24.夜に落ちる
「おおいやだ。この子ったら、魔女ミザリーの肖像画にそっくりじゃない。しかも、元の世界にいたと言われるときの顔よ? 汚らわしいし、ひどく醜いわ」
キンキンと響く耳障りな女の声が不快だ。
「ねえ、おとうさま。忌み子にするのはこっちではいけないの? 本来なら後に生まれた子どもを始末するってわかっているわ。でも、この子はわたくしに似ているでしょう?」
女は猫なで声を出して、父王に迫った。
「だがしかし、後に生まれた子を生かしておくと、国に災いがもたらされるという言い伝えがあるのだ。まさに、招かれざる客ミザリーが呼ばれたのは、そのせいだと言われておる」
難色を示す父王に、女はなおも食ってかかる。耳障りだ。
もう長いこと自分の意識を保てていない。半分眠った状態で、だれかに身体をむりやり動かされている。そんな感覚があった。
双子の赤子は、ゆりかごの中で寄り添うようにしてすやすやと眠っている。俺はなにげなく、その顔に目をやった。
その瞬間、ぱちんと泡が弾けるような感覚を味わった。それは胸の中から、確かに聴こえた。
「美紗希……」
涙がぼろぼろとこぼれてくる。俺は引き寄せられるように赤子に近づき、その子を抱き上げて、頬ずりをした。
黒い縮れ毛のその子は、甘いにおいがしてやわらかく、そして、温かかった。なにより、美紗希によく似ていた。少し丸みのある鼻の形や、薄い耳まで。
霊が見えるなんて作り話だと思われていたことも、おそらく利用されていたことも、--今はわかっている。一方通行の恋だった。悲しいし憤りも感じるが、それでも、あのとき美紗希のかけてくれた言葉がなければ、今の俺は無かったはずだ。
きらいなところもたくさんあったが、それよりも好きなところのほうがずっと多かった。
何年も彼女だけを思い続けた感情さえも消した方がいいと頭ではわかっている。それなのに複雑な気持ちはいまだ燻り続けて、俺の胸の中を絶えず焼き続けていた。
「アトゥーリ、何をしてるの? その子どもを離しなさい。始末するのだから」
女が甘ったるい声でそばに寄ってきて、俺の肩に触れた。ぞわりと寒気がして、俺はその手を振り払った。
女は目を見開き呆然としていたが、次の瞬間、顔を猿のように真っ赤にして怒り出した。扇で俺の頭や肩を叩きはじめる。
金髪の幽霊に捕まったあと、気がつくと、宇宙を小さくしたような部屋に倒れていた。すぐにこの女がやってきて、べたべたとまとわりついたのだ。それからのことは、すり硝子の向こうを眺めているようにぼんやりとした記憶しかないのだが、思い出すだけでもおぞましい。
「ミザリーのお下がりのおまえをかわいがってやったというのに!」
美紗希は死んだ。もう二百年も前に。王配教育として学ばされた歴史書でその事実を知ったとき、感情を抜かれたはずの心がぐらりと揺れたことは、今でも鮮明に思い出せる。ーー同じように幽霊に連れられてきたが、俺と彼女は違う時代に落とされたらしかった。
俺はてのひらを上に向けた。するとぽこぽこと泉のように闇が湧き出し、すべてを包んだ。女とその父親が叫び、怒号を上げている。衛兵を呼ぶベルが鳴り響いた。
俺は赤子を抱いたまますばやく影の中に身を沈めて、人から人へ、ものからものへ、部屋から部屋へと移動する。途中の空き部屋で目立たないように服を着替え、赤子に必要そうなものを調達し、気がつくとオアシスの真ん中まで来ていた。
城じゅうから俺の名を、ーー仮初の名を呼ぶ声が響く。それは怒号に満ちている。赤子もすでに生まれた今、きっと捕まったら殺されてしまうだろう。
それならばと、俺は赤子をしっかりと抱きかかえ、自分たちの身体をシャボン玉で包み込むようなイメージで闇を纏わせた。そうして、オアシスの美しい泉へと身を沈めた。
泉はどこまでも深く続いていた。日本の建物でいうならば、すくなくとも十階分はありそうな距離を潜ったのではないかと思う。
すでに泉の透きとおった青色はなく、辺りは闇に包まれていた。それはまるで、夜に落ちていくような感覚だった。
どれくらい経ったときだろう。俺たちを包む膜がわずかに揺れて、動かなくなった。底についたのだと思った。
次は、ヘルメットとボディスーツのような形状に闇を作り変える。赤子は布で頭を固定した後、紐状にした闇を使い、しっかりと背中にくくりつけた。
何一つ見えない中で、岩壁にぺたぺたと触れながら手探りで進むと、横穴があることに気がついた。そのまま進んでいくと、だんだん水が浅くなってきて、ついには膝下までの高さになった。
俺は、くすねてきたマッチを擦った。この世界に来て驚いたことのひとつが、魔法の鞄の存在だ。その中には無限の空間が広がっていて、必要なものをかんたんに持ち運ぶことができるのだ。
だから、生活に必要なものはあらかた持ってこられたと言えるだろう。
火を灯すと、そこが洞窟になっていることがわかった。美紗希といっしょに住んでいた八畳ほどのアパートと同じくらいの広さだが、これだけあれば十分だ。
俺は魔法鞄の中から、少し大きめのかごを出し、そこに毛布を敷いて赤子を置いた。赤子はうっすらと目を開けると、くわぁと小さくあくびをして、目を閉じた。
幸い、ひと回り以上離れた弟がいて、赤子の世話はなんとなくだが知っている。泣いたらおむつを確認し、替えてやり、汚れたものを洗って干して、また、替えた。
ミルクをやるのは困るだろうなと逃げながらも予測ができたので、乳母たちの部屋に保存されている哺乳瓶もくすねてあった。瓶詰めにした乳は、冷蔵庫のようなアイテムの中にあったので、この魔法鞄の中でどれだけ保つかはわからない。あとで、闇を使って長持ちさせられないかを試してみるつもりだ。
一本を赤子に飲ませたあとは、げっぷがでるように抱き上げてとんとんと背中をさすってやる。小さくて温かい命に触れていると、不安と後悔で涙が止まらなくなった。ひとしきり泣いた後、赤子がすやすやと寝息を立てているのに気がついて、ふたたび籠の中に寝かせた。
「おまえに、名前をつけなくちゃな」
俺はつぶやいた。
「--アトゥール・ツカサ」
赤子はくうくうと寝息を立てている。アトゥーリというこの世界での俺の名前と、慣れ親しんだ名前からそれぞれ取った。
「おやすみ、アトゥール」
すっかり疲れ切っていた俺は、やわらかい毛布を地面に敷いて眠りに落ちた。




