と笑いを零していた。

 アトゥールの能力は不思議だった。食べたことのないものであっても、その見た目と概念さえ分かれば、まったく同じものを出すことができるのだ。父の写実的な絵と説明があれば、なんだって食べられた。恐らく、描いたものの知っている味や食感までをも正確に写し取る能力なのではないかと父が推察していた。

 父のお気に入りは「らあめん」で、アトゥールは「にくじゃが」が好みであった。だが、「にくじゃが」を食べると、父は目を赤くするので心配になった。


  アトゥールは父が大好きだったので、もっと色々なものを食べさせてやりたかった。はじめて街に出てからは、サーブルザント名物の肉の煮込みや、野菜の蒸し料理なども食卓に並ぶようになった。


 父との暮らしは慎ましく、穏やかで、小さな幸せにあふれていた。





 父を失ったあと、アトゥールの心はがらんどうになってしまった。薄暗い穴蔵にたった一人取り残されて、どうしていいかわからなかった。

 髪の毛にターバンを巻き、いくらかの金を持ち、父の亡骸を抱えて街の中へ行く。父と一緒に何度か来たことで道は覚えたし、買いものもできるようにはなったが、こういう場合はどうしたらいいのかわからなかった。


「あなた、どうしたの?」


 声をかけてきたのは七歳くらいの少女だった。栗色の髪に空色の瞳をした可愛らしい子どもだ。その身なりから、貴族か上級商人の娘だろうとアトゥールは推察する。だが、身なりに反して彼女はずいぶんと痩せていた。


「父が死んでしまったんだ。どうしていいかわからなくて……」


 自分よりずっと年下の少女に頼るなんて情けない。そう思いながらも、知り合いもいないアトゥールは、打ち明けざるを得なかった。

 少女は悲しそうに眉を寄せた。


「あのね、死んじゃった人は、あっちのほうに連れていくんだよ。そうしたら、煙になってお空に行けるんだってママが言ってた」


 アトゥールは、少女にたくさんのパンを出して持たせてやると、別れて少女が教えてくれた場所へと向かった。そこにはたくさんの窯があった。

 手続きを済ませると、父は棺に入れられた。


「ーーこれから、どうするんですか」


 嫌な予感がしてアトゥールが尋ねると、窯の前にいた男は怪訝な顔をする。


「なにって、……そりゃあ、当たり前だろう。焼くんだよ」


 アトゥールは目の前が真っ暗になった。男にすがり、亡骸を返してくれと訴える。


「おにいちゃん! なにやってるの!」


 振り返ると先ほどの少女が立っていた。彼女は腰に手を当てて、わざとらしく怒っているように振る舞ったかと思うと、窯番の男に優雅に頭を下げた。


「おじさん、ごめんなさい。ーーおにいちゃんは今混乱しているの。たった一人の父さんだったから……」


 窯番の男は、しゅんとうなだれる。


「兄妹二人になっちまって、これから大変そうだな。ちゃあんと妹を食わしてやるんだぞ」


 男は涙ぐんでそう言い、かごに入ったたっぷりの花を手渡してきた。


「花代はおまけしてやらぁ」


 アトゥールがどうしていいかわからずにうなだれていると、少女が服の裾を引く。


「おにいちゃん、おとうさんの周りに、お花を敷き詰めてあげるんだよ」


 小声でそう言うと、まずは少女が花を取り出して、父の棺に一本捧げた。




「君のおかげだ。ありがとう」


 すっかり小さくなってしまった父は、小さなツボのなかに収まっている。それを胸に大事に抱えながら、アトゥールは少女に礼を言った。


「ーーいいの。じゃあ、またね!」


 少女はそう言って駆け出す。


「待って……! 君の名前を……」


 アトゥールがそう言いかけたときには、もう少女の姿は遠く、見えなくなっていくところだった。


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