22.選びとる道は
眷属たちの名前を漢字表記に変えました。(2021/06/10)
古巣に何かが居る。最初にその違和感に気づいたのは、いつだったか。折り悪くその場所へ行こうとしている璃珠を、私はなんとか引き止めた。夜道をふらふらしながらもなんとか家にたどり着いた璃珠は、ベッドに倒れ込み、崩れ落ちるように眠った。
私はいつものように、彼女の魂を、あの屋敷の中へと誘った。しばらくは起きないほうがいい。場合によっては、すべてが終わるまでは。
数日が経った。璃珠の身体には、セツナの術をかけてある。飲み食いしなくとも問題がない。
屋敷で彼女に会うことはならない。また嫌われてしまうかもしれないと考えると、胸の奥がばらばらになってしまいそうだからだ。
私は璃珠の外へ出て、すやすやと寝息を立てる彼女の顔を微笑ましく眺めていた。この桃のような頬に触れてみたい。そう思って手を伸ばすのだが、すうっとすり抜けてしまう。身体は冷えていないだろうか、掛け布を持ってきてやりたいのだが、手に持つことさえ叶わぬ。この身がなんと呪わしいことか。
ーーいっそ、璃珠を屋敷に閉じ込めてしまおうか。
私がそんなことを考えはじめたときだった。
「ーーなあ、なんだか変な気配がしねえか?」
浮雪が焦げ茶の頭をかきながら言った。おとなしそうな顔をした少年だが、獰猛な百舌鳥の眷属である。
「少し離れているけれど、禍々しい気配がありますね」
七紬は妙齢の女性に見える、蝶の眷属だ。
「ーー璃珠を狙っているな」
私は四眷属を璃珠の周りに残し、扉をすうっとくぐり抜けた。目の前に立ちふさがったのは、穀物のような色の髪をした亡霊であった。その者は身も心も襤褸切れのようになっているのが見て取れた。そのような状態になっているにも関わらず、虚ろな眼窩が、切られた喉が、必死でなにかを訴えようとしている。
だが、私の璃珠を連れ去ろうとしたのだ。相応の罰を与えなければならぬ。かざした左手にしがみついたのは、中に残してきたはずの、眷属の葉留であった。
「翡翠さま、殺しちゃ駄目です。なにか事情があるんだと思うの。ーー子どもがって、そう聞こえた気がする」
葉留の頬はざっくりと切れて、青い血がたらりと流れていた。いつもはゆらゆらと揺れている尾がへたりと悄気たように垂れている。
私はため息を一つつき、さっと手をかざして傷を癒やした。そして、亡霊にホドキの術をかけてやった。
落ち窪んだ眼窩に青い目が、血の気を失った肌に生気が戻ってきた。痛みを隠すことはできるが、流した血を補ってやることはできぬのだ。決して時間があるとは言えなかった。
「ーーああ、苦しくない……」
穀物色の髪をした女は、自らの頭や喉に恐る恐る触れ、それからさめざめと涙を流し、くたりと倒れるように身体を折り曲げた。
葉留が女を支えるように抱きとめると、はっと我に返って我々を見回し、深く深く頭を下げた。
「たすけていただいて、ありがとうございました。不躾にすみません、でも、どうか、お願いいたします。あたしの子どもを助けてください」
女の目からこぼれた涙が、夜道を点々と濡らして光っていた。
葉留ははっと目を見開いた。その瞳がうるうると盛り上がり、決壊する。葉留は死霊を眷属にした者だ。気が遠くなるくらい昔に、子どもを失っていた。
「なぜこの娘を狙った?」
私が尋ねると、女はびくりと肩を震わせたが、ややあって決意したように表情を引き締めた。
「ーーしるしがあったからです。あたしは、異界の人間を引き込むために送り出された狩人です。条件に合致した人間を見つけたら捕まえるように言われていました。そこの女性には、先ほど確保した人間のしるしがありました。気配というか、無意識に刻み込まれたにおいというか……」
「おまえは、どうしてほしい?」
私が尋ねると、女は少し考え込んだ。
「あたしはどうなっても構いません。もう死んでいるのでしょう? とにかく、テトを、あたしの大事な子どもを助けてやってください。ーーあの国は闇にまみれているんだ。テトを助ける約束でこちらへ送り込まれたけれど、それが守られているかどうか……」
女は俯き、涙をこらえていた。すっかり同情してしまった葉留がその肩を抱く。
「承知した。異界への扉は、お前が開けるのだな?」
私が尋ねると、女は深く頷いた。
「ーーして、どうする? このままだとおまえの魂は直に消えるだろう。眷属として召し上げることもできるぞ。そこの葉留のように」
女は驚き、ぱっと眷属たちの顔を見渡した。
だが、すぐに首を横に振った。
「あの世で会いたい人がいます。だから、あの子さえ助かればいいんです」
それから私は、眷属を引き連れて璃珠の身体へと戻った。
華奢な肢体にマモリの術をかたくかけておく。女が世界を繋げたのだろう。しばらくして、夜の底が抜けるような不可思議な感覚があり、私たちは夜の中を深く深く滑り落ちていった。
気がつくと、星空を描いたような部屋に居た。見知らぬ人間たちに囲まれた璃珠は、不安に怯えている。この胸に抱きしめてやりたい。そして、あのような者たちから隠してしまいたい。
そこで私ははたと気がつく。璃珠の身体から抜け出してしまっている。
ややあって、小麦色の肌に長い黒髪を結った男が入ってきた。そして、あろうことか璃珠に求婚したのだ。私は苛立ち、思わず天井にあった飾りをすべて落としてしまったが、男によって阻まれた。
「なあなあ、翡翠さま。その魔王っていう奴が、あの人の子どもを捕らえているのでは?」
浮雪が言った。彼奴は好戦的過ぎるきらいがあるが、確かに一理あった。
「わたくしが残ります。この場所には亡霊が見当たりません。短時間璃珠さまをお守りするだけなら、わたくしだけでも十分でしょう?」
七紬がほほ笑んだ。私の眷属たちの中では、一番理性的な判断ができる。
「それじゃあ僕も」
朱貴が続ける。彼奴は白蛇の眷属なのだが、切れ者でありながらとにかく怠け者だ。恐らく、どちらが楽なのかを計算した上で言っているのだろう。
私は呆れたが、実際、もうひとりついていたほうが安心ではあった。
ここにはいけ好かないあの眼鏡の童子がおらぬ。良からぬことばかり企んでいるから、汚らわしくて璃珠に近づけたくはないものの、彼奴さえいれば、マモリについては安全だったのだが。
あの者には妖の血が混ざっているのだ。おそらく人間にでも恋をして寿命を縮めたのだろう化け狐の末裔だ。
魔王城とやらの殲滅は一瞬で終わった。一体の妖が、数多の哀れな魂を閉じ込めた塔が鎮座しているだけであった。不気味な猿の化け物を、塔と共に切り捨ててしまえばそれで良かった。
「ーーあっけないものだな」
「それにしても、禍々しい呪法でしたね。俺としてはもっと戦えるほうが良かったけれど、ハリボテの人形じゃあ仕方がない」
私が言うと、浮雪が続けた。
そのとき、押し寄せた群衆の中から、幼子がひとり、砂の中へ落ちていくのが見えた。
私はその子どもを、ーー抱きとめた。そのことにひどく驚いた。この私が、人間に触れられたのだ。
リータとブルハーンのその後。実は『ロゼットに落ちる春』という作品の中にひっそりと入れてあります。ふたりの新しい名前はリサと半次郎。




