27.見つけた運命(2)
璃珠は、淋しい少女であった。
継母と義妹に虐げられ、実の父親には居ないものとして扱われていた。身体が回復してから、学び舎に通いはじめたが、そこでも学友たちには遠巻きにされているのだ。
神域に璃珠が落ちてきたあのとき、確かに目が合ったと思った。だのに、目覚めた璃珠が我々を認識することはついぞなかった。
璃珠に限らず、道行く者たちを見ていて思うのだ。我々に気づく者のいかに少ないことか。ごく稀に畏怖の念を向けられることはあるが、--ほとんど誰も気がつかないのだ。信仰が薄まり、力が少しづつ抜けているのも頷ける。
璃珠の屋敷の中では、継母だけが我々に気がついていた。それは僥倖であった。璃珠に嫌味でも言おうものなら睨めつけてやる。すると、ぴしゃりとおとなしくなるのだ。そればかりか、義妹が嬉々として璃珠に手を出すのをも、青ざめた顔をして止めるようになっていた。
「翡翠さま。あれを見てるだけでも、あたしたちが来てよかったかもしれないね。あたしたちが来る前の璃珠はもっと酷い扱いを受けていたんじゃないかな」
葉留が言った。
はじめはただの気まぐれで助けただけであった。成り行きで共に来た。しかし、この淋しい少女を見守りながら過ごしているうちに、我々の胸の内には、愛着めいたものが生まれていたのであった。
「どうして、我々のことが見えないのだろう」
気がつくと、ぽつりとそう零しており、私ははっとして口を押さえた。
「夢渡りの術を使うのはどうでしょう」
そう提案したのは朱貴であった。
「今の私には、あの術はなかなか使えぬ」
「新月の夜だけならば?」
「ーーそれならば、可能かもしれないが……」
「翡翠さま、そうしよう。あたし、璃珠に会いたい」
葉留が飛び跳ねた。彼女は失くした我が子と璃珠を重ねて見ており、本当は甘やかしてやりたいといつも話していたのだった。
こうして我々は、新月の夜に璃珠を屋敷に招くことにした。
葉留が山ほどのもだんな甘味をこしらえ、七紬は璃珠の着物を縫った。浮雪と朱貴は、不届き者二匹の魂を捕まえて庭に放ち、追いかけ回した。
璃珠を呼ぶ前に話し合い、眷属たちは本当の姿を見せぬことにした。獣の姿のほうが見慣れているだろうという配慮であった。
私に関しては別で、見たことがあるはずもない姿だったので、ヒトガタを取って相対することにした。だが、腕や顔にいくつかついた鱗を見せると怖がってしまうかもしれぬ。そう思い、顔を覚えられぬように幻術をかけておいた。
こうして、私たちと璃珠の時間がはじまった。璃珠ははじめのうち、ただの夢だと思っているようで、動じる様子もなく幸せそうにくつろいでいた。
しばらく同じ夢が続いたことで、はじめて不思議に思ったようだが、そのころには、私自身が璃珠に会えるのを心待ちにするようになっていた。
気の遠くなるような年月を生きてきて、家族と呼べるようなものを持ったこともないが、妹というものがいたならば、こういうものなのだろうと感じていた。
彼女の魂は清らかで美しかった。虐げられても憎まず妬まず、ただ透明な悲しみがそこにあるだけであった。
いつだったか、この家を出してやろうか? と尋ねたことがある。私にも、眷属たちにも、それをしてやれるだけの力がある。
だが、璃珠は首を振った。
「私は子どもだから、この家を出ても行く場所はないの。つまり環境は変えられない。それなら、この場所で少しでも楽しくなるようにがんばってみたいの」
事実、璃珠はあの真っ暗な部屋でも小さな楽しみを見出していた。
小さな星型の護符のようなものを買ってきたかと思うと、壁一面に貼っていた。そしてしばらく、でんわを使って光を当てる。すると、ふたたび暗がりに戻した時に、まるで星空が広がっているかのようにきらめいた。
「うちはお金持ちだし、体裁を気にしているから、おこづかいはもらえるのよ。あの人たちにとっては『金を渡している』という事実が大事なの。そうしたら、ないがしろにしていないって言い張れると思っているのよ」
璃珠は不敵に笑った。
それから、学び舎の帰りに少しずつランプを買い足してもいた。一気に集めると継母に気づかれてしまうので、赤い大きな背負鞄に少しずつ隠して持ち込み、それを何度のあちこちに並べた。
ほの暗い灯りをたくさん灯すと、鬱々とした暗さから、心安らぐ雰囲気に変わるのが不思議であった。
急に開けられたときに隠せるように、こっそり茶色の大きな紙箱も用意してあり、継母が来たときは何事もなかったかのようにぱっとそれをかぶせては誤魔化していた。
それらのランプは、本を読むために使われた。
としょかんという場所に行くと、金を支払わずに一定期間本を借りられるのだという。璃珠は、そこで本を借りてきては、ぼうっと読みながら過ごしていた。
夜になると、璃珠は悪夢にうなされる。我々はそのたびに身が切られるような思いをしていた。
「拐かされたときの恐怖が残っているんじゃないかしら」
そう言ったのは七紬だった。
「この子、大人びた物言いをするけれど、まだほんの十四歳なのよ。大人にだって忘れられない傷はあるのだから、この小さな身体と心であんなことを受け止めきれるわけがないわ」
外に出て理解した。今の世は恐ろしいほど平和だ。確かに、あのような経験をする者などほとんど居ないだろう。
私は、夜になると璃珠の身体を抜け出して、そっと隣に身を横たえていた。璃珠には見えぬし、触れることもできぬ。
だが、そばにいてやることだけはできた。
そして、璃珠を苦しめる悪夢を、少しずつ齧って薄めてやった。神とはいえ、今の私は弱々しい。この程度しかしてやれぬことが歯がゆかった。
どうやっても触れられぬとわかっていたが、その髪をなぞるように手を添えられずにはいられなかった。
あれから何年も経ち、璃珠も大人になった。いけ好かないメガネの男が周囲をうろつくようになったことで、私は、この感情の名前を初めて知った。
そして今。璃珠は、私の腕の中にいる。ーー確かに触れられるのだ。




