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21.魅了の終わりに

 ニスリーン・アル・サウードはその瞬間、ぱちんと泡が弾けるような感覚を味わった。それは胸の中から、確かに聴こえた。


 悲しくて、悔しくて、手に持ったこのグラスの中身を目の前の女にかけてやろうと思っていたのに、今はなんて馬鹿なことをと冷静な頭で考えられる。

 同時に、それまでは狂おしいほど愛しく思っていた目の前の婚約者への感情が、ごっそり抜け落ちていることに気がついた。

 その美しいエメラルド色の瞳を見ても、胸が疼くことはない。安堵する感覚の方が強かったが、心のどこかが寂しいと叫んでいるようにも思えた。



 喧騒の中で、ニスリーンは異界の聖女を観察した。ずいぶん幼く見えるが、いくつなのだろう。

 王家の色の髪に、同じく黒々とした瞳。目も鼻もくちびるも、全体的に小さく、それでいて整っており、強い色を纏っているにもかかわらず、愛らしい印象の少女だと思った。


 彼女が身につけているのは、王家に伝わる漆黒のドレスだ。あれは代々王妃だけが身につけることを許されており、婚姻のときに身に纏うとその者の身に合わせてぴたりと合わさると言う魔法のドレス。国宝級のものだ。

 そう考えると、アイユーブ様は、すぐにでも彼女を妃にしてしまおうと考えていたのだろう。黒の魔女の時のようにしないために。

 だが、皮肉にも、今の状況はあのときと似ていやしないだろうか。千年前の婚約破棄騒動と。





 それは、今から千年も昔のこと。あのスキャンダラスな事件は、王都の芝居小屋で劇として上演もされていたので、ニスリーンもよく知っている。

 物語の冒頭は、こんなセリフではじまる。



「ルルー! 聖女であるミザリーを貶めた罪は許さぬ。貴様との婚約は破棄させてもらおう」


 それは、かつての王子の言葉だ。

 サーブルザント王国に、一人の聖女が現れた。その名はミザリー。長い黒髪にどんな人間をも虜にする愛らしい容姿の持ち主だった。

 殿方がみんな彼女に夢中になり、また、ミザリーもその状況を楽しんでいたという。婚約者がいる男たちを次々に手玉に取りながら、彼女は贅を尽くした暮らしを楽しんでいた。

 故郷の料理を再現させてみたり、気まぐれに国政に口を出してみたり。


 多くの男たちに傅かれていたミザリーだったが、やがて、不満を抱くようになる。最後に狙ったのが、王妃の座であった。

 時の王子に近づき、籠絡したミザリー。彼女は王子の婚約者に害されそうになったと嘘をつき、周囲の男たちは皆それを信じて、婚約者を断罪してしまった。

 か弱い令嬢を、たった一人で砂漠へと放逐したのだ。


 旅の商人が、ぼろぼろに壊れた首飾りを持ってやってきたのは、それから数日後のことだった。


「これを砂漠で見つけたのです。やんごとなき身分の方の持ち物ではないかと持参いたしました」


 それは、煙水晶がはめ込まれた、豪奢な首飾りだったもの。

 王子はそれを見た途端、涙が溢れ出したという。二人は政略結婚ではあったが、互いに愛を育んでいたのだ。その首飾りは、婚約の記念にと王子が贈ったものであった。

 煙水晶には邪気を祓うという言い伝えがあり、ーーそのせいだったのだろうか。王子は正気に戻った。


 そして、ミザリーが魅了の魔術を使って数多の男たちを操っていたことに気がつく。

 王宮を我が物顔で闊歩していたミザリーだがすぐに捕らえられた。そうして腹に宿っていた王子をひっそりと産み落としたあと、ルルー嬢と同じように、砂漠へ放逐されたという。


弟に継承権を譲って、一生を王宮の端にある教会ですごしたという。かつての婚約者に懺悔を重ねながら。


 そんなふうに舞台は終わる。なにせ千年も昔のことだ。どこまでが真実かはわからないが、ミザリーは稀代の悪女として語り継がれている。




 ーーそれにしても。あのおぞましい猿のような魔物。あれが魔王の正体だったとは。

 私はふと聖女を盗み見た。そして違和感に気がつく。瞳が潤んでいるから、魔王の死骸に怯えているのだと思っていたけれど、ーー彼女は侵入者のほうを見ている?




 そのときだった。


「璃珠、こちらに」


 氷のような美貌の男が、この上なく甘い声で言った。

 聖女は顔を真っ赤にし、おずおずと進み出す。アイユーブ様がその腕にすがろうとするが、見えない壁に阻まれるかのように進めない。

 聖女は途中からドレスの裾を持って走り出した。そうして、美しい男の胸に、飛び込んだのだ。

 男は、聖女を強く抱きとめた。


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