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17.婚約破棄

「ニスリーン・アル・サウード! 貴様との婚約をここに破棄する」


 王子・アイユーブの手は、まるで逃がさないとでも言うように、がっしりと私の腰を掴んでいる。


 私たちは大広間のような場所に立っていた。

 そこはドーム状になった天井がいくつも連なっている、豪奢な空間だった。天井にも壁にも複雑な文様が描き込まれ、装飾のある美しい小窓がたくさんついている。そして、天井からはたくさんの灯りが吊り下げられているのだ。


 目の前には、焦げ茶色の巻き髪に、気の強そうな緑の目をした美しい女性がいて、わなわなと口元を震わせ、私のことをきっと睨みつけている。

 そして、着飾った人々の好奇の目が身体中に刺さり、痛いほどだ。






 王子だと名乗ったその人は、私に求婚したあと、戸惑う私の肩を抱いて青い部屋から連れ出すと、その近くの豪奢な部屋に放り込み、驚く私にひらひらと手を振って去っていった。

 そこにはメイド服のようなものに身を包んだたくさんの女性が待ち構えていた。事情を聞こうとしたのだが、彼女たちは飛びかかるように近づいてきたかと思うと、私の服を無理やり脱がせにかかった。


 いろいろなことのあった人生で、大抵のことには動じないと思っていたけれど、女性とはいえ、知らない人に裸を見られるなんて耐えられなくて、怖くて、私は今にも泣き出しそうになっていた。

 鋭い視線に反して、彼女たちには私を害する気持ちはないようで、湯浴みをさせられ、さらに着替えまでさせられた。

 それは黒い豪奢なドレスだった。襟ぐりはオフショルダーになっていて品が良い。ドレスの生地には濃淡さまざまなグレーや黒のチュールがいく層にも重ねられており、見る角度によって少しずつ表情が変わる。そして、生地の上には小さな黒い宝石がいくつもレースのように縫いとめられていた。

 髪の毛は複雑に編み込まれたあと、後ろでふんわりとまとめられた。仕上げに、桜の葉っぱほどの大きさの、大きな耳飾りをつけられた。

 こんな状況でさえなければ、さすがの私も心が踊っただろう。




「お姫さまの準備はできたかな?」


 アイユーブがやってきた。メイドらしき人々が椅子を引き、私は自然と立ち上がることになった。彼は私の手を自分の腕に絡ませる。途端に背筋がぞわりとして、ぱっと飛び退いた。

 王子は大仰に悲しそうな顔をする。すると、たくさんの女性たちは私のことを睨みつけてきた。私は仕方がなく、王子の腕に手を添えた。アイユーブは満足げに緑の瞳を細めると、恭しくお辞儀をして歩き出した。


 私は心の中で叫んでいた。こんな夢は見たくない。ーー夢の中のあの人に会いたい、と。

 だが、叫びたくても、私はあの人の名前さえ知らない。






 数年前に、ひどい言葉を投げつけたあと、あの人に会うことはなかった。いや、夢なのだから、そもそも会ったとは言えないかもしれないのだが。

 何度新月を迎えてもあの屋敷に行くことは叶わないまま、大学生になった。


 転機が訪れたのは、美紗希に付き合って心霊スポットに行くようになったことだった。突然くらりと目眩がして、気を失ってしまうようになった。


 すると私は、あの屋敷にいるのだ。いつものような着物を着ているわけではなく、そのままの私の姿で、屋敷には誰もいない。


「ーーだれか、誰か!」


 私がいくら声を上げても、屋敷はしんと静まり返ったままだ。

 カナヘビもいなければ、蝶や猫たちも居ない。もちろん、あの人の姿もない。

 ただ、屋敷の中には、飲みかけの紅茶だったり、読みかけの本だったりがあって、つい先ほどまで誰かがいたような気配がある。

 そうしていつの間にか意識が引き上げられている。そんなことが何度も続き、なにか病気なのではないかと思っていろいろと病院に行ってみたが、異常は見られなかった。





 心霊スポット巡りなんてしたくない。そう思いながらも、強く拒否せずにいたのは、いつか、また彼に会えるかもしれないと思っていたからだ。

 そのときは謝りたい。そして、あなたを慕っていると伝えたい。


 そう考えて、私は苦笑した。こんな非現実的な恋をしている私は、一生結婚なんてできないのだろうな、と。

 周りの男子を見ても、だれにも恋心を抱くことができないのだ。しかも、居場所を失わないために、何度も気持ちを伝えてくれる紘平くんの言葉にも、気づかないふりまでして。私は、そんな私のことがきらいだ。





 本当は今日も、心霊スポットへ行こうと思っていた。でも、当日になって場所を聞いてやめた。

 天狗森山。それは、昔、誘拐された私が連れて行かれた場所だったのだ。名前を聞くなり気分が悪くなってきてかと思うと、いつもの眠気が襲ってきた。だが、いつもと違ったのは、すとんと眠りに落ちるのではなく、だんだんとうつらうつらし始めたことだった。

 まるでなにかが行くのを止めているかのように。大学を出て家路についたが、途中で動けなくなってしまい、手近なカフェに立ち寄ってアイスカフェオレを飲んだ。けれども、結局そのままテーブルに突っ伏して眠ってしまったらしい。


「すみません、ラストオーダーのお時間なのですが……」


 控えめに声をかけてきた店員に謝って店を出た。外で寝てしまうなんて、と恥ずかしくて、私は夜道を急いだ。外はすっかり暗くなっていて、星が冴え冴えと輝いている。気がついたら私はーー。






 現実を受け入れたくなくて、ひたすら会場に並べられた料理を見て過ごすことにした。真っ白なスープに茶色の粉で模様が描かれているものや、肉の煮込み料理のようなものにはパプリカのような野菜が添えられている。

 ふと、不思議なことに気がつく。その中におにぎりのような食べものが並んでいるのだ。しかも、見慣れた形の卵焼きも。

 すぐ横ではアイユーブの演説が続いている。


「そして、ここにいる聖女リズと共に魔王討伐へ向かい、その後、彼女を妃に迎えると宣言する!」


 アイユーブがそう宣言すると、広間には大歓声が沸き起こった。

 私はそのときはっと我に返って、彼の言葉を思い起こし、ぞっとした。なんだこれは。この人たちは、何を言っているの?






「ーーその必要はない」


 怜悧で、甘やかな声がした。

 全身がぞくりと粟立つのを感じて、ぱっと顔を上げた。そこには、翡翠色の目をした男が立っていた。この世のものとは思えないくらい美しい男が。銀色の長い髪をしどけなく垂らし、胸には翡翠の首飾りが鈍く煌めいている。翡翠を貼り付けたような鱗がところどころ見られる腕には黒髪の子どもを抱えていて、その後ろには四人の男女が付き従っていた。


 男が片手を上げると、銀色の髪をおさげにした少女が高く跳び上がり、アイユーブの前にどさりと、巨大な猿のようなものを投げ落とした。それはすでに絶命していた。

 アイユーブの顔が真っ青になった。


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