15.亡霊の叫び(2)
幸せな時間は長くは続かなかった。
それは十年ほど経ったある日のことだった。商談に出かけていたブルハーンが、傷だらけになって帰ってきたのだ。
その手には幼子を抱えていた。
黒い髪に薄い空色の瞳。少し薄いくちびるや耳の形が、私とまったく同じ。ひと目みてわかった。
この子は、チータの娘だと。
「チータたちは、アンリの街のそばで隠れ住んでいたようだ。地下に続く穴蔵で、迷宮のようになっていた。恐らく、訳ありの人間ばかりが集まって暮らしていたのだろう。ーー見つけたのは、そこが燃えていたからだ」
「チータは……?」
ブルハーンは首を振る。
「生きていたのはこの子だけだった。この子の兄が、守るように覆いかぶさっていた」
チータの子の服はぼろぼろだったが、刺繍の得意だったあの子が、テトと空色の糸で名入れをしていた。テトは9番目という意味がある。
たくさんの子どもたちに囲まれて暮らしていたのだな、と、もうずっと会っていない姉のことを思うと涙が止まらなくなった。
「君には酷な話になるが、ーーあれは虐殺だった。一方的に、痛めつけるために殺していたのだと思う。理由はわからないが、穴蔵は血の海で、ひどい有様だった」
胸がぎゅうっと痛くなった。
双子同士なら、なにかあれば感覚が伝わると訊いたことがあるが、私には、チータの危機は一つもわからなかった。
知らない間に、姉は、死んでしまった。
「この子を僕たちの子どもにしないか」
ブルハーンが、ぽつりと言った。
「え? でも、この国では身分が違うと養子になんて迎えられないだろう?」
「実子にするのさ。結婚してもう十年以上が経った。たぶん、僕たちには子どもは望めないだろう」
私が俯くと、ブルハーンは慌てて「君を責めているのではないよ」と言った。
「幸いこの子はまだ幼い。--君が数年姿を隠せば、誰にも気づかれないんじゃないかと思ってね。アンリのところで二人匿ってもらうといい。言い訳は考えてあるし、ちゃんと会いに行くから」
ブルハーンはほほ笑んだ。この人の賢いところが好きだ。情に厚いところも、穏やかなところも。
「グラソンベリーの、熟しすぎたのはあるか?」
ブルハーンが訊いた。
「ええ、あるけれど……」
「それをこの子に与えるんだ。アンリが言っていた。グラソンベリーには、生命力を伸ばしてくれるという言い伝えがあるそうだ」
「でもこれは、王家にしか卸せないのよ?」
「熟しすぎたものは捨てるはずだっただろう? バレやしないさ」
ブルハーンはそう言って笑った。その表情が、いつかのチータと重なって、切なくなった。
「そうね、じゃあ取ってくるよ。--テト、こちらにおいで」
私は小さな子どもを腕に抱く。テトは驚くほど軽く、しかし、柔らかくて温かかった。
テトは、大きな空色の目をくるくると動かしながら私を見た。そして、笑った。胸の奥がきゅっとして、泣きそうになり、この子を大事に育てていこうと誓った。
「リータ」
ブルハーンが私を呼んだ。ふたりきりのときは、彼は、私の本当の名を呼んでくれる。
「帰ってこられてよかったよ。--君を、愛している」
彼が直接的な愛の言葉を口にしたのは、後にも先にもこのときだけだった。私は照れくさくて、笑いながらその場を後にした。
そして、後悔した。このとき、彼の額に滲む脂汗に気づかなかったことを。
「奥様、旦那様が……!」
メイドが血相を変えて呼びに来たのは、テトにグラソンベリーを食べさせ、身体を清めてやろうとしていたときだった。
ブルハーンの元に戻ったとき、彼は真っ白な顔をしており、もう息がなかった。うつ伏せで倒れたその背中には、十字に深く裂かれた傷があり、服には血が滲んでいたのだ。
あまりのことに信じられなくて放心しているうちに、いろいろなことが目まぐるしく進んでいった。そして、ふとテトのことを思い出し、先ほどグラソンベリーを食べた納屋へと向かった。
そこに幼いテトの姿はなかった。
「ああ、奥様。汚い子どもが入り込んでいたので、貧民街の孤児部屋に入れてきましたよ」
こうして私はテトを失ってしまった。見られてしまった以上、もう、養子に迎えることなどできやしなかったのだ。




